お開きの会
——これで、文化祭事件は解決したのでしょうか。
忠節高校文化祭は、その三日間の盛大な祭典に幕を下ろした。
時刻は六時すぎになる。日はとうに傾いていて地平線の傍まで差し掛かっていた。紺色の空には一番星が見え始め、ポツポツと街の明かりが灯り始める。生まれ育った街だというのに、この時間帯の窓の外の景色は、どこか幻想的な雰囲気を感じてしまう。
ほとんどの生徒は片付けも終えて帰路についたらしい。校内にはわずかに生徒が残るばかりだった。まだ一部の生徒は片付けに追われているようだが、それも程なくして終わりを迎えるのだろう。……こういうのを見ると、祭りの後はひどく寂しいものだと感じざるを得ない。
つい先ほどまで騒がしかった場所が、途端に物音ひとつしない静寂に包まれているのだ。何とも言えない気持ちになるのは俺だけではないはず。酔いから覚めたというか、現実に戻されたというか……。そんな感傷に浸ってしまうから、祭りの後というのはどうも好きになれない。俺も結局のところ文化祭を楽しんだ一員だったなと、浅薄なことを思った。
——部室には、恋愛相談部メンバー全員が集合していた。
後片付けを終えたみんなはひどく疲れ切っている様子だ。無理もない。デカい演台やら備品やらのせいで思ったより後処理に時間がかかってしまったのだ。無駄にディテールをこだわったせいでゴミの分別もクソ面倒くさかった。なんか廃棄担当の先生にはめちゃくちゃ叱られたし……。この残業代は高くつくぞ加納。
ちなみに可児先生もさっきまで一緒に後片付けを手伝ってくれていたのだが、この後に職員会議があるからと足早に去っていった。「教員はこれからが勝負なのよ……」とやつれた顔をして言い残していったのが未だに脳裏を離れない。これで残業代つかないとかヤバすぎでしょ。マジで働きすぎだろ。教職員の労働環境が改善されることを切に願います。まる。
社会人の過酷さに戦々恐々としつつ、可児先生を見送ったのがつい五分前。そして今は部室で一息ついている。最終下校時刻までもうすぐだった。
静かな風が窓から入り込む。束の間の安らぎを届けてくれているかのようだった。
——文化祭は何事もなく幕を閉じた。それが今回の騒動の結末である。
何の変哲もない、掉尾とも形容できぬ平凡な終幕だ。
それを示すように、弥富が弛緩し切った声を上げる。
「にしても、結局犯人は誰だったんですかね……?」
その問いに答える者はいない。決して居心地が悪いというわけでもない沈黙が部室を包み込んでいた。反応がないのはみんな疲れているからというのもあるだろうが、そもそも答えを持ち合わせていないからと考えれば合点はいく。……無論、俺は別だけれど。
——俺は彼女たちに、今回の事件の犯人が誰だったのか、伝えていないのだ。
なぜって、その方がいいと思ったから。恋愛感謝祭中に起きた舞台袖での出来事を、こいつらは知らなくて良いと思ったのだ。きっと知ったところで誰かが得をするわけでもない。あの一連の出来事をうまく伝えられる自信がないというのもあるが、今回の件は安城先輩と俺だけの秘密でいいだろうという結論に至ったまでだ。
ちなみに安城先輩は、
「恋愛相談部のみんなには私のこと言っといてな? さすがに犯人分からずじまいって胸糞悪いやろうから。……アレや。犯人が分からないまま終わるコ○ンを見たって、おもろくないやろ? 最後は全身黒タイツ剥がれるのがオチなんや。そういう決まりや。ええか? 黒タイツ履いてたのは安城先輩やったって、みんなに言うんやで?」
……とか言っていたが。訳のわからないことを言っていたが。
まぁ、先輩には悪いけれど、伝えずに終わろうかと思っている。
その方がいい。きっと間違っていないはずだ。わざわざ言う必要もないと思う。
それにこいつらだって分かってくれるだろう。恋愛感謝祭は無事に成功したのだ。犯人からの邪魔があったとはいえ、直接的な被害もなかった。色々騒動はあったけれど、俺たちは結果的に見て文化祭を最高の形で締めくくることができたのだ。
だから、今さら誰が犯人か分からなくても。
心優しいこいつらが思い煩うはずが——
「本当よ! 結局犯人は誰だったのよっ! なんかムカムカしてきたわっ!」
「ですよね、ですよねっ! 拍子抜けとはこのことですっ! せっかく喧嘩売ってきたからには、顔くらい私たちにも見せやがれって話ですよっ!?」
——ない、こともないらしい。加納と弥富がなんか殺気立っていた。意気投合したのか、二人で笑い合ってる。……ふぇぇ。怖いなぁ。加納に至っては素振りとか始めちゃってるのが余計に怖い。何するつもりだあいつ。
諸々隠してた俺も同罪だよなぁとか思いながらビクンビクン震えていると、弥富が思い出したように俺に目を合わせてきた。
「……そういえば、結局ハルたそは恋愛感謝祭に来なかったですね?」
「ん? あぁ、まぁな」
「じーっ」
「……」
「じーーーっ」
「……んだよその目は」
弥富がすげえ俺のことを訝っているのが分かった。自分で「じーっ」とか言っちゃうくらいには俺のことを怪しんでいる様子。なるほど、目をつけられるとはまさにこのことを言うらしい。
「実は犯人に会ってたんじゃないですか?」
「犯人? なんのことだ」
「とぼけないでくださいっ。犯人探しをしてたら、突然ハルたそが急用ができたとか言っていなくなっちゃったんですよ? いくら何でも怪しすぎますっ!」
「……」
リスみたいに頬を膨らませて、やはり注意を逸らしてくれない弥富さん。ほほう、こいつバカかと思っていたが存外頭がキレるようだ。弥富の前でなら多少挙動不審だったとしても問い詰められないだろうと高を括っていたのだが……。やむをえん。ここは弁明するしかないようだ。
「あのときは言えなくて申し訳なかったんだが……」
俺は一呼吸置き、絶対聞き間違いしないであろう、ゆっくりはっきりした声で言う。
「……ちょっとトイレに行きたかったんだ。いや本当だ。あまりに腹が痛くて、ぶっちゃけ漏らしそうだったんだよ。でもそんな恥ずかしいこと言えないだろ? だから急用って嘘をついたんだ」
およそプライドも恥じらいも何もかもを捨てた言い訳。これにはさすがの弥富も、一瞬思考がフリーズしたようで。
「……っ。い、いやっ、嘘です! 絶対嘘ですよそれ! というか嘘にしても最低ですよっ!?」
「嘘とは失礼な。本当に行きたかったらどうするんだよ、う○こ」
「いや、嘘じゃないですか! 『本当に』とか言っちゃってるじゃないですか! あと言葉を濁した意味が無くなっちゃってますからねっ!?」
「何の話だ」
相変わらず弥富は面白い奴だった。テキトーなことを言ってもちゃんと突っ込んでくれるのでこちらとしてもボケ甲斐がある。彼女には悪いが、全てを話すわけにもいかないので、このまま言葉だけでなく茶も濁させてもらおう。
「とぼけないでください! これはもうハラスメントです! ウンハラですっ!」
「何がウンハラだよ。お前アレか。いまどき何でもハラスメントにしちゃう系高校生かよ。嫌いなヤツが生きてるだけでハラスメントとか言っちゃう系のJKですか? ……にしても今の俺の発言はウンハラですね。はい、大変失礼いたしました」
「あ、いや、そんなっ。ご丁寧に、どうも……」
終劇。俺と弥富の会話が終わる。……いや終わってどうする。
しかしそれ以上の追求は何故か無く、やはり弥富がバカだと分かったところで……、俺はふと時計を見た。もう最終下校遅刻が近いと知る。
文化祭最終日の今日、さすがに来客はないと思いたい。……まぁ心配せんでもないだろう。俺たちだけではなく、みんな文化祭で疲れ切っているのだ。そりゃ失恋話くらい文化祭で生まれたかもしれないが、相談するならせめて明日以降のはず。……となればこれ以上部室にいるのは生産的でないと思いつく。
後は帰るのみ——そう思ったのが同時だったのか、加納が重たそうなカバンを持ち上げた。
「じゃあ、今日はもうお開きってことでいいかしら?」
「……うん、そうだね」
「なんか釈然としませんが……。もう帰る時間ですもんね」
加納に続き、鳴海も弥富も帰宅の用意を始めた。弥富は口にするくらい不満な様子を露わにしているが……まぁこいつのことである。来週には文化祭の一件など気にも留めていないはずだ。何なら忘れているまである。それはそれでどうなんだって話だけどね。
——何はともあれ、文化祭は幕を閉じたのだ。
平穏に、かつ平常に。俺たちは三日間をやり過ごした。それ以上でもそれ以下でもない。
歓喜と感動と絆と波乱。そんな騒がしくも、どこか憎めない文化祭は遂に終わりを迎えた。
このまま家路につき、自宅の玄関に辿り着いたものなら、それこそ俺たちの忠節高校文化祭は本当に終幕だ。数々の成功、あるいは未練なんかも残して、それでも最後には思い出の彼方となって、この文化祭は昇華されていくのだ。
——だからもう、これはエンドロールである。
フィナーレを飾った文化祭は大団円を迎え、ここから先は、その延長線上の舞台とでも言うべきか。
それはまるで、映画の最後に流れるクレジットのように、きっと見ても見なくても結果は変わらない、そんな一齣であって……。
「——加納」
——その掛け声は、ずっと前から言うと決めていた。
俺は手元から視線を上げることもなく、彼女の名前を口にしていた。
少しだけ、語気は強かったと思う。
視線を上げると、加納は少し驚いた様子でこちらを振り返ったのを見た。
その光景を眼前に、口にしてから気付く。……なぜ自分はこんなことをしようとしているのか。なぜ今になって動き始めたのか。自分でも整理はついていないのだと。そんな取り止めのないことを今更ながら悟る。
……当たり前だ。他ならぬ自分が正解を分かっていないのだから。
いや、きっと誰にだって正解は分からない。この場にいる誰もが、この一件の結末に対する最適解を描くことなんて出来ないはずだ。それでも足掻くのであれば、こうして分からないままに歩みを進めるだけで。
そう、自分に言い聞かせつつ——
束の間にも満たない、ごく僅かな時間の後に。
俺の胸中を察したのか、加納は肩をすくめてみせると、鳴海と弥富の方へ手を振った。
「ごめん。ちょっとこの後、陽斗くんと話があるんだった。忘れてたっ」
そう言って、はにかむように笑う加納。鳴海と弥富も、加納と同じくそれぞれカバンを持ち上げていた。その様子を見るに、一緒に帰る予定でも立てていたのだろう。
「……そう、ですか?」
弥富が首を傾げ、俺と加納を交互に見るようにして様子を伺う。鳴海の方は特に返事がなかった。弥富の後ろで隠れるようにして、小さな微笑みを浮かべている。
「そういうことなら、先帰っちゃいますね……?」
「うん、ごめんね突然。——みんな、今日はここで解散ってことで!」
加納の声音には一切の焦りが感じられない。突然の出来事だというのに、加納の対応力には毎回驚かされる。加納曰く、事前に俺と会話する予定があったような言い草だが、無論そんな事実はないからだ。
「また来週から部活よろしくねっ!」
「はいっ! 今日はさっさと家に帰って、ご飯を食べて、クソして寝ますっ!」
「……弥富。お前のそれもウンハラだからな?」
間髪入れず、加納と弥富の会話に割って入った俺。ツッコミが鮮やかに決まり、笑っているのが俺と弥富だけと分かったところで……、はい。小学生みたいなコントはこれで仕舞い。俺が挨拶代わりに手を振ると、鳴海も弥富も手を振り返してくれた。そして二人は先に部室を出て行く。
加納はわざわざ廊下まで出て二人のことを見送っていた。二人の影が見えなくなるまで手を振っているのだろうか、いつにも増して丁寧な送別だ。その姿は我が子を見送る母親といったところか。——ごほん。いや失礼。毒親の言い間違いだ。訂正する。
しょうもないことを考えているうちに、鳴海たちは加納の視界に入らなくなったようだ。やがて加納の表情は陰り、そして部室の中に戻ってくる。
その表情はどこか険しい。まるで俺と話したくもないと言わんばかりの拒絶のようにも見える。
……いつものことだ。今更驚きはしない。
こいつと二人きりで話すだなんて、それこそ俺とて快いイベントとは思えない。だから加納の気持ちには理解ができる。
——それにだ。
そのときの俺もきっと、加納と同じような表情を浮かべていたに違いない。それは気怠さと嫌悪感が滲み出た表情にも似た何かだろう。……むしろそれくらいの心持ちでなきゃ困るのだ。特にこれからの時間においては、本当に。
——なぜって。
今から俺がする話は、別に面白くも何ともない、そんな話だからである。