間接キス
それから三日後のことである。俺はその日、駅前の広場にいた。
駅前辺りなんてアニ〇イトへ行くくらいしか用事が無い俺である。こんな場所にいる理由は一つしかない。そう、部活だ。
時計を見ると集合時間より少し早い。家を早めに出たからだろう。というのも、午前中は珍しく夏休みの宿題を消化していたのだが、加納から貸してもらった可児先生お手製プリントを使っても物理の宿題が全く解けなかったのだ。
相変わらず『仕事を求めよ』という問題が分からなさ過ぎて辛い……。ただでさえ仕事なんてクソだというのに、それを自ら求める理由がテンで分からなかった。もちろん計算も分からなかった。
そして、自分のアホさに嫌気がさした俺は結局宿題から逃げて、こうして早めに部活へとやって来た次第だ。
県民ご用達、金の像前広場には多くの人たちが集まっている。見れば若者が多い。みんなこれから遊びにでも出かけるんだろうか。こんなクソ暑い中ご苦労なこった。
麦わら帽子をかぶった子供たちが元気良くはしゃぎまわっている。広場の中央からはミストが吹き上げて、こちらの方まで涼しい風がやってきた。あぁ、夏だなぁ、なんて年寄りじみたことを思う今日この頃。
そんな俺は、隅っこのベンチに座って広場の様子を眺めていた。日差しがヤバすぎて一歩も動く気になれない。アスファルトの上で死んだ虫の如く、身体が干からびてしまいそうだった。ちなみに性根は既に腐り切っているので心配はいらない。
喉の渇きを覚えて、鞄から水を取り出す。それを一気に飲み干して、大きく息を吐いた。
……ぷはぁ。
…………あっつ。
にしても今日は暑すぎる。さっきから汗が止まらないんだけど。なんだよこれ。俺、結露でもしてんの?
どれくらい暑いかって、ほとばしるパトスくらい熱い。どうにもならんぞこれ。マジで限界。ヘイフリックくらい限界。……つーか、パトスってどういう意味なんだろ。
遂には思考まで限界に達しようとしていた、そのときである。聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「お待たせしましたー!」
顔を上げる。駅の方からやってきた人影。
たくさんの人の中でも、その姿が誰なのか容易に分かった。
——弥富梓だ。
白のブラウスに青いフレアスカートがひらひらと舞う。その姿はいつもの弥富と違い、どこか大人っぽさを感じさせる。
しかしこちらの方へ駆け寄ってくると、にししっといつもの笑顔を見せた。
「……よう」
「こんにちはです、ハルたそっ! ……なんか元気ないですね?」
そう言う弥富はめちゃくちゃ元気そうだ。すげえなお前。こんな暑いのに、なんでめちゃくちゃ笑顔なんだよ。太陽の方見て「いい天気ですねー」とか言ってるし。もしかしてヒマワリか何かなの?
「……まあな。元気どころか精気もねぇよ」
弥富とは対照的に、力のない声が漏れる。俺が悄然としているのは、もちろん暑さもあるんだが、それよりも……。
「だいたい、なんでせっかくの夏休みに部活しなきゃならねえんだよ……」
そう。貴重な夏休みが部活動に浪費されていくことに頭を抱えているのだった。
「あはははっ、まったくー。そんなこと言わずにっ。ほらほら? このスカートどうですか? 最近買ったんですよー? めちゃくちゃ涼しくなりません?」
テンションも声音もマントルを突き抜けるほど低い俺に対し、上機嫌な様子の弥富。
スカートに注目してほしいのか、それをわざとらしくひらひらさせてそんなことを言っていた。
なりません? とか言われても……。いや、ならないですけど……。
正確に言うなら涼し気な感じがするってところだけどな。俺は全く涼しくなりませんよ。ええ。
何言ってんだこいつと思って視線を合わせたら、弥富はスカートをたくし上げて『ほらほらー』とかしてきた。おいやめろ。うざいし可愛いしパンツ見えるしやめろ。アホなのかこいつは。
「何やってんだお前……」
もう少しで血迷って「可愛い」とか言っちゃうところだったので、仕切り直して話題転換。
「他の二人は?」
「あぁ、さっきグループで連絡ありましたよ? もうすぐ着くみたいです。スマホ見てないんですか?」
「それ、俺入ってないんだよなぁ」
失笑交じりに俺は言った。それアレだろ? 女子だけのグループってやつだろ? ……なんで全体のグループを作らねえんだよ。毎回俺だけ連絡来ねぇじゃねえか。
……まぁ今日のところは事情は分かったし。もう少しで着くというんなら我慢して待つとしよう。
かくして弥富と二人で待つことに。
弥富は俺の隣に座ると、何やらスマホをポチポチと弄っていた。
——じりじりと焼けるような日差しが続く。まるで高熱の弾丸の雨だ。肌に刺さるように痛い。
本来ならば日陰のベンチに陣取る予定だったのだが、先客がいてどこも空いていなかった。いまさら安地を探し回るのも面倒だし、待ち合わせ場所を広場と指定した以上ここにいる他なさそうだ。
と、再び喉の渇きを覚える。飲み物を取り出した……が、切らしていたんだっけ。はぁ……。どうしたもんかな。自販機までは遠いし、我慢して加納たちを待っていた方が良いだろうか。
そんなことを思っていたら、目の前にペットボトルが差し出された。
びっくりして弥富の方を見る。
「……っ。なんだよ」
「私の、飲みます?」
弥富の手には、恐らく飲みかけのペットボトル。
光を反射してキラキラと輝いていた。
「飲まないんですか?」
「え、あっ、いや、でもこれお前の……」
「えっ……? ああ? そんなことですか? あははっ。全然大丈夫ですよ? それとも間接キスとか気にしちゃう系の人ですか?」
「……バカ、ちげぇよ」
何とか否定したが、しっかり図星だ。ふぇぇ、間接キスになっちゃうよぉ、って普通に思ったんですけど……。くっそ、なんだこいつ……。もしかして恋愛強者か。
都市伝説によると、恋愛につよつよな人たちは間接キスなんて気にしないという。直接じゃなければノーカンということらしい。アレだ。パンツじゃないから恥ずかしくないもんってのと一緒だ。なるほど納得。じゃあ今履いてんのは何なんだよ。
「どうしたんですかっ? ハルたそ顔ちょっと赤いですよー?」
「……うっ」
そういえばこいつ、林間学校のハイキングでも普通に俺の水飲んでたっけ……。そういうの気にしないんだろうな、弥富は。
だから今のやりとりにはそれ以上の意味なんて無いし、深い意味も他意ももちろん無い。そんなことは分かっている。分かってはいるのだが……なんというか、こう……。どうにも慣れないというだけで。
恥ずかしいし、照れ臭いし、意識をしてしまうし……。
今さらラブコメ主人公をやれと言われたところで、俺に務まるはずもないのだから。
だから、視線を逸らすしか選択の余地がなかった。
「……これは暑くて火照ってるだけだ」
「もうっ……強がっちゃって。いいから飲んでください?」
「いやいいって……。違う。アレだよ。俺が気にしてんのは、その……。感染症とかウイルスとか……そういうやつだっつーの」
「ひどすぎるっ!?」
大げさに仰け反る弥富。全身で落ち込むような素振りを取ったかと思うと、途端にふくれっ面になって「ふんっ」とそっぽを向いてしまう。目も合わせてくれなかった。……まぁ今のは俺が悪いですね。はい。
しばらく沈黙が続いても、互いに居心地が悪いだけだ。素直に謝ろう。
「すまん、今のは言い過ぎた……」
「もう……。ハルたそって本当にハルたそですよね。もはやカスたそです」
「どういうことだよ……」
もうそれ俺の名前残ってないし。変に韻も合っててしっくり来ちゃうあたりタチが悪い。
でも謝ったら弥富はしっかり許してくれた。良い奴である。これが加納だったら今ごろ俺の腹には風穴が空いているだろう。
それからしばらく、俺と弥富は『どこまでが間接キスになるのか』という世界一どうでもいい話をしながら時間をつぶしていた。
暑いですね。最近。




