温泉と夜空
サービス回です(たぶん)
扉を開けた先に、白い湯気が立ち込めていた。
温泉独特の硫黄のにおい。花火の火薬、あるいは鉄さびのような、ツンと来るにおいを感じる。
それに草木の香り。ふと耳を澄ますと虫の音が遠くから聞こえた。どうやらここは露天風呂になっているらしい。
辺りを見渡す。
洗い場にも浴槽にも人はいない。俺一人のようだった。
「まぁいるわけねえよな」
独り言つ。間違って男湯に入ってきた女子もいないみたいだった。まぁそんな奴現実で見たことないんだけど。下らない妄想はさておき、チャッチャと頭や体を洗うことにした。
備え付けのシャンプーを手に取り、頭の上で優しく泡立てる。……ここで豆知識。頭を洗う時の注意点。どれだけ痒いところがあっても絶対に爪を立ててはいけない。でないと頭皮が傷ついて、余計に頭が痒くなってしまうのだ。優しく指の腹で洗うのがポイント。マッサージするように丁寧に洗うことを心がけよう。将来ハゲないためにも……な。
……ていうか今の話で思い出したぞ。
そうそう、聞いてくれ。この前初めて美容院に行ったんだが、そしたら頭を洗ってる最中に『痒いところはございませんか?』って聞かれて。意味分かんな過ぎて『あっ、え……? 背中が、痒いです』つったらすごい変な空気になったんだけど。何だよあの質問。トラップすぎるだろ。その後店員さんにしぶしぶ背中を掻いてもらって死にたくなったんだぞ……。おわり。
回想に耽っていた時である。カラカラと引き戸の音がした。塀の向こう、約束の場所(女湯)だ。
「わー、温泉だっ! すごい!」
頭の悪い声が聞こえてきた。
あの声は加納だろうか。はしゃぎすぎだろ。
ペタペタと浴場を走るような音も聞こえてくる。危ない危ない。コケるぞ。プールサイドだったら監視員にメガホン越しに怒られるやつだ。あれめちゃくちゃ恥ずかしいよね……。
向こうの様子に若干不安を覚えつつ、シャワーで頭の泡を洗い流した。よし、次は洗顔。
泡で髭を作り、サンタクロースごっこをして遊んでいると、また引き戸の音が聞こえた。
「結構広いね?」
この声は鳴海で間違いない。加納と違って落ち着いたトーンの声である。
「ねー? 早く体洗ってお風呂入ろ!」
薄い壁一枚挟んで女子二人か……。
ふむ……。あれ……。
よく考えたら……この状況結構アレじゃね? 男子が羨ましがる状況ベストテンくらいには入ってるんじゃね? 髭作って遊んでる場合じゃねぇよな。早く顔の泡落とさないと……。だいたいサンタクロースごっこってなんだよ。
洗顔を終わらせ、さっさと体も洗っていく。テキパキと体の隅々までゴシゴシしたところで泡を流した。そして塀に寄り添う形で風呂に入って、じっと聞き耳を立てる。
「それにしても、ことちゃん、すごい……」
「え? なにが?」
「あっ、いや、なんでも、ないよ……?」
「そう? ならいいんだけど……」
――やば。
いや、なんだ今の会話。ヤバすぎるだろ。え、なに? もしかしてこれってラブコメ? 俺ってラブコメの主人公なの?
「ほんとに……すごい……」
控えめな音量で鳴海が呟くようにそう言っていた。まぁ相手は加納だからね……。むべなるかな。女子と言えどもその迫力には黙っていられないというわけだ。ちくしょう。俺も見たかった……!
でも加納の裸体なんて見たらなぁ……。ヤバいよなぁ。俺死ぬんだろうなぁ……。あぁもちろん、昇天とかそんな意味じゃなくて、純粋に加納に殺されるって意味なんだけど。
「…………はぁ」
ぽちゃん、と水が跳ねる。
にしてもこの温泉、結構いい感じである。男湯には俺一人しかいないっていうのもあるんだろうが、とてもくつろげる環境だ。全身が脱力して、無駄なことを考えずにいられる。これまでの不安やら葛藤やらも忘れてしまうくらい、穏やかな気持ちにさせてくれた。
空を見上げる。
こんな山奥だと星がきれいに見えるもんだ。ここからは満天の星空というわけにはいかないが、それでも都会で見る星空よりかは何倍もキレイだった。きっとバーベキューをした広場辺りで見たらすごいことになっているだろう。
星に指を重ねてみる。星座はあまり詳しくないが、夏の大三角くらいなら分かる。一番眩い星を辿るだけだ。オタクならアニソンでお世話になってるし、なおさら簡単ですよね。
というわけで、夜空に輝く三角形を指でなぞった。せっかくならオリオンもなぞりたいところだが、季節的に無理そうだな。――夏の大三角をなぞる、こんな深い夜……。ところでアレガってどれなんだろう。未だに見つけられないんだが。
星か……。昔はよくプラネタリウムとかに行ったな。ちょっとした中二病を患って、星の名前を出来るだけ覚えようとしたこともある。遂には俺の将来の夢は天文学者だ、とか言って宇宙の果てしなさに触れようとしたこともあったっけ……。
愚にもつかない妄想だったなぁと思いつつ、大きく息を吐いた。体が沈み込んでいくように水の中へと飲み込まれていく。
くつろぎすぎだろうか。いやでも、この時間くらいは許してほしいものだ。ただでさえ林間学校なんていうイベント尽くしの行事の最中なのだ。加えてそこに弥富の件も絡んでいる。この状況にいながら常に落ち着いていられるはずもない。
この温泉に浸かっている間だけが、林間学校の中で唯一心の平穏を保てる時間のような気がした。帰ったら弥富と一度話さないといけないしな。まだまだ林間学校は長い。せめて、この時間だけはもう少しくつろがせてくれと願いながら……。
……やけに、静かだと思った。
先ほどから何の音もない。いや、男湯は俺一人だけだから当たり前なんだが、女湯の方も沈黙が続いている様子なのだ。
加納と鳴海が温泉にやって来たのは俺の後で、ついさっきだ。いくら何でも風呂を出るには早すぎるだろう。
ではアレか、俺が聞き耳を立てているのに気付いて、やはり帰った説。うん、まぁ。それはありそうだけどな。普通にありそう。でも、もしそうだとしたら、加納が一つや二つ塀越しに文句を言うに違いない。
それに引き戸の音はしなかった。ということはまだ二人は風呂場にいるということだ。
この静けさはどうも引っかかる。加納がさっきまでやけに騒いでいたから余計に。……何かあったのだろうか。
おーい、とでも叫ぼうかと迷っていたその時だった。
「…………陽斗くん、今いる?」
加納の声。落ち着いた声だったが、はっきりと聞こえた。
塀越しとはいえ、俺たちはすぐ近くにいる。突然呼ばれたことに一瞬たじろぎつつも、加納の声のトーンが平常のそれではないことに気付き、こちらも同じような声音で返事を返した。
「んだよ、どうした……」
我ながらわざとらしい、めんどくさそうな声。すぐに返事は返ってきた。
「――こんばんは」
その声に対する返事は、加納からではなかった。
無論、鳴海でもない。
それは聞いたことのある、甲高い声だった。
「いいお風呂ですねっ?」
勘違いでないとすれば。
――俺が今話している相手は、弥富梓である。