静寂の部室
心地よい静寂が続いていた。
それは言うなれば、落ち着きとか安心感とか、そういった言葉に変えられるのかもしれない。
誰かが傍にいるとき、その場を支配している空気感には敏感になりがちだ。楽しげな雰囲気、気まずい雰囲気、張り詰めた雰囲気、まぁいろいろあるだろう。
今この場の雰囲気は、他でも無い『快適さ』に満ち溢れていた。つまるところ、気遣いをする必要がないという意味だ。何を言わずとも良く、何を気にする必要もない、そんな空気感。
恋愛相談部の部室には、俺と鳴海がいた。
放課後になり、俺が部屋に入った時には既に鳴海がいたのだった。軽く挨拶だけして、今は部屋の隅の席でラノベを読んでいる。
お互い過度な干渉はしない。ただ時の流れに任せて、お互いの時間を静かに過ごしている。
ここに加納や弥富がいたら、うるさいなんていうものではないだろう。いや、うるさいだけならいいのだ。うん。……だって耳栓とかすればいいし。いっそのこと「静かにしろ」とか言えばいいし。騒いでいるだけならいくらでも対処のしようがある。
でもあの二人は違う。決まって俺に厄介ごとを持ち込んでくるのだ。あるいは面倒な頼みごとをするか、強制労働を強いるか、はたまた暴力を振るってくるか……。後半二つは加納だけだが……、まぁともかく、あの二人と鳴海とでは、明確に有害度が違うという話だ。
一緒にいるときの雰囲気がまるで違う。さながら、みんな大好きラブコメ系ラノベに出てくる文芸部みたいな空気感になるのである。いや、どういうことだよ。
要するに、アレだ。……何もしなくて良いってことだ。
そんな落ち着いていて気疲れしない雰囲気が、俺は嫌いじゃない。
ふと、視線を上げた。
——鳴海は夕影の中で読書をしていた。
恋愛相談部の日常の中で、彼女が読書をしているのはあまり見たことがない。普段は他の女子部員たちとおしゃべりしていたり、最近流行っているソシャゲを一緒にやったりしているのをよく見る。たぶんだが、他の二人に気を遣っているのだろう。どう考えても本とか読まなさそうだもんな、あの二人。
鳴海は実は読書家だったりする。今も熱心に読書の最中だ。本の世界にとっぷり浸かって、俺のことなんて忘れているみたいだった。
だからだろう。俺と二人きりでいるときは会話が起こらないのは……というのは俺の勝手な推測である。——ああ、そうだ。もちろん本人に聞いたことなんてない。ちなみに俺との会話がつまらなくて、仕方なく本を読んでいるという説の方が濃厚である。なんだその悲しい仮説。
とはいえ、本が嫌いというわけでも無いようで。何度か鳴海の読書姿を見ているが、その集中っぷりときたら相当なものなのだ。
あれは夏休みに入る前だったか。鳴海が本を読んでいる最中に、スズメバチが教室に入ってきたことがある。そんな中でも鳴海は読書をやめなかったくらいだ。本当にすごい集中力である。そして俺は隣でギャーギャー騒いでいた。
改めて、鳴海の方に視線を預ける。ちょうど、片手に持った文庫本のページを繰るところだった。
不覚にも、その姿に見惚れてしまう。
その様は画になると言うか、なんと言うか……。日常のワンシーンでしかないが、不思議と心惹きつける何かを感じた。
あと、鳴海が何を読んでいるのか気になった。彼女が読むとしたら何だろうか。流行りの小説か、あるいは有名な海外文学か。……いや、もしかしたらラノベという説もある。
ギリギリ犯罪とならない程度に凝視すると、鳴海の読んでいる本の装丁は見たことのあるものだと気づく。あれは何だったか……。確か俺も読んだことのある作品だった気がするが……。ううん、思い出せねぇ……。
流石に気になる。声をかけよう……と思ったが、寸前で思いとどまった。
鳴海は読書の最中だ。こちらから声をかけるのは野暮というものだろう。ここはそっとしておこう。うん。
……言っておくが、別に声をかける勇気がないとか、あんまり鳴海と二人きりで話したことなくて緊張してるとか、そもそも俺が読書に飽きて手持ち無沙汰だとか、そういうわけではない。いや、ほんとほんと。邪魔したくないだけ。
集中してる時に邪魔されたら腹立つもんね。誰だってそう思うだろう。アレだ。ユー○ューブ見てるときに、すげぇいいところで広告が入ることあるだろ? あれがめちゃくちゃウザいのと一緒。転職サイトの広告とかいいから。俺にはまだ早いから。
…………ふぅ。
下らない思考が今日も絶好調のようだ。いつにも増して脳みそが腐っている。こうなっているのは休みボケのせいだと思いたいところ。
視線を手元に落とし、読書を再開する。
活字を追いかけ、一言一句を咀嚼しながら読み進めていく。
俺はあまり本を読むのが早い方では無い。時間をかけて本の世界をイメージしながら、自分のペースでゆっくりと物語を紐解いていく。
本の世界に入り込むのは簡単だ。情景の表現や描写の方法を注意深く読んで、頭の中で想像すれば良い。どうしてこの語彙が選ばれたのか、なんていうことも考えながら、自分だけの世界に浸り込んでいくのだ。
読点の位置、行間まで読み込むことができれば、もう一息。筆者の描いた世界はすぐそこだ。ページを繰り、目の前に飛び込んできた世界——それは素っ裸になったヒロインがヌメヌメのモンスターに陵辱されている挿絵だった。……っ。……なんちゅうもん読んでるんだ俺は。
と、そんなときだった。
「——柳津くん?」
「——うぉぉ!?」
背中からかかる声。
驚いて振り返ると、そこには鳴海が戸惑ったような顔をして立っていた。