誰が為の願い
わなわなと口元を震えさせ、遂に立ち止まる智也。
絶句し、立ち尽くす彼の表情からは、表面化した驚きと在伏した怒りが見て取れる。
――弥富の告白を受け入れる。
それは智也にとって許されぬ願いに他ならない。
たとえ恋愛相談部のためだとしても。たとえ弥富のためだとしても。
もちろん誰のためだとしても。その解決法は智也にとってあり得ない。
思い人である春日井。彼女への裏切りだけは、絶対にあってはならないのだから。
だから、そんなお願いをしたところで、こいつがそんな依頼を受けることはないだろう。
……分かっている。ああ、そうだ。こいつがどれだけ春日井のことを好きか、俺はうんざりするほど知っている。
この二か月で思い知らされたのだ。
智也と春日井の間には、何人たりとも介入する余地がないということを。
二人の仲を引き裂くことなど、誰にも出来はしないということを。
――だから、あり得ないのだ。
智也がそんなお願いを受けることも。
あるいは、俺がそんな依頼を智也に頼むことも。
「はぁ」
俺はゆっくりとため息をこぼすと、一言だけ告げる。
「――んなわけあるかよ」
「…………え? 違うのか」
腑抜けた智也の声。どうして加納といい、こいつといい……。どいつもこいつも俺がそんな解決法に手を出すとか思っちゃったんだろうか。普通に考えてそんなわけなくね? さすがにそんなオチにするわけないよね? だってそんなことしたら、春日井に殺されるもん俺。人には言えないような死に方するぞ、たぶん。
「違うに決まってんだろ。どんなお願いだよ、それ」
弥富のためにできることをしたい。それは本当だ。
恋愛相談部に寄こされた相談には全力で臨む。その方針に変わりはない。
けれど、なんでもかんでも相談内容を鵜吞みにすることが、成功につながるとは考えていないだけのことで。
――むしろ、逆だ。
俺の予想が正しければ、弥富の告白には別の意味がある。
だから弥富の告白の返事を、智也は間違えてはいけないのだ。少なくとも、弥富を喜ばせるためだけの返事をすることだけは避けなければならない。
「じゃあ……お願いっていうのは、なんだったんだ」
「まあ聞け。ちゃんと説明するから」
一呼吸置き、俺は智也に問う。
「――智也、お前は弥富に告白されたらどうする?」
「はぁ……? えっ。いやそれは……」
智也の真意。無論分かりきっていることだ。だが確認は必要だった。
ここが正念場だ。
智也は何を考えているのか、しばらく答えあぐねている様子だったが、やがて俺のことを正視して、一言。
「――断るよ」
「だよな」
納得のいく答えが聞けたので俺は頷く。
「お前は春日井のことが好きだ。そして春日井とこれからも付き合っていきたいと思っている」
「そうだな」
「だからこそ、お前はこの告白で弥富のことを諦めさせなきゃいけないんだ」
それは、智也がするであろう告白の返事ではきっと為し得ないことだった。
どういうことか。
――智也には、ある大きな欠点があるのだ。
すべてはそこから始まり、そこに行き着く話だった。だからなんだろう。弥富が恋愛相談部にあんな相談をしたのは。
「どういうことだ?」
「これは俺の推測でしかないんだが……」
智也の顔色をうかがってから、俺は徐に口を開く。
「お前は誰かからの告白を断るときに、それを『強く否定できていない』んじゃないのか?」
強い否定、というのが何を指すのか具体的には分からない。智也がどうやってこれまでの告白を断って来たのか、それを具体的に想像することは俺には難しい。
けれど大里智也という人間性を見れば、分かることはある。
――分け隔てなく接する、智也の優しさ。
そう。智也は誰にだって優しいのだ。クラスの連中にも慕われ、智也の悪い評判なんて聞いたことが無かった。
親しみやすくて、人懐っこくて、誰に対しても友好的な智也。
俺の知っている限りで智也ほどの人格者はいないのかもしれない。
もちろん俺は智也のすべてを知っているわけではないし、そう言い切るだけの証拠があるわけではない。
けれど、身近にいて感じるのだ。
智也は優しい人間だ。
――その優しさこそが、火種だったに違いない。
「林間学校に来る前、学校でお前は誰かに告白されてたよな」
しばらくの沈黙の後、俺はそう切り出した。智也の肩が小さく跳ねるのを見る。
昨日の朝。体育館裏で智也は告白を受けていた。
もちろん、智也はその告白を断った。
けれど、あのときから違和感は感じていたのだ。
あの場にいた女子の反応を思い出して、俺の仮説はほとんど確信に変わっていた。
「お前は告白を断った。でも俺はその断り方に何か引っかかりを覚えたんだよ。あのときは大して気にも留めなかったけど、今振り返ればそれが全てだったんだって思うよ」
智也曰く、振った女の子には『友達になろう』と言ったのだという。
あるいは遊びに行くことも全然大丈夫なのだと。これからも仲良くしてほしいと。
そういうフォローを智也はする。それは優しさであり、智也らしい一面ともいえる。
もちろんほとんどの人には社交辞令と聞こえるに違いない。
上辺だけのアフターサービスで、そこには何の感情もこもっていないのだと、多くの人は思うのかもしれない。
けれど、智也にとってそれは本心から出た言葉だ。
嘘ではないのだ。こいつにとって、その言葉は本心でしかない。
そして、それを感じ取れる誰かにとって、その言葉は命綱になる。
智也の優しさに触れて、智也のことをもう一度好きになる。
――それが火種だったのだ。
「お前は、なるべく告白してくる子が傷つかないように告白を断るようにしている。……そうだろ?」
いつかの夜遊び事件があった。あれは智也が告白を断ってからの話だったはずだ。
つまり、今回の弥富の件についても、同じことが言えるのだとしたら……。
「弥富に対しても、同じような断り方をしたんじゃないのか……?」
意識的にやっているかどうかは分からない。もしかしたら、言われて初めて気付いたことかもしれない。
けれど振り返ってみれば、心当たりくらいはあるはずで。
「だから、俺からの『お願い』って言うのはな――」
だから、俺は願う。
こんなことを智也に頼むのは、お門違いかもしれない。
弥富の恋愛相談に向き合うことになっているのか、今でも分からない。
けれど、
それでも――
「自分の気持ちを優先してほしい。春日井のことだけを考えてほしいんだ」
頼まずにはいられない。
智也と、春日井と、
それから、弥富のためにも。
「――弥富の告白を、容赦なく振ってほしいんだ」
震えた声。その先に、鬱屈とした表情をした智也がいる。
煩わしいと思われても仕方がない。部外者だと言われても反論できない。
どう答えようとも、それは智也の自由なのだから。
俺がどうこう言う話ではない。
それでも俺は、智也にそんなつまらない頼み事をする他ないのだ。
誰の為になるかも分からない、そんな俺の些末なお願いに。
智也は小さく、重々しく頷いた。
「……そういうことか」
納得し、小さな笑みを浮かべる智也。そして少しだけ淀んだような目をさせて、窓の外に目を向けていた。
キャンプファイヤーの熱気は最高潮に達しているらしい。窓を閉め切っているにもかかわらず、有象無象の喧騒が良く聞こえた。
「陽斗の願いは分かった。……そうだな。やってみるよ」
鞄を抱えて、智也は一歩を踏み出す。
そしてすれ違いざま、噛み締めるように、言葉にする。
「梓ちゃんのためにも。……俺のためにも」
そう言い残し、部屋を出て行った。
残された俺は一人、窓の外に目をやる。
――喧騒は鳴りやまない。
酔いしれるように、この夜が終わらないとでも思っているかのように、宴は続くのだろう。
部屋の隅、誰も見つけてくれないような暗いその場所で、ゆっくり崩れるように俺は座った。
騒がしくて、鬱陶しいはずの夜だというのに。
刺さるように痛くて冷たい沈黙が、この部屋に取り残されている気がした。