気付きと動揺と、あるいは動き出した世界
どうやら先生とずいぶん話し込んでしまったようだ。腕時計を見て、思ったよりも時間が経っていることに気づく。
そういえば部活のみんなには何も言わず部屋を飛び出したんだったか。文化祭の準備を放っての独断行動。……ふん。これは重罪だな。咎められること間違いなし。今頃あいつは何をしに行ったんだと話題に上がって——るわけないか。……そうですよね。知ってました。俺クラスの小物ともなると、話題どころか名前すら上がらない。なんなら名前も覚えられていない可能性すらある。
まぁ俺がどこへ行こうが誰と喋ろうが、俺の勝手なはずなんだが。そんな自由意志さえ束縛されようものなら、いよいよあの部活は法に引っかかることだろう。もう法律でも校則でもなんでもいいから、早く恋愛相談部をなんとかしてくれ。
そんなことを思いつつ、気付けば部室の前。
何度となく見た無機質な扉だ。嗚呼。結局はこの部室へと戻ってきてしまう。
アレだ。本当に俺はこの部室を巣か何かかと勘違いしているのかもしれない。帰巣本能っていうやつだ。ちょうどオツムも鳩並みだし合点がいく。
巣というのは、すなわち家。家とは帰るべき場所のことである。どれだけ母親に叱られて『もう家に帰りたくない』とか思っちゃっても、最後には諦めて家に帰ることになるあの現象と一緒だ。……えっ、どういうこと?
ちょっと自分でも何を言っているのか分からないので、一呼吸おいて考えを整理。しっかりしろよ俺。そうだ。こんなところが家な訳あるか。
疲れているようなので、さっさと部屋に入ることにした。
「——戻ったぞ」
扉を開ける。今日もカラカラと鳴る軽い音。俺と一緒でやる気のなさそうな扉だ。
みんなをだいぶ待たせてしまっているので、何と責められるかビクビクしながら部屋に入った——そのときだった。
ふいに違和感を感じた。
見れば部屋の中には三人。加納と鳴海と弥富。全員勢揃い。
ここを飛び出す前からメンツは変わっていない。だから違和感の正体は三人の存在では無かった。
——視線だ。
俺を見る三人の視線。その視線はこれまで俺に向けられてきたいつもの視線とは異なっているように思われた。
おそらく気のせいとか勘違いとか、そのレベルの話ではあると思うんだが……。
「……なんかあったのか?」
三人揃って俺のことを黙って見ている。いや、そういう機会はこれまでにも何度かあったから特段珍しいことではない。
だが口をついて出たのはそんな言葉。頭で考えるよりも先に違和感を探し求めることを選んでいた。
明らかに何かがおかしい。空気感というか、何というか……。
うまく、言葉にはできないけれど……。
「——あんた」
「えっ、なんだよ」
「…………」
加納が俺に何かを言いかける。しかしその先の言葉は引き出されない。なんだかソワソワしているような感じだ。
ただ静観するように、こちらの様子を伺うように、そんな佇まいでいる加納に俺は聞いた。
「……どうした? トイレにでも行きたいのか」
「…………」
「…………おい、なんか反応しろよ」
んなわけあるか、というツッコミもなし。ただただ無言。……なんだよこれ。ボケた俺が恥ずかしいじゃねえか。ツッコめよ。
それともなに? 本当にトイレ行きたいの? しゃべれないくらい漏らしそうなの?
…………。
やはり返事はない。
えっ……、マジで何? 怖いんだけど。
あまりの異様な雰囲気。この時点で、俺の心境は違和感から戸惑いに変わった。ここまでくるとさすがに「何かがある」ということだけ確信として現れる。
はたまた新手のイジメか。究極のシカトごっこの最中とか。なにそれ泣いちゃう。高校生にもなってイジメとか恥ずかしくないのかよ!
なんて……、そんなわけもないよね。相手はあの加納だ。もし俺をいじめるんならもっと堂々とやってくるはずである。だからイジメの線もなし。なんだこの悲しい推理は。
「……鳴海、なんかあったのか?」
作戦変更。ここは加納ではなく、常識人たる鳴海に聞いたほうが良さそうだ。
「……あっ、えっと、その」
「なに慌ててんだ?」
「……あっ、いやぁ、そのっ……わたし——」
「わたし?」
「…………わたし、帰るねっ!」
「——はっ?」
ほとんど裏返ったような声を吐き出した鳴海。
俺がその言葉の意図を理解する前に、鳴海は鞄を乱暴に掴み取って。
そして、本当に扉のほうへと駆けていく。
「——また明日っ!」
吐き捨てるようにそう言い残し、扉はドンと勢いよく閉められた。
束の間の沈黙。……えっ。帰った?
鳴海、帰った?
…………なんで?
いや、マジで分からない。めちゃくちゃ急ぎ足だったけど……。急用でもできたのだろうか。それにしては異様な慌てっぷりだったが……。
いや、まぁ。考えても仕方無いので、俺は一旦近くの席に腰を下ろす。さっきまで立ちっぱなしだったので足首がジンジンするのだ。
一息ついていると、視界の端の方で尚も俺をじっと見つめる視線が。
「……なぁ。マジで何だよ、加納」
「…………」
——まったく、何なんだ。
テンで分からん。加納の考えてることなんて普段からまったく分からんが、今日に関しては本当に分からん。
いつにもない扱われ方に、こちらとしては調子が狂ってしまう。普通に接してくれよ。マジで。……あ、いや、別に、今まで通り俺をからかってくださいとかそんな意味じゃなくて。
「——あんたが、ね……」
「なんか言ったか?」
「——なんでもないわよ。バカ」
「…………」
なぜか分からんが罵倒された。バカってお前……。
面と向かってバカなんて言われたのはいつ以来だろうか。高校生にもなって恥ずかしい。バカはないだろ、バカは。いやぁホントに。もっとボキャブラリーを増やせないもんかね。幼稚で稚拙で品のない悪口でしかない。……うん。あれ、おい、なんでちょっと落ち込んでんだ俺。
と、加納が歩き出す。見れば自分の鞄を引っ提げているではないか。
仏頂面のまま、そそくさと扉の方へと向かい。
そして俺に何も言うことなく、扉を開けて——
「——じゃあ、また」
扉の閉まる音。静寂よりも静かに感じられる沈黙。
残される俺と弥富。タイミングよく窓の外から風が吹いて、カーテンをふわり巻き上げた。
加納も帰ってしまった。
「えぇ……」
絶句する他ない。どういうことなのこれ……。
そもそも呼び出したのはあいつなんだが……。文化祭の準備があるとかなんとか言ってったの、あいつなんですけど。
まさかの部長の退陣に、俺は頭を抱えてしまう。ここまで恋愛相談部は落ちていたのか、と。もともと奈落の底にあるような辺鄙な部活ではあるが、俺の予想を悪い意味で上回ってくれた。もうどうしようもねぇよ、この部活。
しかしこれを幸運というべきか、今俺を縛る存在はここにいない。合法的に帰れるということだ。ぶっちゃけ加納がいなきゃ何すればいいか分からないし、ここにいる意味もないだろう。
「じゃ、俺も帰りますかね……」
軽い鞄を持ち上げた。もともと何も入っていない鞄だ。ラノベと筆記用具を入れるだけの用途には、このカバンは大きすぎる。
「弥富も帰るか?」
部屋を出る直前、俺は弥富に声をかけた。
そういえば部屋に入ってからというもの、こいつも一言も喋らないのである。ただでさえうるさい弥富だ。こいつが黙っていると、もはや違和感でしかない。見た感じこいつも何か知っているんだろうが、聞いたところで教えてくれるかどうかは分からない。……アレだ。きっとガールズトークってやつだ。それか俺の悪口。
女の子同士、ツモる話でもあったのだろう。今はそう思うことにする。
いつだって俺は蚊帳の外。同じ部活とてその状況は変わらない。だからこいつらが何を話していようが、俺には関係のないことだ。
「おい、帰らないのか」
視線を弥富の方に向ける。
はっと気付いたように、弥富がこちらに振り向いた。
そして僅かな間の後に、弥富は急拵えの笑顔を作ってみせた。
「……はいっ、帰りましょう!」
「おう」
弥富がせっせと帰り支度をしているのを、俺はぼんやりと眺める。
——明らかな戸惑い。そして動揺。
鳴海と加納、そして弥富に感じた違和感が気にならないわけではない。どう考えても彼女たちは俺がいない間に何かを話し合い、何かのっぴきならぬ事情を知り、そしてそれを俺に隠している。
——それくらい分かっている。
けれど深入りする必要も俺にはないのだ。
知りたい気持ちはあれど、それを追い求める動機と、知ろうとする気力と、彼女たちが応えてくれるだろうという期待が、俺にはどうも備わっていなかったらしい。悲しいことに。
鞄を肩にかけ直し、窓の外へと目をやる。
まだ日が高い夏の青空。入道雲が遠くの方でモクモクしていた。
「お待たせしました!」
「……おう、じゃ帰るか」
「じゃあハルたその家まで行きましょう! お茶飲んで帰りますね!」
「いや来なくて良いよ。普通に帰れよ」
「えぇー」
露骨に不満そうな弥富。その姿を見て俺は少しだけ笑ってしまう。
別にこの関係を何と形容するわけでもない。しかし今だけは、弥富に縋ってもバチは当たらないだろう。——そんなことを思っただけだ。
こいつが部活に入ったことで、良い意味でも悪い意味でも、恋愛相談部は変わっていくのかもしれない。
なんて、根拠もなければ理屈も無いことを思いつつ。
——弥富と二人、部室を後にする。
***
このときの俺は知らなかった。
いや、知る由もなかったのだ。
気付くはずも、気付こうとするはずもない。分かるはずがなかった。
——もう、『それ』が動き出していたということに。
『それ』は一度入ってしまったら、抜け出すことなんてできない世界で。
誰しもが恐れ、怯え、それでも憧れ、期待し、掴み取りたくて。
各々の思いと願いがぶつかり合って、どうしようもなく儚く消えていって。
最後には何も無かったかのように、跡形も無くなって。
そんな世界を。
そんな世界を、俺は望んでいたのだろうか。
——今でも分からない。
うまく言葉にはできずに、そのことにずっと悩み続けている。
誰もが理解して、感じ取って、頭では分かっているはずなのに。
きっと分からない振りをして、目を背けて、考えないようにしていたのだろう。
でも、いつかは気付く。気付かされる。
どうしようもなく、自分の意思ではない何かによって、事態はひっくり返ったかのように動き出すのだ。
では、その世界は。
その、名もなき世界は。
ときに人を笑顔にするほど甘くて。
ときに人を苦しめる毒にもなるような。
そんな、恐ろしくも美しい世界は——
もう、動き出していたらしい。
お久しぶりです。にっとです。
まずは感謝をさせてください。少しでも興味を持ってくれた方、いつも読んで下さっている方。本当にありがとうございます。なんとか第四章も終えることができました。
約15万字。ぶっちゃけ書くのが疲れました。本当に。もうゴールしても良いよね……?
はい、良いわけがありません。めちゃくちゃ中途半端なところまできました。謎の伏線エピソードも書いちゃいましたし、どうしましょうねこれ。伏線回収しないとシンプルに怒られるレベル。
まぁ冗談はこれくらいにして……。第5章は既に書き始めています。ストーリーも概ね決まって、あとは字に起こしていくばかり。ちなみに恋愛相談部の関係性が大きく変わるエピソードになる予定です。ええ、ようやく。
連載開始時期は未定ですが、気長に待っていただけると嬉しいです。
第5章は「恋愛感謝祭編」です。文化祭あれこれを描きます。
これからも、どうぞよろしくお願いします。