ある恋物語の微熱
「——お待たせしました! 次の相談者は……この方です!」
加納の底抜けに明るい元気な声が、体育館に響き渡る。
眩い照明と大勢からの歓声を身体いっぱいに浴びているのは、生徒会副会長、田神桔平。その姿を、見間違えるはずはない。
ステージの中央ではにかむようにして立っている田神。彼がなぜ恋愛感謝祭に参加しているのか、その意味を理解するのに時間はかからない。
——彼は今から、自分の思いを告白しようとしている。
大勢の観衆に向けて。いや、その観衆の中にいるであろう、知立会長に向けて。安城先輩の密かな想い人である知立会長と結ばれるために、田神は大きな歓声に包まれながら今、あのスポットライトの下にいる——
そんな彼の煌々とした姿を、舞台袖からこっそり覗いているかのようにして見ている俺たちは。
「——私はどうするべきやったんやろ……?」
不意に聞こえたのは、そんな安城先輩の小さな声。
力のない、覇気のない、とても弱々しい声だった。質問の意味を咀嚼するが、俺は安城先輩が納得するような答えを持ち合わせていない。
俺には分かるはずがなかった。
安城先輩の苦しみも。あるいは葛藤も。決意も覚悟も。何もかも。
「先輩は……。——会長と副会長はお似合いだと思いますか」
「……ははっ。なんやねんっ。その質問」
自分でも無意識にそんな質問をしていた。この質問に意味なんてない。それまで受け入れることのできていた沈黙が、なぜか今になって気まずく感じていた。
「……さぁ。どうやろ。仲は良いんやない? よく二人でいるのを見るし」
「……」
「前にも言ったかもしれんけど、二人が付き合うのは時間の問題やったんや。……私がどうこうできる話やなかった」
ため息をこぼし、静かな声音で吐露する安城先輩は、こちらに視線を預けない。
ステージの上で佇む田神のことを、まるで見守るかのように見つめていた。
「柳津くんの言う通りや。私がこんな回りくどいことをしたのは、あの二人が付き合うことを阻止したかったってのもあるけど……。それでもどこかで、あの二人が幸せになろうとしていることを止められなかったからやろうな……」
安城先輩はそう言って、自嘲するように鼻を鳴らした。
俺は相槌をすることさえ憚られ、黙って彼女の話を聞いている。少しだけ心配になったのか、先輩が俺の方を振り返って一瞥した。そして無事に俺の存在を認めたのだろう、先輩は小さく微笑んで見せると、また舞台の方へと視線を戻す。
「私は臆病やからさ……? 面と向かって断られるのが怖かったんよ。自分の気持ちを隠し続けることも辛いけど、正直に気持ちを伝えて拒絶されるのは、もっと怖いから……」
彼女は口にする。己の葛藤を言葉にする。
独り言を呟くかのように。その言葉はふわふわと漂って、行き先さえ無いかのようで。
その言葉の全てを、俺は受け止めきれずにいる。
「色々ごめんな……」
そして終ぞ、謝るのだ。
安城先輩がそうする必要なんて、どこにも無いはずなのに。
彼女は自分の気持ちに正直に向き合っただけで、そのことを咎められる道理など、きっと無いはずなのに。
それでも彼女は、謝るしかなかったのだろう。
その言葉が、誰に向けられたものかは分からない。俺たち恋愛相談部に向けられた言葉なのか、会長や副会長へ迷惑をかけたことに対する自責なのか。
あるいは自分自身へ向けられた言葉なのか。
俺にはどうも、分からないけれど。
「……」
いや、もしも——。もしもの話だ。
もしも俺がこの場にいなかったら。安城先輩をこの場所へと呼ばなかったら。
安城先輩はこの風景を、どんな場所から、どんな様子で見つめていたのだろう。
この光景は先輩の瞳に、どう映っているのだろうか。
そう考えたときに、俺はこれまで自分のしてきたことが本当に正しかったのか、どうも分からなくなってしまったようで。
安城先輩が正しいやり方に苦悶するように、では恋愛相談部に何ができたのか。俺に何ができたのか。
安城先輩のために何ができたのか。
本当にどうも、判断がつかなくなってしまったらしく。
「……こちらこそ、すみません」
「——えっ?」
気がつけば、俺は自分の気持ちを口にしていた。
安城先輩が驚いた様子でこちらへと振り返る。
「……なんで柳津くんが謝るん? 悪いことをしたのは、こっちやで……?」
「なぜ、と言われると……。すみません。はっきりしたことは言えないんですけど……」
今でも分からない。この一件の正しい末路も、正しい俺たちの振る舞いも。
俺にはやはり、どうしても分からないが……。
それでも、気付いたことはある。
事の成り行きを察して、汲み取れたことはあるのだ。
「見当違いだったらすみません。……でも、俺には安城先輩がSOSを出していたように思えたんです」
「……SOS?」
安城先輩の問いに、俺は頷く。
「先輩は俺たち『恋愛相談部』に脅迫状を出しました。それは恋愛感謝祭を中止に追い込む事で、会長と副会長が恋仲になることを防ぐためでしょう。……でも本当にそれだけだったのかと、どうしても思えなくて」
俺は思ったのだ。他にやりようはいくらでもあったはずだと。企画ごと潰すのではない、他の方法だって安城先輩は思い付いていたはずだと。
恋愛相談部を巻き込んで、ここまで大掛かりな作戦を決行した理由……。それは先輩にとって何か別の意味があるのではないかと、俺はふと考えたのだ。
「——先輩は、俺たち恋愛相談部に、気付いて欲しかったんでしょうか」
質問と視線をぶつけた。……たぶん、先輩はこの質問に答えてくれることはないだろうと、そう思いながらも。
「だとしたら、俺たちは先輩の気持ちに気付けなかったことになります。相談の意図を汲み取れなかったことになる。……先輩の苦悩も過ちも後悔も、俺たちは一緒になって引き受ける義務があると思うんです」
言葉にする。責務と覚悟を。俺たちの存在理由を。
「それが恋愛相談部です。俺たちはそういう部活ですから」
偶然かは分からない。けれど恋愛相談部に持ちかけられた脅迫状。
もしもこれが、宛名のない恋愛相談だったとしたら……。
安城先輩が何かに頼りたくて、何かに縋りたくて、そして俺たちに白羽の矢が立ったとするならば……。
それならば、俺たちにできたことというのは——
「だから、先輩は——」
「——はははっ。さすがにそれはないわっ」
乾いた笑い声。安城先輩が俺の言葉を一蹴した。
「流石にそれは背負いこみすぎやって。……確かに私は君たちに迷惑かけたけど、そこまで面倒を見てもらうつもりは無いで?」
先輩は笑った。静かに微笑みを見せるばかりだ。
その笑顔の中に潜む別の感情など、俺には読み取れるはずもなく。しかし本当の気持ちは誰にも見せまいと我慢しているように、どうしても俺には思えてきて……。
「だから仁義は通す。この件はこれ以上騒ぎにならないよう私が責任持って片付ける。……琴葉ちゃんからのお願いもあるしな」
「……加納?」
加納からの願い……。さて何のことだろうか。昨日そんな話をしたっけな。
さすがに思い出せない。疑問符を浮かべていると、安城先輩がポツリ何か呟いたのを聞いた。
「ただ——」
陰影の中、くぐもった先輩の声。とても小さな声だ。俺は先輩の次の言葉に耳を傾けていた。
「そうやな。SOSか……。言われてみたら、そうなのかもしれんな……」
先輩はそれだけを口にし、再びステージの方へと目をやる。
スポットライトの光を反射して、綺麗な瞳だと思った。
俺も先輩に合わせるようにして、黙って視線を移す。加納も鳴海も弥富も、もちろん観衆も、そして俺たちも……、ステージ上に立っている田神のことを見守るように眺めている。どうやら相談は核心に迫る局面を迎えているらしい。
いよいよだと、思った。
——刹那、田神の震えた声がこだまする。響めきと歓声が一呼吸の時間だけ遅れて押し寄せた。
緊張で上擦った声。けれど、その声には芯があり、よく通る声だったと思う。
腹を括って覚悟を決めたような、彼の決意がそのまま言葉に表れたかのような、そんな『告白』だった。
——田神が何と言って、会長に思いを告げたのか、俺はよく覚えていない。
騒然とした会場と、興奮に満ちた喧騒は覚えているから、きっと田神はストレートに思いを伝えたのだろう。
……俺はただ、田神があのスポットライトの下にいた状況でも。
どうしても、すぐ目の前で苦しそうな表情を浮かべている安城先輩から目が離せなかった。
「ただちょっと、熱があったんやろうな……」
その言葉の意味が、俺には分からなかった。
あるいは。
安城先輩がそうポツリ口にしたのと、田神が会長に思いを告げたのと。
——どちらが先だったのか、どうしても俺には思い出せなかった。