ある恋物語の幻想
お見合いをしていない……?
「ははっ、はははっ、なっ、何を言ってるんですか先生は。そんなわけないでしょう。まったくもうっ。この俺が間違えたとでも言うんですかっ?」
「……何を言っているのかよく分からないけれど、私はお見合いなんてしていないわ。ごめんなさいね。……せっかく考えてもらった話なのに」
申し訳なさそうな声を漏らして、先生は俺に苦笑いを浮かべた。
俺の完璧と思われた堂々たる仮説は、先生の否定によっていとも簡単に崩壊する。
えっ……。マジで?
違うの? そういう話じゃないの?
今回の話の真相って、先生がお見合いを強制されていたってことじゃないの? 見合いの場があったから、色々とややこしくなったってことじゃないんだ? 違うんだ? 本当に? えっ、ちょっと待って、じゃあ今の時間は何だったんだよ。
「……お見合い、してないんですか?」
「してないわよ。そんなに何度聞いたところで答えは変わらないわ。……ふふっ。お見合いって。むしろ今どきそんな決め方あるのかしらね?」
少し先生は笑って、俺の質問を一蹴した。
めちゃくちゃ自信満々に話していた自分が恥ずかしい。……マジかよ。違うのかよ。ていうか先生が全然否定しないもんだから、途中からずっと俺が喋ってたんだけど?
「そ、そうですか……。じゃあ最初から言ってくださいよ……。なんか俺がバカみたいじゃないですか……」
これまでとはまったく違うパターンだ。まさかの推理失敗である。今までの恋愛相談なら話数的にもそろそろ俺が「恋の謎」をビシッと解決している頃だ。感動シーンに入って涙不可避なエピローグが始まる予定だったのに……。おいどうなってんだ作者。
間違えちゃった。シンプルに見当違いでした。うーん、てへぺろっ☆
お見合い——それが今回のカギだと思っていたんだが……。
色々と不可解な点があったものの、そういう話なら筋道が通るし、先生が桜井さんを振った理由にも説明がつく。先生の家庭のことも考慮すれば、決してあり得ない話では無かったと考えていたのだが……。どうやら全て勘違いだったらしい。
普通に死にたくなっていると、先生がポツリ呟くように言った。
「——お見合いなら、それも良かったのかもしれないわね」
「……はぁ。どういうことですか?」
発言の意図が分からず、気の抜けた返事が漏れてしまった。
徐に先生に視線を預ける。
彼女は俺を見ているようで、しかし焦点の合っていない、どこか虚空を見るかのような表情だった。
「柳津君の言っていることは、ほとんど正しいわ。当たりすぎているくらいよ。……あなたの言う通り、私には最初から恋をする権利なんて無かった」
「……でも、お見合いはしていないって?」
「まぁ、そうなんだけどね……」
そう言って、深い吐息を先生は漏らす。
「——『許嫁』って知っているかしら?」
諦めたように、先生はその言葉を口にした。
いい、なづけ……?
心の中で言葉を反芻した。あまり聞き馴染みのないその言葉に、俺はもう一度問いを投げる他ない。
「いいなづけ、ですか?」
「……ええ。私にはもう、将来のために結婚すべき人が用意されているのよ」
先生の悄然とした声が響く。そんな先生を前に俺はようやくその言葉の意味に気付いた。許嫁……。……そうだ。確か両家の親同士によって婚約を決められた関係のことだ。
「まったく……下らない話よね。それにあなたたちをこんなことに巻き込んで……。私は何をやっているのかしら……」
「……許嫁って。……えっ。あのっ、マジですか」
「ええ、本当よ」
「……」
言葉が出ない。
まったく想像がつかない。
……許嫁。先生はそう言った。
親同士の取り決めで結婚を約束した関係。——それが許嫁だ。そして先生にはその相手がいる。他ならぬ、将来を共にする関係の人が……。
「もっとも、親同士で勝手に盛り上がっているだけなんだけど」
「はぁ、そ、そうだったんですか……。えっと……。だから先生は——」
その先の台詞。瞬間、それを言うことは憚られた。
喉まで出掛かった言葉をしまう。しかし先生は、俺の意を汲んだかのように、小さく笑いながら続けた。
「……ええ。だから私は、あなたたちに相談をしたのよ。——彼氏が欲しい、なんてね」
「それは、どうしてまた……」
先生は何度目か分からぬ深い吐息を漏らす。笑みを浮かべていても、その裏にはどうしようもない愁嘆が秘められているように思えた。
少しの間の後に、先生は答える。
「……その答えを、柳津君はもう言ってくれたじゃない」
「…………」
自嘲するかのように、先生は笑ってそう言った。
「……選べない恋愛ほど、空っぽなものは無いわよ」
恋をすること。
それは他ならぬ自分の意志で決めることだ。
全ては自分に委ねられているから。自分が決めていかなければならないから。
誰かが懇切丁寧に支えてくれるわけじゃなく、最後は自分一人の力で勇気を出さなければいけないから。
だから、恋をするのはいつだって自分だ。
——それを俺は当たり前のことだと思っていた。
誰だって好きなように恋愛をすればいいし、他人がとやかく言う筋合いはない。その人が自分のために恋をしているのだから、冷やかしも野次も余計な手出しも、あってはならないものだと——そう思っていたのだ。
「選べないのなら、選んでみる、というのは……」
——言ってから思う。
それはあまりにも野暮な提案だった。
無責任で無頓着で無配慮な、つまらない思い付きだ。
そうだ。先生は選べないのだ。
そうできないから、そうすることが叶わないから。
だから、今だって先生は——
「私はワガママだから」
「……え?」
「私が今、こうして教員をやっているのは、父に無理を言ってやらせてもらっているからなの。兄弟がいない私が家業を継がなければ、誰かが代理を務めるしかない……。そういうことよ」
「いや、でも——」
そこで言いかけた言葉は、先生によって遮られた。
「いいのよ、これで……。私が許嫁と結ばれれば、全ては丸く収まる話なの。別に許嫁のことを悪く思っているわけじゃないし、私が無理を通して教員をやっているのがそもそもの原因だし……、——何より、父はそれで喜ぶだろうから」
静まり返った廊下。
先生のその言葉は半分嘘のようで、半分は本当のように聞こえた。
妙な暖かさを持った声音に続いた静寂が、キリキリと心を締め付けるように俺には堪えた。
「そういう恋愛も、あるっていうこと……なのかしらね」
俺には先生の家庭の事情など何も分からない。
そもそも人の家庭の事情に首を突っ込むべきではないし、当事者達だけで解決すべき事案に決まっている。
先生が「それでいい」というのなら「それでいい」話というだけであって。
それ以上でもそれ以下でもない、俺にとっては干渉すべきでない話だ。
けれど——
「…………どうでしょうか」
「えっ?」
その先の言葉も用意せず、俺は口を開いていた。
先生の視線を感じる。出てしまった言葉はもう片付けられない。
何を言おうとしたのか、何を思っていたのか、それすらも整理できぬまま俺は徐に話し始める。
「……なんて言うんでしょう。確かに、先生の考え方は一理あります。先生が納得しているのなら、それでいいのかもしれません。けれど——」
けれど——けれど、なんだと言うのか。
俺は納得できない、とでも言うのだろうか。……まさか。
きっと自分でも分かっていない。答えがあるかさえ俺には見当もつかない。
だが分かっていることもある。どうしたって、俺の言葉が先生を動かすことはない……ということだ。
先生はきっと覚悟を決めているのだろう。そういう恋の仕方をこれからも続けていくのだと。もう振り向かないのだと。きっとそう決めてここに立っている。
俺たちとの恋愛相談が終わったことが、何よりの判断材料だ。
であれば、先生に何を言っても届くことはないのかもしれない。
——それでも俺は、忘れてはいけないと思うのだ。
先生がどうしてこの恋愛相談に乗ったのか。先生がどうしてあんな恋愛相談をしたのか。
先生が本当に叫びたかったことは何なのか。
何もかも分からないままだが、あの気持ちを無かったことにしてはいけないと思う。
今は無き思いでも、それも先生自身の思いだったはずだから。
だから、俺は——
「——可能性だけは、捨てないでください」
「…………」
「俺たちはいつだって、恋愛相談に真剣に向き合います。どんなに難しい状況であっても、どんなに答えが出ない相談でも。俺たちは、絶対に考えることをやめたりしません。——もちろん、先生の相談もです」
答えなんて無いのかもしれない。
答えが用意されていない問題を考え続けるだなんて、あまりにも滑稽なことなのかもしれない。
何かを得るわけでもない。何かを実現できるわけでもない。
分からないことをいつまでも考え続けて、結局分からなくて、それは傍から見たら滑稽に映ることこの上ないのだろう。
それでいい。滑稽だっていい。
考えることを、選択肢を残すことを、可能性を捨てないことを、大切にしなくてはならない。
分からないのなら、考えるしかないのだ。それが最善の選択なのか、考え続けるしかない。
諦めたそのときに、人は初めて後悔するのだから。これで良かったのかと。これが最善だったのかと。戻れない過去をいつまでも悔やみ続ける。
そうはなりたくない。俺も恋愛相談部も。もちろん先生だってそう思うはずで。
だから、俺はそう言うしか無かった。先生に可能性の芽を摘んでほしくは無かったのだ。
何様だと言われようと、俺たちは先生の相談に尚も向き合い続ける義務がある。
それが俺たちの役目のはずだ。恋愛相談部の宿命だ。
恋の形はそれぞれでも、幻想に終わる恋だけは見過ごせない。
心の底からそう思える。恋に幻など、あってはいけないのだから。
静かに吐息を漏らす。
何も言わず、何も交わされず、俺と先生の会話は唐突に終わりを迎える。
背を向ける先生。その姿を俺はじっと眺める他ない。
向こうへと歩いていく先生はどんどんと小さくなり、やがて視界には捉えられなくなった。
俺もそれからようやく、部室の方へと戻る。
足取りは重い。けれど不思議と嫌な気分では無かった。
きっとやるべきことがまだあるからなのだろう。これで終わったわけじゃないと、本気で思っているからかもしれない。
いや、何よりも——
先生が最後、優しく微笑んでいたからかもしれない。
……そんなつまらないことを思い、俺は部室の方へと戻った。