彼女の誤算
ヤバい女。
「ちょっと待ってくれ……。一回整理させてくれ」
たまらずタイムを要求。しばしの時間、頭の中で状況を整理する。
……掻い摘んでまとめるとこういうことだろう。
「つまり、お前は周りから貼られた『加納琴葉』のレッテルを守りたいってことか? みんなの理想としている『可愛い加納』のレッテルを」
加納は俺の言葉を聞いてせせら笑う。
「私が手に入れたこの地位自体は、さっきも言ったけど嫌いじゃないの。みんなから慕われたいし、みんなから愛されたい。だからある程度の我慢は受け入れるつもり。恋愛相談部に入ることで、そのイメージをより強いものにしていくの」
「入部の動機が不純すぎるだろ……」
未だかつて、たかが部活動にこんな入部動機をもった奴がいただろうか。回りくど過ぎて意味わかんねえよ……。
「でも恋愛相談部は廃部寸前。だから部員が必要ってことよ」
「なるほど……いや、ちょっと待て。じゃあなんで俺なんだ?」
間髪入れずに問うた。最大の疑問である。部員の補充と男除けに人手が必要だとしたら、俺より適任な人間は大勢いる。
加納は質問を聞くや否や、何を当たり前のことを……と言いたげな顔で答えた。
「それはもちろん、アンタが『恋愛マスター』だからよ?」
「は?」
「友達から聞いたわ。柳津君、中学の頃は『恋愛マスター』と呼ばれていたって」
「なん、だと……」
驚嘆の声が漏れた。
今日で二回目の黒歴史フラッシュバック。鮮明にあの頃が脳内に蘇った。オタク人生を謳歌するあまり犠牲になった学校生活。辛い日々。泣いた日々。そして便所で食った母さん手作りのカレーライス――
「やめてくれぇぇぇぇぇぇ!」
あまりの歴史の黒さに俺は床でのたうち回った。黒い。黒すぎる。古代ギリシャより暗黒なレベル。もう黒歴史じゃなくて暗黒時代じゃねーかそれ。
「その話は金輪際やめてください! お願いします!」
「ちょっと……こっち来ないで! キモいっ!」
そう言って加納は俺を一蹴する。文字通りの意味で。
いやいや、だってしょうがねえだろ。黒歴史を思い出すのは精神的に相当なダメージが来るのだ。暗黒時代ともなればそのダメージ量は計り知れない。なんてたってギリシャ人が文字資料を放棄するレベル。いや、暗黒時代ってそういう意味じゃねえけど。
地獄のフラッシュバックからなんとか意識を取り戻す。……ちくしょう、俺の過去を弄びやがって、絶対許さねえ。
「……それで、結局どういう了見で俺をここに呼んだんだ」
「だから何度も言ってるでしょ。あなたが恋愛マスターだからよ」
「――くっ、お前俺を馬鹿にしてるのか……?」
「はぁ? 馬鹿にしてる……って、え、どういうことよ」
そう言って加納は戸惑った顔を見せた。
俺もまた、加納の表情を見て引っかかりを覚える。
……どういうことだ?
そもそもの話、加納が俺の黒歴史を知っていたとして、それでなぜ俺を部員に選ぶ理由になるんだ。冷静に考えたらおかしな話だ。むしろ俺を使えない存在として認識するだろう。恋愛マスターとして揶揄され続けた俺が恋愛なんか分かるわけ……いや、待てよ。まさか。
一つの最悪ともいえる答えが浮かぶ。というかそれしか考えられなかった。
恐る恐る問うた。
「加納。お前、俺を恋愛マスターと聞いて俺を恋愛相談部に勧誘したんだよな?」
「は? だからそうって言ってるじゃん。恋愛に詳しい人が部員になれば、これ以上やりやすいことはないでしょ?」
「……なるほど」
思わずため息が漏れる……。なんだよ、そういうことか。いやまぁ、そりゃそう思うよな。恋愛マスターっていうあだ名の奴が目の前に現れたら、恋愛に詳しい人なんじゃないかと思うのは当たり前だよな。
「加納、確かに俺は恋愛マスターだが、恋愛マスターじゃない。つまり半分は恋愛マスターだが、半分恋愛マスターじゃないんだっ!」
「何言ってんの? バカなの?」
俺のシュレディンガーの猫的な発言を忖度することもなく、加納は鼻で笑っていた。……くっそこいつマジでムカつくな。可愛いのがさらにムカつく。少しは考えてみろよ。まあ今の俺の発言じゃ絶対分かんねえけど。
――俺は丁寧に、あだ名である恋愛マスターの意味を教えた。
恋愛マスターとは文字通りの意味ではない。ただの皮肉が利いたあだ名である。
「あのな、実は……」
最初はしばらく、加納は俺の話をすました顔で聞いていた。途中何回か鼻で笑われた。
だが核心に迫るあたりから態度は急変する。途中から加納は口をあんぐりと開けていた。あまりにもずっと開けているから顎が外れたのかと思った。
そして全部を話した頃には、加納は脱力しきって乾いた笑い声を漏らしていた。
しばらくしてから、ようやく加納が口を開く。
「はは……え、どういうこと。つまりアンタは、恋愛マスターでもなんでもなくて、ただのキモいオタクってこと?」
「キモいは余計だが、大体あってる」
「じゃあつまり、なに。アンタは恋愛とかしたことないわけ?」
「残念ながら、そうだっ!」
「偉そうに言うな!」
加納が涙目で俺に怒りの言葉をぶつけてくるが、俺に当たられても困る。完全に彼女の早とちりなのだから。
加納は額に手をやって現実を受け入れんと大きく息を吐いた。
「私の努力は何だったわけ? 五月にアンタの話を聞いてから、ずっとアンタが入部届出しに来るのを職員室前で待ってたんだけど」
「怖ぇよ」
……それで職員室前にいたのか。ストーカーかよお前は。
「わたし、めちゃくちゃ無駄なことをしてたわけ……?」
聞き取れるかギリギリの音量で加納は呟いていた。
なんだかよく分からないが、こいつの計画はご破算になったみたいだ。
「ははは、まあドンマイってやつだな。俺に恋愛経験が無かったのはさすがに誤算だったか。しかしアレだな。今まで童貞であることを恥じて生きていた俺だが、今日ほど自分が童貞であることに誇りを持った日はないな」
「……うるさい、ケツの穴ぶち抜くわよ」
「いや、怖ぇよ」
普通にこいつ下ネタもいけるのかよ。もうドン引きだわ。