恋愛相談部とエピローグ
部室に入ると、そこには誰もいなかった。
しんと静まり返った部屋。グラウンドからは今日も運動部の掛け声が聞こえる。
部屋の中は冷房が切れていて、むしむしと暑い。エアコンのスイッチを入れてから俺はいつもの席に鞄を置いた。それから読みかけのラノベを手に取る。
この俺が一番乗りとは、珍しいこともあるもんだ。
いつもなら、学校一可愛い女の子が一番乗りしてるんだけどな……。んで俺が部屋に入ってくるとゴミを見るかのような目で一瞥して、「なんだ、今日もいるのか」とか言うんだぜ……、あいつ。そもそもこの部活に強制入部させたのあいつなんだけど。まあ加納のことはどうでもいい。
――あの日から、一週間が経とうとしていた。
時間というのは無慈悲なもので、あれだけ壮絶な出来事があったにも関わらず、俺はあの日のことを思い返すことも少なくなってしまった。
もちろん、あの出来事を忘れたわけじゃない。……いやマジマジ。俺にとってはトラウマものだったし。怖い思いするわ醜態を晒すわおまけに女子に助けられるわで恥ずかしい思いの詰め合わせハッピーセットみたいな出来事だったからむしろ忘れたいくらいなのだが、忘れたわけじゃない。
結局のところ、そんなこともあったなぁくらいにしか今は思っていないのだと思う。
いつまでも度々思い返すことではないし、いつまでも覚えていなければならないわけでもない。
ただ、記憶の片隅にとどめておく程度だ。それくらいでちょうどいい。
「…………さて、続き読むか」
恋愛相談部は、相も変わらず活動している。特段変わったことは無い。
俺とて、恒常化した日常を悠々と過ごしている。
放課後にはこうして部室に赴き、よく分からん恋愛相談を聞き、いったい俺は何のために活動しているのか分からないまま時間だけが過ぎていく……。俺の高校生活は今日も今日とて無駄遣いされていって―ホントになんでこの部活やってんだ俺。
結局、これと言って変わったことは無いという話なわけで。俺は依然として加納に脅された立場から抜け出せないままだ。
だがまあ、小さく変わったこともいくつかあって……。
「――ん?」
ノックも無しに扉が開かれた。からりと軽い無機質な音。
一人の女子生徒が部屋に入ってくる。
「……よう」
朗らかな俺の挨拶を完全に無視してその女子―加納琴葉はいつもの席に座ると、ゴミを見るかのような目で俺を一瞥して、一言。
「なんだ、今日も生きてるのね」
「……あれ、なんか台本と違くない?」
お決まりとなってしまった加納の罵倒。最近はルーティーン化してしまったせいか、これがないと部活が始まった気にならないまである。もうほんとにね、癖になっちゃたレベル。むしろ禁断症状。俺の性癖はどこへ向かっているんだろうか……。
「エアコン早くつけておいてよ、暑いわ」
「俺も今さっき来たんだよ……」
「なーんだ、使えない」
そう言って加納は露骨なため息をつく……。ホント毎回会うたび癇に障るなこいつ。
俺はいつか絶対加納を泣かせてやると誓いながら、視線を手元の物語に落とす。
「それにしても、さっきは本当に参ったわ。クラスの男子たち、全然私のこと部活に行かせてくれないのよ」
「はぁ」
「ホント、嫌になっちゃう。誰かに求められるっていうのも大変ね」
「……あぁ」
「相変わらず私が可愛いのがいけないのかしら」
「…………」
「……ちょっと聞いてる?」
「聞いてねえよ」
こいつの自慢話を聞いている間ほど無駄な時間はない。
俺は手元の文庫本から視線をどこに移すでもなく、干乾びたカエルみたいな声を上げる。
――あれから変わったことその一。加納が多少は俺に口を利くようになった。
少し前まで俺の方から話しかけても「ああ」とか「ええ」とか母音しか発しなかった奴が、最近は部室でそこそこ喋るようになったのだ。
そんな大したことかって? まあ確かに傍から見たら小さな一歩かもしれない。だがラブコメ的に見たらこの変化は大きな躍進なのだ。
「はぁ? なんで聞いてないのよ?」
ただ、この変化を良い悪いで判断するとなると難しいわけで。
「アンタそれでも人の恋愛相談を聞く部員としての自覚があるわけ?」
「全然関係ねえだろ全然……」
こんな感じで、幾分加納のウザさが膨れ上がってしまっているのだった。正直黙っていてくれている加納の方が俺的には好感が持てる。こいつは喋らなければメインヒロインになり得たに違いない。ホントに。喋らなければ。
俺はため息交じりに文庫本を閉じると、いつもの調子の加納に忠告の意味で口を開く。
「だいたいお前、危ない橋を渡ったってこと気付いてんのか。この前のこと、一歩間違ったらお前の『本性』が全校に拡散されてたんだぞ」
「別になんてことないわよ。結果的に先輩が口を噤んでくれているからそれで良いの。今日も私は、クラスでみんなの求める『かわいい加納琴葉』だったわ」
「あそうですか」
呆れた声で最低限の返事を返す。
「まあお前がいいんならいいんだけどよ……」
「何よ。何か不満でもあるの? 鳴海ちゃんのことはしっかり区切りがついて、私の秘密が露呈する心配もなくなった。これ以上ないハッピーエンドじゃない?」
「いやまあそうなんだけどさ……」
別に不満があるわけじゃない。とどのつまりあの日の作戦は成功し、鳴海も加納も結果的に見れば大団円を迎えたと言って良いだろう。
ただ、何となく。
「なんかお前が幸せそうにしてるのを見ると腹立つんだよな」
「はぁ? 何よそれっ!」
くいっと口角を吊り上げた加納。彼女は俺に近付くと握りこぶしを作って見せて――くっ! 脇腹の傷が痛ぇ……。本当に古傷みたいになってんな、これ……。だから俺はラノベ主人公かよ。
と、再び扉がからりと開けられる。
音にぴくんと反応した加納が扉の方へと目をやる。その姿を見て、俺も「そういえば今日だったな」とそのことを思い出した。
そのこと――変わったことその二、というやつである。
「し、失礼しまーす……」
やけに震えた自信の無さそうな声。魚のようにすいすい泳がせている目。不安感丸出しのおどおどした態度。それだけの特徴が揃えば彼女を見間違えることなんて無い。
――鳴海莉緒が、入部したのだ。
「よろしくねっ。鳴海ちゃん」
加納が満面の笑みで鳴海の方へと近寄っていく。
「あ、うん。よろしくね……」
「手芸部と兼部で大変だと思うけど、頑張っていこうね!」
「ありがとう、加納さん」
「そんな他人行儀じゃなくていいよー」
加納は小さく笑って、思いついたようにピンと人差し指を立てた。
「そうだ。せっかくだしあだ名で呼び合うのはどう?」
「……あだ名、ですか」
加納の距離の詰め方に怖れをなしたのか、鳴海の方が敬語になっていた。まあこいつは表でも裏でも距離詰めるのが早いからね。いつのまにか俺のこと下の名前で呼んでたし。
あだ名、かぁ。嫌な思い出がよみがえる。
でもあだ名なんてそう簡単に思いつくものじゃないと思うけどな……。
鳴海はうーんとしばらく考えた後に、恐る恐る口を開いた。
「じゃ、じゃあ、『こととん』っていうのは、どうかな?」
「い、言いにくいかな……? もうちょっと簡単なのは?」
「そう……? じゃあ『ことこと』」
「あんまり変わらないわ……」
「『こととこ』」
「だから変わってない」
「『爆乳』」
「今のは陽斗くんよね? こっち見てちゃんと言ってね?」
……ちっ、バレたか。流れでいけると思ったんだけどな。
でもいいじゃん。もうあだ名『爆乳』で。実際立派なものあるんだし。なんなら分かりやすいしなっておい睨むな睨むな。そんなドスジャギィみてぇな眼でこっち見んな。ごめんって、悪かったよ……。
「うーん、ダメかー。じゃあ『ことちー』とか?」
「あ、ごめん。それは普通にイヤ」
「どっかで聞いたことあるようなネーミングセンスだな」
あんまり思い出したくねえんだよなあいつらのこと。そこは加納と俺の共通認識らしい。
てか鳴海、あだ名の付け方下手過ぎだろ。
「じゃ、じゃあ……、『ことちゃん』とか?」
「あぁ、うん……。もうそれでいいかな……。私は莉緒ちゃんって呼ぶから」
戸惑いながらも笑みを崩さない加納。なるほど、鳴海は加納への対抗馬になるかもしれないな……。実際加納は鳴海のこと苦手だって言ってたし。良いこと知ったぜ……。
「陽斗くんもつけてあげようか? あだ名」
「いや俺は別にいい」
不敵な笑みを浮かべた加納がこちらへと近づいてくる。こっち来んなこっち。
「いいじゃない、せっかくだし。陽斗なんて贅沢な名前はやめて『ゴミ』っていうのはどうかしら」
「それはあだ名じゃなくて悪口って言うんだ」
「そうかしら? じゃあ『ウジ虫』とか『社会の癌』とか?」
「とりあえずお前は俺と俺の両親に謝罪しろ」
ていうか社会の癌って酷くね……? こいつ俺のこと嫌い過ぎだろ。
まあいい。こんな奴のことはどうでもいいんだ。
俺は鳴海に声をかける。
「よう鳴海。よくこの部活に入ろうと思ったな……。頭おかしいぞお前は」
「え、なんで私いきなり罵倒されてるの……」
いやいや、罵倒じゃなくて心配したつもりだったんだが……。頭を。
鳴海はもじもじとしながら口を開く。
「なんていうか、その……。私も恋愛のこと勉強、したいなって……。ほら、この前あんなことあったし。この部活に入って、一回恋愛観を見つめ直したいなって、それで……」
なんだか殊勝な理由だった。
「そ、そうか……。真面目だなぁ、鳴海は。どこぞやの爆乳ゴリラとは違うぜ……」
「あら? それは私のことを言ってるの癌?」
「おい。そのあだ名認めた覚えねぇから」
「動機が不純だって言うんなら、アンタも一緒じゃない」
「俺の動機は不純じゃねえ。お前に不利なだけだっ! いいからあの音声データ早く消せやっ!」
正直なところ、こんな部活脅迫でもされなかったら俺は部活を絶対にやめている。
もし加納の本性が全校生徒に露呈し、加納のブランドイメージが低下することになれば、脅迫材料である音声データの効力は必然的に失われることになる。
だがそうならなかったのは加納の思惑もあるだろうが、俺が鳴海に対して起こした様々な計画や行動による結果も一因となっているはずだ。
鳴海を助けたことはきっと間違っていない。
だがつくづく、惜しいことをしたと思ってしまう。
こいつに一泡吹かせられなかったということを――
「これからもよろしくねっ、陽斗くんっ」
「それもういいから。イラっと来るから」
と、俺がため息をついたときだ。扉がノックされるのを聞く。
この部屋の扉をノックするということは、相談者に違いない。俺たち恋愛相談部の活動開始を意味していた。
そして俺たちは並べられた机に座り、今日も彼ら彼女らの相談を聞くことになる。
「どうぞっ!」
透き通って、朗らかで、心地よい声。それはただの号砲に他ならない。
からりと開けられた扉の向こうから、今日も面倒くさい恋愛相談がうじゃうじゃとやってくるのだ。
恋愛――それは甘酸っぱくて、複雑で、面倒で、厄介で、時折脆い。
誰かが誰かを好きになり、たまに嫉妬して、たまに衝突して、たまに拗れる。
胸がときめくような、琴線に触れる話ばかりではない。
ここに持ち込まれてくる相談は、そういったトラブルも多いのだ。
正直、聞いているだけで億劫になることも多い。
けれど、それでも俺たちは。
今日も誰かの恋愛に向き合い続ける。
――ホント、恋愛相談部って、なんだよ。
第二章へ続きます。
よろしくお願いします!