摩天楼のその上に
間接キスかどうかは、コップとペットボトルの間に境界線があるんじゃないか、という一つの答えが出た頃である。遅れて彼女たちはやって来た。
「ごめん、遅れたわ……」
顔を上げると、そこには加納と鳴海がすごい暑そうな顔して立っていた。
加納はボリュームスリーブのブラウスにタックパンツ。鳴海はグレージュのワンピースを着ている。
「ごめんね……。途中で財布を忘れてることに気付いて、それで……」
「ん? ああ、大丈夫だ。そんなに待ってないしな」
「そう……、なら良かったわ」
「加納。お前はアウトだ。五分前行動はどうしたんだよ」
「……はぁ? 何よそれ」
怪訝な目で俺のことを見る加納。なんで莉緒ちゃんは許して私にはお説教なのよ、ってか。そりゃあな……。五分前行動しろって言ってきたのお前だし。
まあ別に二人のことを責めるつもりはない。本当だ。俺は待ち合わせに数分遅れた程度で怒るような了見が狭い人間ではないのだ。誰だって予想外のハプニングはあるからね。多少の遅刻くらいは仕方ない。
「んで、お前はなんで遅れたんだ?」
「えっ? メイクがうまくいかなかったからだけど……」
「おーけー。お前は絶対に許さない」
きょとんとした顔で俺を見る加納……。あまりにもしょうもない理由に、もう少しで殴りかかるところだったが何とか踏みとどまった。
「ナチュラルメイクって本当に難しいのよね……。時間結構かかっちゃったわ」
ナチュラルメイクってお前……。そもそもお前メイクなんていらねえだろ。すっぴんでクソ可愛いんだからよ。
……だが加納の顔を見てみると、いつにも増して肌の透明感とか目元の存在感が際立っているというか、もう一段階可愛いというか……。さらに魅力的になっている感じが確かにしないこともない。
あのめちゃくちゃ可愛い加納が、まだ可愛くなるとか……。メイクってすげぇな。
なるほど、可愛いは作れるのである。ふへぇーとか思ってじっと加納を見ていたら、死ねと言わんばかりの睨みが返ってきた。
……っぶねぇ。マジ危ねえわ。見た目に騙されて危うく許すところだったわー。普通に考えてこいつの遅刻理由頭おかしいからな? そんな理由が許されるわけないからな?
でもメイクしてさらに可愛くなった加納を見れてちょっと嬉しい気持ちもあって……。なんだこれ。やめてくれよ。情緒が不安定になるっつーの。
***
そもそも俺たちはなぜ集まったのか。
それは昨日、恋愛相談部全員に届いた可児先生からのメールがきっかけだった。
——可児先生との部活動を賭けた話し合い。
顧問がおらず、このままでは廃部になってしまう部活動を救済するべく、俺はほとんど出まかせに『恋愛相談』を進言した。その結果、恋愛相談部は先生の相談に乗ることで部活動としての評価をもらい、その結果如何によっては可児先生が顧問に就いてくれるという契約を結ぶに至った。
そして今日はその相談日というわけだ。日取り自体は既に決まっていたのだが、肝心の場所と時間については昨日先生からメールで連絡があった。時間は十三時半から。場所の欄にはとある住所が記載されていた。
「……で、その住所っていうのがここなのか?」
駅から西の方角へ歩くこと数分。県内随一の高さを誇る超高層ビル。
県民であれば誰もが知っている建物。というかこの付近を通ればいやでも目に入る。天を衝くようにして聳える摩天楼。それが先生から指定された集合場所だった。
「加納。さすがにここは無いだろ」
「いや……。マップで確認したけど、どうもここみたいよ」
「改めて見ると、すごい高いよね……」
「ですねー」
四人並んで、そのビルを見上げる。鳴海の言う通りだ。何度も見ているはずなのに、近くでちゃんと見てみると、その大きさに思わず感嘆してしまう。
まるで初めて都会にやって来た田舎者のように、「高ぇー」とか言っていたら近くを通っていた人に不思議そうな目で見られてしまった。恥ずかしい。
……ていうか、本当にここなんですか?
「加納の住所だけ間違ってんじゃねえの? 俺たちに届いたメールが本当の答えっていう説もあるぞ」
「一斉送信でそんなことあるわけないじゃない? だいたい本当の答えって何よ」
「ともかく、入って確かめるしかないよね」
「リオリオの言う通りですねっ。じゃあ行ってみましょう!」
鳴海が先陣を切り、弥富が後に続く。俺の家の高さくらいある玄関ドアが二人を招き入れるように開いた。……ああ、違う。こういうのって、玄関って言わずにエントランスって言うんだよね。おばあちゃんがそう言っていたから間違いない。……でもそれって同じ意味じゃね?
俺と加納も、置いていかれるわけにはいかないのでビルの中へと入る。
何だこの緊張感。まるでダンジョンに入った気分だ。
たかが人の家に行くってだけだが、なぜか背筋がピンと伸びてしまう。なぜだろう。友達の家へ行く時はこんなこと……あ、ああ。あ、そうか。俺って友達少なかったから、誰かの家に行くってこと自体久しぶりじゃんか。だから緊張してるのね、俺。何だこの悲しい気付き。
一人悲しくなっていると、鳴海がインターホンをポチポチしていた。目の前にはまたもやガラス張りの扉。もちろんこのマンションはオートロックなので、呼び出してここを開けてもらう必要があるわけだ。
呼び出し音が鳴る。しばらくして、若い女性の声がした。
「はい?」
「あ、あの……。可児先生のお宅でしょうか……?」
「……そうですが。あなたは?」
「あ、はいっ。私、恋愛相談部の鳴海と——」
ピピピッと機械的な音が鳴った。言い終わる前に扉が開いた。
「どうぞ。お待ちしていました」
「あ、どうも……」
声は間違いなく可児先生のものだ。相変わらずの塩対応である。
インターホン越しに軽く会釈して、俺たちはさらに中へと入っていく。
一階は無駄に広く、そして何もないエントランス。中央には俺の背丈ほどある花瓶と花がどーんと鎮座している。
大理石かなんかで出来たフロアに、足音がきゅっきゅと鳴っていた。どこもかしこもピカピカである。大丈夫かなぁ。俺このスニーカー全然洗ってないけど、床汚れてないかなぁ。
そんな心配をしながら、道なりにエレベーターホールへ。見ればエレベーターは全部で八基あるようだ。……八基? え、多すぎだろ。多すぎじゃね? デパートでもこんなにねぇよ。
何はともあれ、あとは先生の部屋まで行くだけである。
「……ん? あれ。これ押しても点かねえぞ」
と、エレベーターのボタンを押したのだが反応が無い。もう一度押してみるがやはり点いてくれない。おかしい。連打してもダメである。このボタン壊れてんのか?
「こっちのボタンも反応しない……。どうなってんだ。故障?」
「陽斗くん。こういう良いマンションだとね、エレベーターホールでもう一回インターホンを鳴らす必要があるのよ。セキュリティが厳重なわけ。ダブルオートロックってやつね」
「へぇ……。初めて聞いたな」
加納がそんなようなことを教えてくれた。思わず唸ってしまう。普通に勉強になった。そういうシステムなのか。
「最近のマンションは結構そういうところあるよね」
「ですねー。なかには五重ロックなんてものもあるみたいですよ!」
「さすがにそれは多すぎじゃね……」
セキュリティ厳しすぎる……。もうそこまでいくと本当にダンジョンじゃん。
インターホンを再度鳴らし、しばらく待つと勝手にエレベーターが下りてきた。あれだけ俺が召喚魔法使ってもびくともしなかったのに……。すげぇ。ちょっと感動した。
四人乗り込み、エレベーターは上昇を始める。
束の間、ぐっと重くなる体。耳には何か詰まったかのような不快感。
そして訪れる沈黙。こういうとき、なんとなく階数をじーっと見ちゃうのはなぜなんでしょう。見れば他の三人もじっと液晶画面を見ていた。この瞬間だけなら、恋愛相談部は一つになれるんだと気付いた。
バカみたいなことを考えていたらあっという間に目的のフロア。……エレベーター君、速すぎる。落ち着いた雰囲気の廊下を少し歩き、目的の部屋番号が書かれた部屋を見つけた。
最後のインターホン。ここまで来るのに三回もインターホン鳴らす必要があるとか逆に不便だろと思ってしまう。
意を決してインターホンに手をかける。重々しいカギが開く音がした。
そして、そこに現れたのは——
「……誰だ、君たちは」
——顔も声も知らない、怖そうなおじさんだった。