兄と妹の述懐
遥香の作った野菜炒めは何とも言えぬ形容し難い味がした。
野菜由来の若干の甘味があるかと思えば、適当に放りこまれたスパイス各種の強烈な刺激パンチが口内を襲う。それでいてキャベツはふにゃふにゃ、ニンジンは火が通っておらず玉ねぎは辛い。
「まずっ……」
「あはは……、だよね」
まず見た目からして不味いし、味ももちろん不味いし、後味も口の中に残ったスパイスが暴走機関車の如く暴れまわるし、結論だけ言えば最悪という一言に尽きた。
「お前の料理下手ってマジで救いようないレベルだったんだな……。んだよこれ。もう調味料の味しかしねえよ。なんなら調味料食った方がうまいレベル」
「そ、そこまで言わなくても良くない?」
俺の隣で遥香がむっとした顔を露わにする。いやでもねぇ……。こちらとしては言い足りないんだよなぁ……。もうハッキリ言ってゴミ。ゴミの領域。なんなら食ってみればすぐ分かるぞ。
「ほら。お前も食えよ」
「……やだよ、そんなの食べるなんて」
「えぇ……」
じゃあなんで料理してたんですかキミは……。
「だってそれ……絶対不味いし」
「分かってんなら最初から作んなよ……。はっきり言ってこれゴミだぞ」
「それは、その……ちょっと今日は、いろいろあって……」
「はぁ」
見れば遥香の表情がいつにも増して陰っている。先程のハイテンションな遥香とはまるで対照的だ。そういえばこいつ、さっきから様子が変なのである。
いくら料理が苦手だからってこんなゴミ同然の料理を平気で作る奴がいてはたまらない。そりゃ漫画やゲームの世界だったら「お兄ちゃんのために作ったよ♪」とか言ってクソ不味い料理を食わしてくる妹ならキャラ付け的にアリかもしれないが……。でも目の前にいるのは現実にいる、リアルの妹である。
「なんかあったのか」
「……別に」
なんだよその返事。お前アレか。ハルカ様か。
「何もないわけねえだろ。こんなヤケクソな料理作っておいて」
「……ホントに何もないよ」
そう言って遥香はそっぽを向いてしまう。俺と視線を合わせようとはせず、大きくため息をつくばかりで何かを話してくれるような気配はない。
無論何もないと言うなら、こちらとしても構う必要は無いだろう。いつものように『うっさい! 死ね!』とか言ってくる遥香だったら俺もこいつに過度な干渉をしたりしない。
ただ、遥香の今の態度は明らかに今までのそれと異なり、どこか暗澹としたオーラを感じさせるのだ。
「何もない、ねぇ」
まあ本人がそう言う以上、向こうから話す気は無いということだ。そして俺自身もまた、こいつの考えていることに深入りする理由も動機も、あるいは意思も無いのである。
障らぬ神に祟りなし。こいつの問題に俺が深入りする必要はない。ここは恋愛相談部の厄介事から解放される、唯一の安らぎの場所なのだ。わざわざ自宅でも難事に関わるのは御免だし、回避できることならそうすべきである。
――しかし、それは柳津陽斗としての話であり、兄としては別だ。
こいつはクソ生意気でちっとも可愛げのない妹ではあるが、それでも俺の妹であることに変わりはない。
兄として、家族として……。妹である遥香の悩みや不安を取り除けるよう俺が努力することは、動機や意志なんかを越えて、それはもう宿命なのである。そこに俺の本音や意思が介入する余地はない。
ここで俺が引き下がるわけにはいかないのだ。
だから、遥香に改めて声を掛ける。
「いいから教えろって。何があったん――」
「――ああもううざい! もういいから!」
俺の親切な心遣いはガン無視され、遥香は虫けらを見るかのような目で俺を睨み付けると、遂にはリビングから出ようと扉の方へと行ってしまう。
「お前な……」
せっかく優しくしてやったのにひどい仕打ちだった。いやもうね。分かってたよ。所詮リアル妹なんてこんなもんなのだ。もうクソ、オブ、クソ。こんな妹のどこが可愛いというのだろうか。はっきり言ってぶちのめしたい。
ぶちのめしてやりたい、のだが。
――やはりその態度は、どこか違和感を覚えるものだった。
「私、もう行くから」
「待て。お前とは話があるんだ」
「私は無いんだけど?」
「俺があるんだよ……!」
「なによ……、もう……」
あーだこーだ不満を口にする遥香をなんとか引き留めて、ソファに再度座らせる。
「……お前、何か悩んでるんだろ。だったら話してみろ」
回りくどい表現はお気に召さないようなので、単刀直入にそう切り込んだ。
遥香は一瞬、驚いたような表情で俺を見るが、すぐにいつもの愛想のない仏頂面へと戻って口を開く。
「仮にあったとしても、兄ちゃんには関係ないんだけど」
「まぁそれは……、そうかもしれないけどさ……」
ため息交じりにそんな台詞がこぼれた。次に返すべき言葉がぱっと思いつかない。納得しているような、していないような、曖昧なトーンで俺は唸り声を漏らす他ない。
ソファに深く沈み込む俺を、遥香は渋い顔をして眺めている。
確かに遥香の言う通り、こいつの悩みに俺が口を出す権利はない。
だが……。
「お前がそんな調子だと、こっちまで調子狂うんだよ……。それにな。いつもなら俺を無視したり、死ねとか消えろとか言ったりする場面で、なんか変に遠慮されたりすると、どこか気持ちが悪い感じがするんだ」
「……なにそれ。バカじゃないの?」
遥香は呆れた様子で俺のことを睨んだ。
「……ああ、バカだ。俺はバカだよマジで。……せっかく妹が優しくしてくれたっていうのに、敢えて俺は今まで通り接してくれってお前に頼んでるんだからな」
今まで通りの遥香なら、今日一日の出来事だけで俺のことをボロクソ言うに違いない。きっと暴言吐きまくりだろう。そのたびに俺はこいつにムカついて、喧嘩して――そして、いつの間にかしれっと会話できる程度には仲直りしているのだ。
だから、俺に今言えることは……。
「お前がなんか悩んでる様子で、そのことに苦しんでるみたいだったら、兄として悩みの一つや二つ聞いてやろうかなって思うのは、当たり前のことだろ」
悩みに憑りつかれて、苦しいままでいてほしくない。
兄として、それは当然の思いだ。
「…………っ」
遥香は何か言葉にしようと言いかけたのを飲み込んで、それから俺の方を見た。真っ直ぐな視線だった。どこか決心を固めたかのような、凛とした表情をしていた。
「だからまあ、とにかく言ってみろ。お兄ちゃんが全部解決してやるさ」
そう言って、俺は小さく笑って見せる。まあアレだ。とにかく兄である俺を頼ってみろってことだ。どんなしょうもない悩みかは知らんが、大抵のことなら俺にだってアドバイスはできるはずだ。伊達に俺はお前のお兄ちゃんなどやっていない。……そうそう。今日くらい、兄として妹の好感度でも上げておくか――とか思っていたそのときである。
「実は――」
遥香の『悩み』は、俺の想像とは違うベクトルでヤバいものだった。
「――彼氏と、最近別れたの」
「恋愛相談、だと……」
それは妹からやってきた、恋の悩みだった。