春日井美咲の確かな未来
それは智也からのメールだった。
たった一文、簡潔に書かれた内容。
「…………」
そのメールを見た瞬間、俺は思わずため息をこぼしてしまう。
全身の力が抜けるような、あるいは呆気にとられて嘲笑でもしてしまうような、そんなどうしようもない感情に苛まれて、俺はまた、大きく息を吐いた。
その行動は他でもない、自分自身への『呆れ』から来るものだった。
「春日井」
そして、俯いている春日井に声を掛ける。
今までの沈黙がこうも簡単に破られるとは思っていなかったのだろう。春日井は驚いた様子で身体をぴくっと反応させてこちらを向いた。
「まあ、なんだ。いまさらこんなこと言うのも、気が引けるんだが」
意味のない前置きだ。気が引けるとか言っておきながら俺はきちんと言葉にするつもりだからだ。
彼女の表情は依然として陰っている。
それは春日井の抱えている未来への大きな不安を表しているように思えて。
彼女の表情を晴らすためにも。
彼女の欲しがっている言葉をかけるためにも。
俺は、この言葉をかけてやらねばならない。
ゆっくりと、口を開いて――そして、
「――お前、バカじゃねえの?」
と、言ってやった。
「…………は?」
それはもう気が引けるとかそんなレベルではない。
むしろ生き生きと、はきはきと、しっかりアイツの耳に届くよう。
声を大にして、言ってやったのだ。
「聞こえなかったか? お前はバカか、って言ったんだ」
「…………は、え、はぁ?」
「なにが『私は弱い』だ。『私は悪い』だ。バカかお前。どう考えても悪いのはあいつだろ?」
「…………えっと」
「そうだ。悪いのは智也だ。間違いない。部活のマネージャーに告られたから一日限定デートをしただと? ふざけんなって話だ。俺から言わせてみれば羨ま――彼女がいるのに分を弁えろって話だ!」
そうだ。俺たちは間違っていたのだ。
いつかの智也の『夜遊び』事件。
あれは智也が告白してきた部活のマネージャーと一日限定デートをしただけであり、結局春日井の勘違いだったという話だった。つまるところ、智也は何も疚しいことはしていなかったという結論で終止符が打たれた。
だが、本当にそうだろうか。
いくらマネージャーの恋心のためとはいえ、春日井というクソギャ――可愛い可愛い彼女がいるにも関わらず、デート行為に及んだ智也を本当に許していいのか。
――否。否である。ぶっちゃけ羨ましすぎて私怨が入っていることは認めよう。
だがそうだろう? 事実、春日井は智也の行為を許せなかった。智也に罰という名目であれやこれやひどく当たっていたみたいだが、よくよく考えてみれば智也が彼女に対して背信行為をしたと考えればその行動にも説明がつくはずだ。
つまり――
「束縛にATM扱い、殴る蹴る大いに結構! お前は何も間違ったことはしていないんだっ!」
「ええええっ!?」
驚きのあまり、椅子から立ち上がってしまう春日井さん。さっきまでの小さく掠れた声から一転、甲高い絶叫みたいな声だった。
「い、いや、でも……だからって、このままじゃダメなわけでっ? これからどうすればいいかって話なんだけど――」
「そんなもん、お前の気が済むまであいつを虐めればいい。全然許せないんだったら暴力に訴えてもいいさ。うん。俺が許可しよう」
「ええ……」
まあ俺の許可ってなんだよって話なんだが。
春日井は口をあんぐりと開けて、呆気にとられている様子だった。まさか自分が肯定されるとは思いもしなかったのだろう。
もちろん春日井は分かっていたはずだ。自分が智也に対して行っている過度に冷たい接し方は、二人の関係にとって良くないことだと。
でも春日井は自分の気持ちに嘘をつけなかった。自分の正義を貫きたかったのだろう。正しいやり方を分かっていても、そうすることができなかったのは、自分に嘘をつきたくなかったからだ。
だから春日井は俺に相談を求めた。二人の関係が壊れてしまう前に、違う解決策を模索していた。自分のやり方は間違っているから、自分も悪者だから……と。あるいは二人の関係を保証してくれるような優しい言葉が欲しかったのかもしれない。
だが、そんな必要は無かったのだ。――うん。そうそう。悪いのは智也だ。
いや、だってねぇ? あいつってば、マジで女たらしだからな! イケメンだし優男だし気が利くし加納とか親しい女友達には『ちゃん』付けだし、おまけにイケメンだしマジで意味分かんねえ。なんで生きてんだよあいつ。
まあ、女たらしかどうかは置いておこう。だがそもそも、彼女がいるのに他の女子とデートをして良いのだろうか。……え、イケメンだから許される? 謝ったから無かったことにしてくれだと? ほぉぉー、良い御身分なこって。もうそんな奴は切り捨て御免である。江戸時代だったら絶対死罪にしている。俺が。
だから、春日井の態度全てを肯定してやることは何も間違っていない。端から前提が間違っていたのだ。悪いのは智也。そういうことだ。……はい、おしまいっ。
「で、でもそれじゃ何の解決にもなってないんですけど……」
だが、春日井は納得してないようだった。
「まあ確かに」
言う通りだ。これではあくまでも解決じゃなくて問題の解釈を変えただけに過ぎない。
だが、確信があった。このままでいいのだと。
「いくらこうして正当化したところで、お前が変わらなきゃ二人の現状は変わらないかもな」
いずれ二人の破局……なんてことになる可能性はもちろん否定できない。
だが春日井はそれを望まない。二人でこれからも幸せになりたいと願っている。
自分に嘘をつくこともしたくない。でも二人でいたい。
その二つを追い求めることは、わがままだろうか。
――そんなわけがない。
「でも大丈夫だ。お前が智也のことを許せるようになるまで、お前は自分を貫けばいい。それがわがままだとしても、あいつは絶対に待ってくれるから」
「……そんなこと、分からないよ」
諦めたような顔で、春日井がポツリと言う。
「何言ってんだ。彼女なら彼女らしく、彼氏のことを信用してやるのも大事だぞ?」
「……この流れで信用とか言う?」
ジト目で春日井が俺のことをじーっと睨む。んん、まあ。彼氏のことをまだ許してないのに信用もクソもないですよね。はい、そうですね。
でも、きっと智也なら待っていてくれる。
俺は見てきた。あいつの春日井への溺愛っぷりを、散々なくらいに。
だから、絶対に春日井のことを見放したりはしないんだと。
親友である俺が、ここで保証してやるのだ。
「――お前、もうすぐ誕生日だろ」
脈略もなくそう聞くと、春日井は少し驚いた顔をした。
「そうだけど……。なんで知ってんの?」
「さっき、智也からメールが来たんだ。『美咲への誕生日プレゼント、選ぶの手伝ってくれねえか』って」
ただ一文、それだけのメールである。
それだけである。それだけのはずなのに。
――あいつの春日井への思いがこもった、本当にどうしようもない連絡だと思ったのだ。
「先週もお前の誕生日を気にかけてるみたいな様子だったからな……。あいつの友達として、俺が保証してやるよ。絶対に智也はお前を見放さないって」
あいつほど彼女にご執心な奇特な奴を、俺は他に知らない。
それに夜遊びの一件に関しても、何より智也自身が、他の誰よりも春日井に申し訳なく思っているのだ。
智也が春日井からの冷たい態度に何も文句を言わないのは、自分が行ったことを申し訳なく思っているからであって、春日井の行いの正当性を無意識に肯定しているからではなかろうか。
であれば、そもそもこんな恋愛相談は解決する必要もないわけで。
「まぁなんだ。つまり、お前は今まで通りでいいんだよ」
智也と春日井の関係は、きっとこれからも続いていくと信じているから。
二人がその未来のために歩んで行けるように。
俺は最後に、一つだけアドバイスする。
「でも智也の友人として、これだけは守ってほしい」
――それは、本当に些細な願いだった。
「もし智也のこと許す気になったら、ちゃんと仲直りしてくれよな」