柳津遥香は気付いている
ある日の昼下がり。
クーラーの効いたリビングで、俺は横になってぼーっとしていた。
視線の先には50インチのテレビ。最近はコスプレを趣味にしている人が増加しているみたいなニュースがやっている。カラフルな髪色と際どい衣装。見ればコスプレイベントの特集のようだった。それもここから程近い場所である。なるほど。最近は近くでもこんなのをやっているのか。
オタク趣味が社会から嫌われ、隠れて嗜むべきものだという時代はどうやら終わったらしい。オタク=気持ち悪いという既成概念は破壊され、今じゃ深夜アニメの話を学校ですることは珍しくなくなった。多様性が求められるこの時代だ。趨勢の変化に対して順応に即した結果だと思えば、意外でもないことなんだろうな……っていくつだよ俺は。
いやでも実際、オタクにとっては住み良い世界になったと思うんだよな。一昔前じゃオタクってだけで犯罪者を見るかのような目で見られていた時代もあったらしいし。それに比べたら今は本当にいい世の中だ。うん。本当に。テレビの光景を見てみろよ。もうほとんど全裸みたいな格好してる奴もいるぞ。マジでいい世の中になったなぁ……(遠い目)
ニュースによると来週もこの近くでコスプレイベントがあるようだ。暇だし行こっかなーとか思っていたときだった。
「兄ちゃん、そこ邪魔」
冷ややかな声が耳に入った。
視線を声のする方に向けてみれば、そこには勉強道具を持った我が妹、柳津遥香が突っ立っている。
「お、おう。悪い」
席を立ち、遥香にソファを譲る。
遥香は深く息を吐いて脱力するようにソファに沈み込むと、耳にイヤホンを付けて、それから英単語帳を広げた。
「勉強か?」
「…………」
返事は無い。無視されてんのか聞こえてないだけなのかどっちなんだろう……。
まあ英単語帳見てるから勉強に集中してるんだろうな。たぶんだけど。
こう見えて遥香は中学三年生の受験生だ。来年の三月には高校受験が待ち構えている。この夏休みを機に受験を意識して勉強に励む者は多いだろう。夏期講習やら集中講義やら、テレビでもやたらその手のCMが流れているように思う。
「英語か……。大変そうだなぁ。調子はどうよ?」
かくいう俺も去年のこの時期は猛勉強したもんだ。……え、ホントだよ? まじまじ。二次方程式とか現在完了形とかやったもん。それまで毎日欠かさずプレイしていたエロ——ギャルゲーを封印してまで勉強に取り組んでいたほどだ。俺の本気度が窺える。
「英単語って覚えるの大変だよなぁ」
とりわけ暗記系は苦手だったから苦労した覚えがあった。覚えても覚えても数歩歩いた後にはすっかり忘れているのだ。鳥レベルのオツムだからね俺。仕方ない。
出来の悪い頭にどうすれば知識を詰め込めるのか……そんなことを常に考え、勉強法を工夫しながら俺は受験を乗り越えた。
そういうわけで、俺には勉強の知識は無くとも、勉強する上でのノウハウだけはしっかりと身についていた。アレだ。「英単語は一緒に声に出すと覚えやすいんだぜ?」とか自慢げに言ってくる謎の友達とかいたよな。アレに近い。そういう奴に限って成績大したことないのはなぜなんだろう……。
「今ってどの辺やってるんだ? 早めに予習しておいた方が受験のためにも——」
「——ああ、うるさい!」
と、突然に遥香が絶叫した。イヤホンを取っ払って俺を睨みつけている。
「集中できないんだけど!?」
「……んだよ、聞こえてたのかよ。じゃあ最初からそう言えよ。聞こえてないと思ってたくさん独り言喋っちまったじゃねえか」
「えっ……。今のって、独り言だったの……?」
一転、遥香の表情が驚きに満ちたものへと変わる。
「めちゃくちゃ疑問形だったじゃん……」
「はぁ? 何言ってんだお前。当たり前だ。独り言で会話の練習してんだよ、俺は。なんせ会話の練習相手がいないからな。はははっ……。おい。ここ、笑うところだぞ?」
「いや意味わかんないし。笑えないし……」
まるで車に轢かれた動物を見るかのような憐みの目である。遥香は大きく息を吐いた後、英単語帳をテーブルの上にそっと置いた。
「前々から思ってたけど……兄ちゃんってまともな交友関係あるの?」
「すげえ質問だな、おい」
友達いるのか? という質問ならまだ分かるんだが……。遥香は俺のなりを鑑みてか、その一歩手前、交友関係の有無から聞いてきやがった。ていうか前々からそんなこと思ってたのかよ。
失礼極まりない質問である。それくらいあるに決まってんだろ。
堂々と答えてやった。
「アホ。普通に友達いるっつーの。……一人だけ、な」
嘘はいけないのでちゃんと一人だけと申告。ほら、だってね……? 『友達』って漢字だけ見たら、なんか複数人いるみたいなノリじゃん? そこを誤解されちゃうと嘘ついちゃうことになるからね。気を付けないと。
「そうなんだ……。いたんだね、友達」
遥香が小さくため息をこぼした。兄に一人だけ友達がいるという事実に、どうやら思うところがあるらしい。彼女の憐みの視線が俺を貫いていた。
うーんその目は何かな? もしかして友達が少ない俺のこと心配してくれてんのかな?
我が妹ながら可愛い奴だなぁなんて思っていると、続けざまに遥香が口を開いた。
「かわいそうに。兄ちゃんの友達なんて……」
「心配してたのそっちかよ……」
遥香はどこか遠い場所を見ているかのような目をしていた。俺じゃなくて友達の方の心配だったみたいだ。いや、なんでだよ。
「その友達のこと、ちゃんと大切にするんだよ……」
「やめろ。そっと肩に手を置くな」
よく分からんアドバイス諸共、遥香の手を振り払う。
遥香は悪戯っぽく笑うと、それから手刀を作って一言。
「ごめんごめん。一割くらい冗談だから」
「じゃあほとんど本気じゃねえか。いらねえよその謝罪」
ツッコむと、遥香はまた子供っぽい笑い声を上げた。こいつ俺のことバカにしすぎだろ……。ていうかさっきから何なんだこの会話。中身も何もありやしない。
まぁ妹とこんな会話ができるほどには兄妹仲がいいという話かもしれない。が、会話を振り返ってみると、ただ俺が妹に虐められているだけだと気付いた。会話の中身が無いんじゃなくて、兄の威厳が無いだけだった。かなしすぎる。
今日に限らず、俺が買ってきたプリンを勝手に食われてたり、家の掃除当番を押し付けられたりするから、やっぱり俺って尻に敷かれ——優しいんですね。うん俺ってまじ天使。
そんなわけで、悲しみの舞を踊ることにした。……いやどんなわけだ。てか悲しみの舞って何だよ。悲しいのに舞っちゃうのかよ。
「でもさー、兄ちゃんってマジで何してんの? 夏休み中もほとんど家にいるし。もしかしてニート?」
遥香が改まった顔でそんなことを聞く。ははぁ、こいつはまた面白いことを言う。そんなわけあるかです。高校生だから。俺ちゃんと高校生だから。……そう、だよね? 合ってるよね? ちょっと自信ないな……。
「何してるも何も……。今は夏休み中だから家にいるだけだろ。何もおかしいことは無い」
「いやおかしいよ。全然おかしい。……何がおかしいって、家にいる時間がおかしい。もうずっと家にいるじゃん? ここに住んでるのかなってくらい家にいるじゃん?」
「俺ここに住んでる者なんですが」
それとも俺の記憶違いだっただろうか。橋の下とかだっけ、俺の住処。
遥香の見下げ果てたような視線をひしひしと感じつつ、最近のことを思い出してみた。
「それに、言うほどそんなこともないだろ。一週間くらい前にコンビニ行ったぞ」
「一週間ずっと家から出てないのがおかしいんだよ……!」
呆れたようにため息を漏らす遥香。大げさに頭を抱えていた。さっきからこいつは何を言いたいんだろうか。外に出て行けって話か? ビタミンDがどうたらとか、そういう話をしたいんだろうか。
まあ兄妹として兄の出不精を心配しているという見方はできる。だが、相手はあの遥香だ。今まで俺にそんな心配をした試しがない。いつもならゴミを見るかのような目を向けるだけである。
「なんだよ。急にそんなこと言いだして」
まさか兄の健康が心配になったとか、突然お兄ちゃんのことが好きになっちゃったとか、そんなわけでもあるまい。
問うと遥香は、間を置いてから一言。
「……最近、兄ちゃんが活き活きしてたからさ?」
「はぁ?」
それは、俺が考えるはずもない妹からの気付きだった。




