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お父さん

「——あの野郎……。今度会ったら八つ裂きにしてやる……」




 場所は変わって、ここは可児家のとある部屋。


 四方は壁に囲まれ、何とも言えぬ圧迫感が逆に安心感を与えてくれる。用を足したり一人で泣いたりするのにぴったりな個室。その名もトイレ。


 俺は休憩がてら、覚えてもいない尿意を口実に先生の部屋を出ると、トイレに入るや否や盛大なため息をこぼしていた。




「恋愛マスターってなんだよ……。いい加減俺が知りてぇよ……」




 加納が変なことを言ったもんだから、あの後の空気はヤバかった。先生は半信半疑、いや、一信九疑くらいのテンションで俺に質問してくるし、加納は水を得た魚の如く俺をいじってくる。弥富はそれに乗っかってゲラゲラ笑っているし、鳴海も思わず苦笑い。どうなってんだこれ。みんなで俺をいじめて楽しいか!?


 いや、まあね。いいんですけどね。もう慣れてるし。なんかみんなすげえ楽しそうだったし。だから良いんだけどさ。……でも加納。お前だけはマジで許さねえからな。メインヒロインだか何だか知らねえが絶対に泣かせてやる。


 そう決意し、スマホで「八つ裂き 方法」と検索していたときである。扉をコンコンとノックする音がした。




 聞こえたノックの回数は二回。




 ちなみに面接で入室するときはノック三回が基本だ。間違えて二回しかノックできなかったときは、その場で用を足しちゃえばぎりぎりマナー通りとかバカみたいなことを考えてる場合じゃない。え、誰か来ちゃったんだけど……。返事しなきゃ。




「……入ってまーす」


「——あぁ。すまない。お客さんか」




 聞こえてきたのは野太い男性の声。扉越しでも明瞭に聞こえた。


 この声……。どこかで聞い……あっ。


 この人はもしかして——




「——あっ、お父さんっ、す、すみませんっ、すぐ出ます!」


「ああっ、いやいやっ、いいんだよ。ゆっくり入っていてくれ」




 やっぱりそうだ。先生のお父さんだ!




 やべぇ、早く出ないと。……ていうか俺、今うっかりお父さんとか言っちゃったけど大丈夫かな? 『君にお父さんと言われる筋合いはない!』とか言われないよな? だったらなんて呼べばいいんだよ。


 どうでもいいことを考えつつズボンを上げていると、


「いやいや、本当に大丈夫だから」


 そんな声が聞こえ、遠ざかっていく足音。なんかすごい申し訳ないことをしたような気分になった。俺は別に用を足しにトイレへ来たわけではないからだ。ほんと、すごい申し訳ない……。……ん? ちょっと待て。じゃあなんで俺はズボン下ろしてたんだ……?


 ……我ながら自分の素行が怖すぎる。いや、別に、なんとなくズボン下ろしてただけなんですけどね。深い意味は無いんです、はい……。理由になってない今の言い訳はともかく、とりあえずトイレを出た方が良さそうだ。


 トイレを流し、手を洗い、廊下に出る。お父さんはもう行ってしまったようだ。


 声をかけに探すかどうか迷うところ。ここは探した方がいいよなぁ。絶対。……でもあの怖い顔はあんまり見たくないので、部屋に戻ることに決めた。




 と、先生の部屋はどっちだったっけ。忘れた。右か左か。




 いやぁ。俺ってば方向音痴なもんだから、こういうの本当に分からないんだよね。地図を見て北の方向を『上!』とか言っちゃうタイプ。そうそう。しかも方角が分からなくて自分がぐるんぐるんしちゃう。逆だ逆。地図を回せ。


 でも思うんだけど、方角とか普通分からないよね? 道を尋ねたら当たり前みたいに「あっ、それは東の方に進めば……」とか言う人いるけど、東どっちだよってなるぞ。それとも何? 東はこっちか……って常に意識してんの? すごすぎだろ。お前、方位磁針かよ……。


 まぁそんなどうでもいい話はこれくらいで……。さて本当にどっちだったかなぁ。マジで自信ないぞ……と思っていたときである。お父さんの声が右の方向から聞こえた。




 誰かと話しているのか。廊下の向こうから反響した声は良く聞こえてくる。顔が怖いのは本当だけど、たぶんあのお父さんいい人である。……やっぱり声はかけておくべきだろう。そう思い、俺はRPGばりに右の道を選択した。


 廊下をひたすらに進む。突き当りには扉があった。


 この中か……。まるで忍者の如く、ゆっくりと扉を開けた。


 中学生のころ、テストで赤点を取った日はいつもこんな感じで家に帰っていたことを思い出した。帰宅を悟られないように玄関の扉をそれはもうゆっくりと開けていた。懐かしい。もちろんそんなの無駄な抵抗に過ぎず、すぐに母にバレて大目玉を食らっていたわけだが。




 ——わずかな隙間から向こう側を覗き込む。




 そこは広々とした空間。ソファやらテーブルやらが置かれている場所だった。でっかいテレビとかもあるし、恐らくリビングに違いない。


 大きな窓の向こうには青々とした空が見える。あそこからこの街を見下ろすことができるのだろう。……おいおいマジかよ。てことは何? 天空の城ごっこ出来るんじゃねえのここ? いいなぁ。毎日『人がゴミのようだ』って言えるのか。……もうちょっと楽しい遊びは無いのか俺。






『いやぁ、先日はどうもっ』






 ——通話中。






 見れば、先生のお父さんがスマホで電話している最中だった。どうやら廊下まで聞こえてきたのはこの声だったらしい。


 野太い声だが、その口調は丁寧だ。仕事の話……だろうか。お父さんは何度も笑い声を上げつつ、何もない虚空に向かってペコペコと頭を下げていた。電話あるあるだな。


 思えば物理的にも値段的にもこんな高いマンションに住んでいる可児家。いったいお父様は何の仕事をしているのだろうか。めちゃくちゃ気になる……。


 しかしまあ、邪魔するわけにもいかない。ここで声をかけるのはさすがに憚られたので、静かに扉を閉める。トイレが空いていることには自分で気付いてもらおう。




 ……と、そのときだった。




「——彩乃の件、よろしく頼みますね」




 聞こえてきたのは、そんなフレーズ。


 まるで念を押すような口調で、お父さんはその文言を口にしていた。




 彩乃……。彩乃とは、先生の名前だ。




 何の話だろうか? 仕事と何か関係があるのか。あるいは——




「——柳津君?」


「うぇいっ!?」




 背中から突然かけられた声。


 びっくりして振り返ると、そこには可児先生の姿があった。




「……ここで何をしてるの?」




 唐突に声をかけられたもんだから、返答をすぐに用意できない。何をしてるも何も盗み聞きしてました……とは言えんよな。やっべ、どうしようこの状況。


 先生は怪訝な様子で俺を見た後、今度はリビングの方へと目をやっていた。


 先生のお父さんの声は依然としてよく聞こえた。






「——パパ……。もしかして……」






 少しだけ震えた声。


 独り言のようにそう呟いた先生。わずかに見せた憂慮の表情の後、ぎろりと今度は俺を睨み付けるように見た。




「柳津君、さすがにこれは悪趣味では?」


「あっ、いやっ、これは……」




 ……やべぇ。今の俺、超怪しいじゃん。不審者じゃん。


 どう言い訳したものか……。勝手に人の部屋をのぞく理由か……。ねぇよそんなの。あるわけがない。これもうお父さんのことが好きだったんですとか言わないと辻褄合わないレベル。


「いやっ、すみません……。ちょっと道に迷って……」


「迷うほど広くないと思うんだけど……」


 確かに迷うほどではないが、それなりに広いご家庭だと思う。一般的な家ならそもそもどっちの道へ進むかなんていう選択肢すら現れないだろう。


「……あ、マジなんです。俺方向音痴だから……」


「……まったく。加納さんの言った通りね」


 呆れたような調子でそう言われてしまう。何を言ったんだ加納……。




「……まぁいいわ」




 お折檻の一つや二つ覚悟していたのだが、先生は思いのほか許してくれた。俺に呆れかえってどうでも良くなったという説もある。


「それより父に何か用だったかしら?」


「あ、はい……。トイレ空いたんで、それを伝えに来たんですけど……」


「………………それだけ?」


「えっ? はい」


 きょとんとしたような顔で俺を見る先生。何か顔についているのだろうか。妹曰く腐った魚の目なら付いていると思うが、あいにくこの目はデフォルト装備だ。取れない。


 すると、先生は呆れたように笑って言った。




「そんなことのために、待ってたの? 全くあなたは……」




 その口調は、俺を小ばかにするような乾いたものではない。おかしくて自然と出た笑い声のように、先生の声音はどこか暖かかった。




「ふふっ。本当に、弥富さんの言うとおりだわ……」


「すみません。俺がトイレに行ってる間、あいつらに何を吹き込まれたんですか」




 つーか、なんで俺がいないときに俺の話すんだよ。絶対悪口じゃねえか。


 でも確かに、人の悪口ってめちゃくちゃ盛り上がるって言うもんな。友達と話をしてて、誰かが席を立ったらそいつの悪口を残ったメンバーで次々に言って、戻ってきたらすました顔をキープ、最初に噴き出した奴が負け! みたいなゲームとかあったもん。小学生くらいの頃流行ったなぁ。超盛り上がるらしい。……えっ? なんで伝聞形なのかって? そりゃお前、俺が悪口を言われる側だったから。俺だけ蚊帳の外だったから。戻ってきたら顔見るだけでみんな噴き出してたし……。おい隠せ隠せ。誰一人我慢できてないじゃねえかよ。ゲーム成立してねえよ。最初からやり直せ。


 昔のことを思い出して悲しい気持ちになっていると、先生が思い出したように手を叩いた。


「……そうだった。お茶のお代わりを持ってきたんだった」


「ああ。俺手伝いますよ」


「……いいわよ。一人で持てるから。それより早く部屋に戻って私の相談について考えてくれるかしら?」


「ああ、そうでしたね……」


 言われて思い出す。そうだ。可児彩乃の恋愛相談はまだ終わっていない。解答編が残っている。ひ〇らし的には皆殺し編。


 先生の態度を見るに、恐らく恋愛相談部は一定の評価を得たということで良さそうだが、安心はできないだろう。最後まで先生の相談に取り組む必要がある。つまり正念場だ。




「……じゃあ、先に戻ります」




 そう言って俺は踵を返して部屋の方へと戻る。




 さて、どうやって先生の悩みを解決したものか……。




 …………。




 ——気のせいかもしれないが。




 最後の方、先生の機嫌が良かったように思える。


 普段の先生を俺は知らないから、本当にただの思い違いかもしれないけれど。


 やけに嬉しそうと言うか、晴れ晴れしいと言うか……。




 いや……。機嫌が良いというのも少し違う。




 上手く言葉にできないけれど、例えるならそれはまるで——






 まるで、吹っ切れたような、そんな調子だった。


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