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雨の中の実像

 ぎくり、と本当に音がした気がした。


 背中にかかる女性の声。不信感が言葉のトーンに乗っかっているのがよく分かる。次の言葉は「通報しますよ?」に違いなかった。マジかよ。誰かに見つかっちゃったぞ。


 どうしよう。別に茂みに隠れてナニをしていたわけではないが、アイツらを尾行していますって本当のことを言ったらそれはそれで怪しすぎる。怪しいっつーか現行犯だそれ。


 だが言い訳を考えている暇などなかった。恐る恐る振り返る。


「…………お前」



 そこにいたのは、予想外の人物だった。



「あれ、加納さん?」


「鳴海ちゃん!?」


 加納と声をかけてきた女性――鳴海莉緒の二人は、まるで豆鉄砲を食らったかのように互いに驚き見つめ合っている。


「なにして……、るんですか?」


「あ、違うのっ、これはっ――」


 そう言いながら赤面した加納が両手をブンブンと振る。さも『こいつとだけはそんなことしてないから!』と言いたげだ。そんなに振らんでも分かるっつーの。


 だが咄嗟の出来事で考えがまとまっていないのは俺も加納も同じだった。否定はしたが代わりの言い訳が思いつかない。ついには加納が俺をギロッと見た。助けろということらしい。助けてほしいんならそんな目で見んじゃねえよ、もっとあるだろもっと。


「鳴海、実はな――」


「えっと……、すみません、顔は覚えてるんだけど……」


「俺のこと覚えられてなかったー」


 なんだこれ悲しすぎる……。俺たち恋愛相談までした仲なのに。


「柳津陽斗だ。加納と同じ恋愛相談部の部員だよ」


「そ、そうだったっ……! 柳津くんだよね! ちゃんと覚えてたよっ」


「嘘つけ普通に忘れてたじゃねえか」


 まあ良いんですけどね。人はどうでもいい記憶から忘れていく生き物だからね。それだと俺がどうでもいい人間だってことになっちゃうけどまあいい。


 んなことより状況の説明だ。何か上手い言い訳は無いだろうか……。


「その、俺らはな……」


 訝し気な表情を見せる鳴海に、俺はたった今思い付いた言い訳を口にした。


「……人間観察してたんだよ、うん」


 言ってから思った。苦しすぎるだろこれ。なんだよ人間観察って。


 だがまぁ、即答せずに口籠るよりかはマシだ。


「人間観察?」


「そうそう! 恋愛相談部って人間性を知るところから始まるっつーか、こう、人と人との関わり合いをだな!」


「へぇ……」


「陽斗くん……」


 なんか加納が蔑んだ目でこちらを見ていた。仕方ねえだろ、他に言い訳思い付かなかったんだから。ていうかお前が俺に下駄を預けたんだからな?



 ――いや違うんだ加納。



 適当なことでもいい。少しくらい不審に思われてもいい。



 とにかくこの場から離れるべきで、改めて鳴海には説明するべきだ。



 そう思っての発言だった。



 だが……。



「そ、そうなんだ。だから今日はこの辺で――」


「嘘、でしょ?」


「……へ?」


 むべなるかな。俺の嘘は普通にバレていた。


「だって柳津くん、人に興味ないって言ってたもん。校長先生の名前も覚えてないくらい」


「……なっ」


 思わずたじろいでしまう。いや、それ。言ってたの加納だし。校長の名前分からないのは下の名前だけだし。と反論するにはもう遅すぎる。


 気付けば鳴海の視線の先に俺たちは無かった。鳴海は遠くの方を見つめていた。




「なに、あれ……」




 震えた声。


 目を大きく見開き、そこにある光景を信じがたいと言わんばかりに。開いた口を閉じることもできず、息をすることも忘れて。彼女が何を目にしたのか、何に驚いたのか、刹那に分かる。


「鳴海……。あれは、だな……」


 言って言葉に詰まる。あれは何だと言うのか。



 あれは……。



 あれは先輩のお友達だから心配すんな、とでも俺は言うのだろうか。


 少なくとも今の鳴海には、言葉より状況を飲み込むことの方が先決だったようで、返事は返って来ず。


「なんで、先輩、が……」


 鳴海の口から漏れる声は途切れ途切れで、未だその光景の意味することを十分呑み込めていない様子だった。


 当然だ。自分の彼氏と見知らぬ女子が仲良く隣り合って座っているのだ。


 ここは言葉を選ぶべきだ。俺は言葉を絞り出すようにして口を開く。


「あのな、落ち着いて聞いてくれ」


 今は鳴海に落ち着いて状況を説明すればいい。現状は彼女の考えているであろう最悪の事態よりかはマシなのである。


「実を言うとだな……。俺たちは西春先輩を尾行してたんだ。浮気調査の依頼でな」


「どういうこと?」


 言葉が重い。怒りと嫌悪で彼女は押し潰されそうな表情だった。


「そういう依頼があったんだ。先輩が浮気をしているかもしれないっていう情報と一緒にな。あんまり鳴海の前で言うべきじゃないんだろうが……」


「それって――」


「だからだ。だからこそ俺たちはここにいる。ここで先輩たちを見ている」


 鳴海は俺の言葉を聞いて、言葉の代わりにため息を漏らす。


 じっと俺の目を見て、その憎悪に満ちた表情を決して崩さない。


 唇を噛み、再び視線を向こうのベンチへとやった。


「それで、どうだったの……?」



 冷たい言葉に、貫かれる。



「い、いまのところ浮気の証拠はない。あの隣の人は友達だって話だ。実際見ていて、それ以上の関係と思えるような場面は無かったよ。いやぁまったく。お騒がせな人だぜ……」


「…………」


 返事はない。鳴海はただ黙っていた。


 生暖かい風が強く吹き抜けて、彼女の髪をなびかせる。



 そのとき。ぽつり、鼻の先に冷たい感覚を得る。





 雨が降り始めた。





 次第に雨の勢いは強くなり、カップルたちが次々とベンチから屋根のある方へと駆けていく。傘を用意していない者が駅の方へと流れていくのも見える。


 俺も鞄に忍ばせた黒い折り畳み傘を引っ張り出して差した。ポリエステル製の傘地に雨がポツポツと叩いている。加納も同じようにしていた。


 だが鳴海は。


 雨が降ってからも、ただ佇むばかりで。


「おい、濡れるぞ……」


 そんな忠告など耳にも入っていないようだ。鳴海はただ、遠くにいる彼らに視線を奪われたまま、そして口を開いて。


「ねぇ、柳津くん……?」


 鳴海の声は雨音にかき消されてしまいそうなくらいに小さい。


「なんだ?」


「今日の先輩たち、何も無かったんだよね」



 わずかな期待を吐き出したのだろうか。彼女は小さく笑っていた。



「ん? ああ……」


「あの人は、ただの友達……。そう言ったよね?」


 ここで期待を持たせることは悪いだろうか。一瞬、そんな考えが頭をよぎった。


 けれど気が付いた時には、口から言葉が漏れていて。


「……そうだ。だから鳴海。先輩はお前に浮気してるわけじゃ―」



「そんなわけないよ」



 冷たい声が、走るように届いた。





 ――雨音は強くなる。





「わたし、言われたの。今日はサッカー部の練習があるから、デートには行けないって」


「……えっ」


 声が漏れた。どうしようもなく、その声は抑え込めなかった。


 雨の中、濡れていく鳴海の頬を伝っている一筋は涙だと分かった。彼女は雨の中で、どうしようもなく微笑を浮かべていた。


 その笑みの意味を、俺たちが分かってやれるはずもない。


 分かるのは、鳴海の言った先輩の言葉が示すその先だけで。


 ただ……。


 望みを捨ててはいけないと、可能性がゼロじゃないんだからと、そんな当たり前で分かり切ったことに気付いた愚者は俺だけではなく。


「鳴海ちゃん、まだそうと決まったわけじゃ――」


 加納が声を上げる。救いの台詞なんだと、誰もが思うに違いない。


 そうだ。まだ決まったわけではないのだ。加納の言う通りだった。すべてを決めるには早計だ。まだ分からない。そんな思いが俺の中でぐるぐると渦を巻いた。


 ここで慰めの言葉をかけるのは間違っている。そうに違いない。


 だからこそ、そう思ったからこそ、俺は決死の笑みで鳴海に言葉をかけようとして。




「…………あ」




 鳴海の瞳が、光を反射して閃く。

 その表情の変化に、出しかけた言葉は行き場を失う。





 雨音はさらに強くなる。





 地面を叩きつける雨が、壊れたラジオみたいにザーッと音を立てていた。



 思い出して、視線を鳴海から茂みの向こう側へと移す。



 ゆっくり、ゆっくりと視界は変わった。




 鳴海の見ている景色。




 肌に当たる冷たい感触も。心に刺さる冷たい感情も。 




 鳴海の瞳のなかで揺らめくその光も。




 きっと雨のせいのはずなのに。




 茂みの向こう、その先に未だベンチに座る一組の男女。




 こんな雨だというのに。





 傘も差さずにいる男女の、その唇が、






 ――重なっていた。


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