とても簡単な質問
「…………は?」
初めに言っておくが、別に聞こえなかったわけじゃない。
弥富がはっきりと、そんなような質問をしたことは瞬時に理解できた。
驚いて振り返ると、弥富が俺の方に視線を預けている。
どこまでも、どこまでも真っ直ぐな瞳を見た。
だから思わず、答えを用意することも忘れて。
ただ弥富のことを見ることしかできなかったのだろう。
「……っ」
部活に好きな人はいるのか。弥富はそう聞いた。
「……。なんで、そんなこと聞くんだよ……」
「いや、ちょっと気になったので」
「気になったって……。んなこと聞いてどうすんだ」
「どうするって……別にどうもしませんけど?」
飄々とした様子で、弥富は小首を傾げて見せる。わずかに浮かべている微笑の意味が俺には分からない。その表情はどこか悪戯っぽく、けれど真剣な眼差しで…………え、マジでなに? 質問の意味が分からなすぎて普通に怖いんですけど。もしかしてこいつ、俺があの部活の誰かを好きだとか思ってるのか……?
「それで、どうなんですか? 誰か好きな人いるんですか? いないんですか?」
「なっ、ちょっあんまり近づくなよ……」
弥富がまたも俺に迫る。
俺の対人ATフィールドはあっさりと破られ、目の前に弥富の顔がぐっと近づいてきた。ち、近ぇ……。こ、こんなことして弥富は恥ずかしくないのだろうか? 可愛いすぎてうっかりお前だよとか言っちゃいそうじゃねえか。
——いやいや、騙されるな俺! 確かに可愛いのは認めるが相手は弥富だ。こいつは何も考えずにこういうことができるから怖いのだ。完全に喪男キラー。俺みたいな男子は簡単に好きになっちゃうから要注意。
そうやって油断させた後に「ドッキリでした! にししっ」とか言われるオチまで見えた。……危ない危ない。見聞色の覇気が無かったら完全に騙されていたことだろう。もう本当にね。何がにししっだよ。笑い方が完全に麦わらのル◯ィじゃねえか。
腹が立ってきたので、俺は弥富を手で払うようにして、それから答える。
「……いるわけねぇだろ」
「えー、そうなんですか? ことはっちとか気になりません?」
「いや気になりませんよ。ないない。てかあいつだけは絶対にない。……俺たちの関係知ってるよね? 犬と猿を通り越して、トムとジ◯リーみたいな関係だからね?」
「じゃあ仲良しじゃないですか……」
バカお前。んなわけねえだろ。トムなんてジ◯リーにハメられて何十回も殺されかけてんだぜ? アレでジ◯リーを許すトムの懐の深さよ。まさしく今の俺にふさわしい。
「そうそう。まだ鳴海やお前って言うんなら分からんでもないけどな」
だが加納だけは絶対にない。俺の評価はもちろん変わってなどいないのだ。よくあるラブコメなら、話数的にそろそろ俺たちも和解して良い頃だろう。ちょっとずつ打ち解けあって、ツンデレヒロインと愉快な仲間たちと共に最後はハッピーエンドを迎えるに違いない。ああそうだ。普通のラブコメなら、な。
だが恋愛相談部にはそういうテンプレ展開など起こり得るはずもなく。毎日毎日、疲労と呆れと怒りと闘うヒューマンドラマと化している節がある。来る日も来る日も加納のむちゃぶりに俺は対応して……もうこんなの半○直樹じゃねえか。ラブコメどこ行ったんだよ。早く俺を別の部活へ出向させてくれ……。
「…………っ」
「? どうした弥富」
「あっ、いや、なんでもないですっ……」
と、バツが悪そうにもじもじしている弥富を見た。落ち着かない様子だ。
顔がわずかに赤らんでいるのは夕日の茜色を反射しているからだろうか。
「なんなんだよマジで……。体調でも悪いのか」
「あっいやぁ、本当になんでもないんですっ。すみません。——ハルたそが近くにいるから……でしょうかねっ?」
「……いやいや。『でしょうかねっ?』じゃねえよ。俺は病原菌かっつーの」
弥富が困ったような笑みをこぼしていた。
でも可愛く言ってもダメだから。悪口は悪口だから。
「そうですかー。じゃあハルたそは今のところフリーなんですね!」
「まぁフリーというか、無料というか……。俺みたいなのと付き合いたい女子なんて、まずいないだろうよ」
そんな物好きいないだろうし。なんならこっちが金を払うまであるから。俺なんかと付き合ってくれてありがとう、って。……うっ、涙が。
でも仕方がない。これを現実だと割り切って生きていくしかないのである。アレだ。配られたカードで勝負するしかないとかよく言うやつだ。——僕は強い子。女の子にモテなくても良いの。二次元がある二次元が。
やっぱり信じられるのは二次元! 三次元はもう期待できないぜ!
……なんて。馬鹿みたいなことを思っていたら、
「——そんなことないと思いますよ」
弥富の声がした。
見れば、俺を揶揄う素振りも見せずに真剣な表情でいる。
「ハルたそは自分のことを謙遜しすぎです。もっと自信を持って良いんですよ!」
「…………」
その瞬間、思わず黙ってしまった。
束の間の空白。
「……えっ、ちょっと。何か言ってくださいよ?」
「……あっ。いや。お前がそう思ってくれるんなら、俺はありがたいけどな」
視線が合う。……あぁ。これは同じ部活メンバーとしての励ましの言葉だろう。一見アホっぽい弥富だが、こういうところがあるので隅に置けないやつだと思う。きっと社交辞令でも慰めのつもりでも言ったわけではなかろう。その表情から分かる。弥富は本気でそう思ってくれているのだと。
だから。自信をもって良いかは分からないけれど。
今は弥富の言葉を受け入れようと思う。
せっかくかけてくれた言葉だ。ありがたく頂戴しない手はない。
まったく、こいつは……。
…………。
——涼しい風が吹き抜けた。
陽は地平線にようやく差しかかって、空の色が少しずつ群青色へと変わっていく。
意識して見なければ、きっといつものように見過ごしてしまうのだろう。けれど、不思議と心を奪われる空の色。
そんなどこにでもある、ありふれた景色の中で。
俺の視界に映るものは——
「私は、だから————」
「———おい、弥富……! あれあれ!」
「…………ほぇ?」
視界の隅。先生たちの様子に動きがある。
逆光。けれど二人のシルエットははっきりと確認できた。
刹那に息を呑む。
視界に映り込む、それはまるで、いつかのドラマで見たことがあるような光景だった。
キラキラとして、ふわふわとして、どこか落ち着かない。
そんな言葉では言い尽くせない雰囲気の中で。
——桜井さんは、確かにその手を先生の方へと向けていた。
その手が意味するものは何か、説明するまでもない。
知っているからだ。真っ直ぐに向けられたその手を取ることによって、二人はどこまでも新しい世界へと行けるのだと。
これからの二人を。これからの未来を。
新しいその場所へ飛び込んでいくために、二人はこれまで一緒にいたのだから。
だから——
***
——いや。
どうやら俺は、勝手に思っていたらしい。
先生はその手をとって、彼方へと足を踏み入れていくものだと。
二人でこれからを紡いでいくのだと。二人で始めていくのだと。
二人は恋に落ちるのだと。
——そう、勝手に思っていたらしい。
「——あっ」
それは弥富の短い悲鳴だった。
瞬間、心臓が跳ねるように律動する。
目の前の光景に、ただ茫然とするしかなかったのだ。
全ては色を失っていくようにして、煌めきを帯びた情調は消えていって。
そして——
***
分からない。
今となっても正しかったかどうかなんて分かるはずもない。
全てはうまく行って、全てはハッピーエンドに終わるものだと。
そんな風に、思い込んでいただけなのかもしれない。
陽は完全に沈み切って、夕闇の空は二人を照らすこともなくて。
どこかで思い出したように鳥の鳴き声が聞こえた。
——先生がその手を取ることは、無かったのだ。