彼女の安堵は恐らく。
「とにかく、上のフロアも見てみるぞ」
まあガキ扱いされるのには慣れている。俺は精神年齢が低いからね。うん。
鳴海も合流したので、二人で上のフロアに戻る。
――再びやって来た仄暗い空間。
「まさかとは思うが、今頃二人の関係がヤバいことになってる、とかな?」
まあ本当にまさか、だが。今日の様子では、あの二人が関係を進展させられるとは到底思えなかった。
しかし水族館というシチュエーションが二人の恋心に火をつけた、なんてことも。
こんなに薄暗くて、なんかいい感じの音楽もかかってて、周りはカップルだらけ。ムードとしては申し分ない。きっと二人の心の奥では望んでいる展開でもあるはずだ。可能性は否定できない。
そんなことを考えつつ、鳴海の反応を窺った。
「…………えっ」
――鳴海は、声を詰まらせていた。
薄暗くても、鳴海の表情の変化ははっきりと分かった。
大きく見開いた目と、僅かに震える口元。
まるで驚きを露わにするかのような、あるいは不安を隠しきれていないかのような。
そんな姿を、俺は見た。
「ど、どうした……?」
思わず声を掛ける。
ヤバい。何か変なことを言っただろうか。あるいは無意識にセクハラじみた発言でもしたのだろうか……。そんなつもりないんだけど。でも今って何でもセクハラになっちゃうからなぁ(ただしイケメンは除く)。ヤバいなぁ。不安に駆られて思わず俺の声も震えてしまう。
「う、ううん……なんでもないよ?」
「そうか? それなら、いいんだけど……」
鳴海がそう言ってくれたおかげで、とりあえず俺のセクハラの件は無いみたいだった。よかったー。危うく俺の将来見えるところだった―。飲み会で部下の女性にセクハラ発言をしてドン引きされるおっさんになるかと思っちゃった。危ねぇ危ねぇ……。まあ俺は飲み会なんて行かないし、セクハラ発言どころかまともに女子と喋れないので、そんな未来は待っていないんですけどね。
とかどうでもいいことを考えていた時である。
視界前方、大きな水槽の傍に一組の男女を捉える。
「――あれ、犬山と小牧じゃないか?」
「えっ?」
間違いない。ちょうど照明が当たっている位置で、二人の笑っている表情までよく見える。あれは犬山と小牧だ。
何をあんなに笑いながら話しているんだろうか……。なんだか楽しそうである。会話に夢中で順路を進まなければいけないことを忘れているみたいだった。――もしかしなくてもアイツら話に夢中になり過ぎて遅れてたのか……。
二人は互いに顔を見合わせて、それからまたくすくすと笑っていた。なんともまあ幸せそうである。……ちょっとイラっとするくらいに。ちょっとでも心配した俺たちの気持ちを返してほしい。まったく。……いや、まあ。俺は心配なんてしてないんですけどね。むしろなんか起きねえかなぁとか思ってました。ごめんなさい。
つまるところ、二人はただ遅れてきているだけのようだった。どうやら二人の雰囲気も良さげで、先ほどより明らかに会話が弾んでいる様子が窺える。
これってもしかして水族館が原因で二人はぎくしゃくしてたんじゃなくて、単純に周りに俺たちがいるからあんなにたどたどしい会話になっていた説がありますね。てか絶対そうですね。
「なんだ……、あいつら普通に良い感じじゃねえか」
俺たちのサポートがなくとも、二人は幸せそうに笑っている。そこにあったのは他でもない、ごくありふれた『普通のカップル』の姿だった。
よくよく考えれば、二人はそもそも幼なじみなのだから、変に気負わなければ普通に話せるわけで。俺たち外野がかえって二人の邪魔をしていたのだとしたら、あそこにいる二人の笑顔が、本当の犬山と小牧の姿を表しているに違いない。
「これはもう、お役御免って感じだな……」
いったい俺たちが何をしたのか……、いや、俺たちはマジで何もしていないわけだが、どうやらこの相談は解決に向かっているということらしい。
――二人がこちらの方へとやってくる。
別にそうする必要もないのだが、俺たち二人は物陰に隠れて二人をやり過ごす。
いま二人の間の入るのは、無粋以外の何物でもないだろう。
「……良かったな、マジで」
いやぁ本当に良かった。何もしてねえけど。
思えば俺たちは何を心配していたんだ、という話だ。
そんなことを思いつつ、隣の鳴海に視線を向けた。
「ホントに……、良かった……」
「そうだな」
鳴海に同調する。見れば鳴海は魂が抜けたみたいに目がトロンとなっていて、安堵の表情を浮かべている様子だった。
「驚きすぎだろ……」
「ご、ごめん……」
鳴海が小さく笑ったのを見て、俺も肩の力を抜く。
「そりゃあいつら、さっきまで変な感じだったけど……。なんだかんだ仲いいわけだし、このまま放っておいても勝手に幸せになるだろ」
「そう、だね……」
まだ力が抜けっぱなしの様子の鳴海が、笑みを浮かべながら何度も呟く。
「本当に、本当に、良かった……」
そうだ。二人はもう大丈夫だ。
何をしたわけでもないが、あの調子ならきっとうまくいく。
心の底からそう思えた。
そのとき、鳴海に対して抱いていた違和感は。
たぶん、あっという間に忘れ去られてしまったのだろう。