自殺ができない世界
はぁ、はぁ。と、不規則な息が夜の街の騒音に紛れ、消えていく。
屋上のビルには独りの少女。制服姿の少女がいる。
ただ、ただこの少女の着ている服はひどく泥や、血・・・彼女自身の血がこびり付いている。
さらに言えば、彼女の身体中には、複数の痣がある。顔には悲しみと絶望と、諦め。それらの感情全てを受けて、鬼のようになっている。目は、両眼は、これ以上ないくらいに開かれ、濃く深い紫色に怪しく光っている。
息を大きく吸い上げた後、彼女は怒鳴った。
「神様という奴がいるかどうかは知らないがいたとするなら聞け。お前が作ったこの世界の、『人間』って生き物は、憎悪に満ちていて、悪意の塊で、それでいて嘘出鱈目の人を思いやる心なんて言うものを持っているらしい・・・私のようになぁアア!」
彼女は神を、さも人間の代表のように傲慢に、人間味を帯び過ぎた言葉で罵る。罵り続ける。
「私がこんなナリをしている理由は分かりますでしょうか、全知全能である神様。もちろんお分かりになっているでしょうね。神ですもの。万が一その理由が分からなかった時のために、怠惰なあなた、若しくはあなた達に教えてあげましょう。人間がどれだけ歪な生物なのかを。
簡単なことです。共食いに会ったのです。実際には食べられてはいませんが。共食いにあったんです。
神様、あなたは人間を最高の知能を持った生物に仕立て上げました。そのことには感謝すべきかもしれません。否、感謝します。ありがとう。ですが、ですがァ、あなたの思う最高に知能とはこんなものだったのでしょうか。所詮そうですよね。自分で言うのもなんですが、私は憐れにも犠牲者に、食われる側に回りましたァ。はい。
発端は何でしょう。そうです。一か月程前ですね。私の両親は死にました。偶然にも。その時はせいせいしましたよ。誰でもそうですよね。家庭内暴力なんて振るう父親と、それを受けて私を虐めてストレスの捌け口にする母親が消えたんですよ。その時は、神様ありがとう。運命万歳と思いました。その跳ね回りたい気持ちが続いたのは次の日の夜まで。母親が虐めの際に撮った私の自慰の映像がネットに流れていたことに気づきました。誰が? 親友だった神沢舜という奴だ。一応仲良くしていた。幼馴染だったし。皮肉にも神とついた苗字だが気にするなよ。まあ、そいつがご察しの通り情報を学校のみんな・・・ではなくあいつが所属している裏グループの馬鹿どもに売りやがった。分かるか。分からないよな。そんな面白半分に親友を落とすなんて。あなたたちは分からないですよね、この感情。あいつが私を落とした感情。それを受けた私の感情。私の秘密を知った裏グループの糞共の感情。私の動画を世に送り出した女の感情。悔しいが、悔しいが私は全部理解できる。たとえ被害者だったとしてもな。ハハ、こんな状況にしてくれてありがとう、神様。
ということで私は普通に生きてはいけない存在になりました。非合法的な手段で糞共によって、やっとなくなったと思った虐めが違うカタチでもたらされました。最初は無視から始まりました。やっと声をかけてくれたと思ったらパシリをさせられました。次は宿題代行。次は変な噂。まだまだあるよっ。私の彼氏への密告。靴がゴミ箱に在ったりって小学生かとも思いますけどね。さらに間接的に行われる悪口、口撃。性的虐め。最終的にはこうなりました、ハイ。この制服を見た通り、反抗的な態度を取ったとか何とかで目に見えて明らかな暴力。これは精神というか身体に直に響くんで厳しいものでした。これが入れ代わり立ち代わりいろんな人がいろんな機会、というかいつも、あらゆる方法で続いていきました。
心の中では、あいつらを嘲笑ってそれで耐えていましたがね。そろそろ嫌気がさしたんです。助けてくれない大人たち。知らない振りする義父、義母。親切な言葉の陰に軽蔑を送ってくれるホットラインの相談相手。そしてあなた。みんなに、みんなに嫌気がさしたんですよ。あなたは残酷にも救ってくれませんでしたね、神様。
ではここからが本題です。やっと本題です。まあ、そもそもあなたという存在がいないのなら、今の今まで独白し続けた必要はなかったのでしょうし、これから続ける必要もないでしょう。そしてこれは死者の独り言となって夜を歩き続けることになるでしょう。まあいいです。続けます。言い切ってやりますよ。
そう。ご察しの通り私は今から死にます。遺書? そんなの必要ありません。私はただ淡々と・・・とはいっても長々と今あなたに話していますがね・・・逝きます。つまり自殺するということです。運良く住んでいたところはビルでした。入水だと死にきれないし、首つりだと・・・首つりはなんだか気に入りません。と、いうことで私は飛び降りを志願しましたぁ! 勇気ある決断でしょう。落ちてゆく最中に恐怖を感じながらする、あの飛び降り自殺。さあ、今からご覧に入れましょう。」
彼女の長い、長い、神への告発はクライマックスを迎えようとしていた。靴を、泥だらけになった靴を脱ぐと彼女はそれを右手に持ち屋上の淵へと進む。
それは軽い足取りで、決してきれいとは言えない白、否、黄色っぽい靴下が際立っていて、彼女の身体はふわふわと浮いているかのように見えた。
そして、狂気じみた少女は空気の塊へと神への断罪の言葉を放つ。
「えぇ~。被告人、どっかのだっかの神様という生き物は、人間の自殺を助けたという事実から、まあほかにも罪はあるがな、面倒だから、一つ、自殺幇助罪として、この素晴らしい生き地獄を永遠に監視し続ける義務を処する。神が死ぬ日、今日は何日だっけ、まあいいや。その日の午前0時からこの罰は始まる。さあ残り30秒だ。はぁ、はぁ。いいなぁ、この感じ。絶望と歓喜を一回で味わったような感じ。おっともう時間だ。じゃあ逝くとするよ神様。5・4・3・2・1・・・さよならみんな。」
彼女は地を背中に、手を広げ、目じりに涙をのせて・・・ビルから、落ちた。
そして彼女は、死ななかった。
***
『神が死んだ日』を境に、地球上の人々は自殺ができなくなった、否、正確には成功しなくなった。その日から一年間の間に何があったかは語り切れない。
1週間もしないうちに、その事実は認識されようとしていた。最初の3日で各国の警察が、5日でネットの自殺サイトが、7日でメディアが気づき、報道した。世の中はその事実を肯定し、歓迎した。
原因がわからない。これは神がお決めになったのだろうと皆が思った。
だがそれでも、死を選ぼうとする生ける屍はいて、数え切れぬほどいて、最初の内は幸せだった、幸せに見えた世界が日を重ねるにつれ、やつれ、枯れ、衰え、消えていき、最後には感情さえも消えた。感情が消えてしまったのだ。世界は悪意と失望の渦で巻かれた。
自殺に失敗した人々は、ほとんどが廃人と化してしまった。稀に思い直して、普通の人間に戻った者もいたが、前者が圧倒的数で、各地域の雰囲気はどんどん悪くなっていった。
その雰囲気につられて、また自殺願望者が増えたし、その人たちを見て皆働く気力をなくした。
そうすると、まだ仕事を辞めていなかった人々・・・働く人は少なくなっていた・・・には過剰労働が強要され、死という逃げ道がないまま生きた人形になっていった。
生きている。思考はできないにしても仕事はしている。心はなくなっても体は動いている。一目見ただけでは、今までとは違うところはほとんど発見できない。
だが目を凝らすと綻びはいたるところに見えた。誤魔化しは限界にまで来ていた。
逃げる手段を失った人々は狂った。感情が消えた中でも狂った。狂っていった者から死のうとした。あらゆる方法で。
幸いと言っていいのかわからないが、殺人はまだ起きていたのでそれを使って死のうと思った人も大勢いた。だが自殺幇助は神に認められず、死にきれない人が続出した。
薄暗く、どんよりとした空気が地球を取り巻き、最初は自殺撲滅に積極的だった団体も一つ、また一つと消えていき、逆に自殺願望者の集まりが開かれるようになった。人々は自殺をするために生きていた。
神はずっとそれを見続けていた。だがそれは、高みの見物に過ぎず、「自殺をできないようにしてやったのに」と、下界の人々に対し怒りを覚えた。これは、逆切れなのだが、神は、神自身を監視する術を持ち合わせていなかった。神は独りだったが、今までは善だった。正しい判断をできた。だが、もうその神は神ではない。最早神は『神の死んだ日』に消えた。その代わりに悪魔が生まれた。
悪魔は思った。
「何故私は人の助けをしているのに疎まれなければいけないのだろう。何故私はこんなことをする必要があるのだろう。何故私が全責任を負い、努力しない雑魚共に同情する必要があるのだろう。何故、何故、何故・・・。」
悪魔は愚かにも考えた。
「私が止めればいいんだ。自殺ができるような、緩い世界に戻せば元のようにうまくいくはずだ。何よりも私への信仰は回復するはずだ。」、と。
***
一人の少年がいた。ビルの上に佇んでいる。
彼の顔はひどく歪み、口元にはよだれが垂れている。それと同時に口角はひくひくと痙攣しながらも上がっていて、笑っているように見える。
彼の身体には傷はなかった。半年ほど前から虐めの仕方は変わっていた。相手を死への恐怖に突き落とす手法は、とられないようになった。それは、虐める側の大きな心の変化に因る。
つい先まで俯いていた少年は顔を天に向ける。夜の空は雲に覆われ、紫色に濁っている。まるで少年の目のように。
少年は叫ぶ。
「こぉんばんわぁ、神様。神様ってなんて素晴らしいほど盲目なんでしょう。ハハハッ! 羨ましい。羨ましいほど憎たらしい。憎たらしいほど妬ましい。私もそうであったら淡々と今まで生きていけたものを・・・。あなたはラッキーですね。ハハ。なんのことだかわからない? そうですか、そうでしょうね。今まで偽善者ぶって何もわからないと耳を塞いだように、目を瞑ったように、何もしてこなかったのですから。
自殺ができない世界になりました。これは素晴らしいことです。わかっていますよ。自殺は罪。自分に対する殺人。悪いことです。誰だか知りませんけど、人の命は地球より重いなんて言ってましたもんね。それ聞くと何言ってるのと言いたくなりますが、まあいいでしょう。感性は人それぞれですから。
てなわけで自殺が悪とみなされる世界に生きていますが、意外とそれは覆されかけていますよ。現状、ほとんどの人が趣味を持っていないんですって。何生きている意味あるのって思いませんか。実は3人に1人は自殺願望者っていう統計も出ているんです。結構ね、人というのは自分勝手で貪欲な生物だと思うんですよ。微妙に知性を持って生まれてきちゃったからさ、死ねないし考えないと生きていけないし、殺人はダメなんて言うし、なんか傲慢そのものって感じなわけよ。だから禁止された途端それをやりたくなる馬鹿な奴らがいて、雰囲気に流される馬鹿な奴らがいてまあ3分の1という数まで膨れ上がったわけです。」
少年は一呼吸おいて、後ろに倒れた。体がコンクリートに垂直に打ち付けられたが、鈍感なふりをしている。
手広げを空に向けて突き出し彼は話す。誰でもない、神様に向かって。さっきの興奮から少々熱がとれたようで、落ち着いた言葉でまた話し始めた。
「ねぇ神様。さっきから脈絡のない話をしててごめんね。
僕さ、怖いんだ。みんなから虐められることが。なんで僕なのって聞いてもみんな下品な笑みを向けて言うんだ。『弱そうだから。息苦しいこんな時代に生まれたから、気晴らしにね。誰でもいいが弱そうな奴ほど、ナぁ気持ちがいいだろ』なんて。もう僕は怖くて怖くて怖くて怖くて怖くて。誰も手を差し伸べてくれない。両親は無気力になったくせに僕に不登校もさせてくれない。先生なんていてもいなくても同然だし、周りの子もみんな大人しく見ているだけ。言い返したら言い返されて、論破しようとしてもなぜかスキが見えなくて。僕は弱い自分を呪ったよ。周りの大人も呪ったよ。友達なんてうそぶくクラスメイトを呪ったよ。だけど誰も死なないんだ。生きているのが当たり前だと言わんばかりにそこにいるんだ。僕には他人を殺す、他殺をする勇気はない。一人殺したら捕まっちゃうだろし、それじゃ目的を達成できない。じゃあどうするか、そうだ、この感情を持つ者、弱い力を持つ者、犠牲者・・・つまり僕が死ねば、解決する。少なくとも僕の中では解決するんだ。」
少年は起き上がる。
「自殺は不可能なんて謳われている世の中だけど、一回自殺しようとした人は社会的に死んだとみなされるんだ。この制度、昔はどうかと思っていたけど結構理に適っていてね。自殺未遂っていう犯罪に引っかかってたくさんの人は牢獄に行くんだ。ご飯はあまり出されないけどなぜか死ねない。自殺を諦めていない人は神様、あなたが定めた理によって生かされるし、自殺などもう御免だっていう人は社会的に生き返ることができるんだ。なかなかいい制度だよ。僕はこれを利用しようと思う。いじめをされ続けるよりはましさ。あとなんだか、今日なら死ねる気がしてるんだよ神様。ねえ、僕は死ねますか。もう自殺ができない世界は今日で1年を迎えようとしています。もう、無理です。逃げ道が用意されていない世界などもう働きません。機能しません。せめて、せめて僕たちに自殺を許してください。1年以上前に戻してください。もう耐えられません。」
少年は、泣いていた。泣けたことに驚いているようだった。不思議とそこには神への憎しみは見て取れず、ただ権利を、自殺の権利を欲している。それだけだった。
神への信仰はこの1年で激減している。自殺ができない歪んだ理を新たに足した神に一部を除く全世界の人々が憤怒しているのだ。だがここにいる少年は懇願している。これは全世界の人々の願いなのだと言っている。
悪魔はまた考える。
『もしも、私が自殺を許したのなら。信仰は再び芽生えるだろう。今日だ。あれから1年経った今日だからこそこの試練ともいうべき状態を解除しようではないか。』
少年は立ち上がる。もう眼は濁っていない。逆に晴れやかな顔で・・・未だ涙は止まらないが・・・歩を進める。
崖の端まで来た彼は、靴を脱ぎ深呼吸をしてから、過呼吸になりながらも生き絶え絶えに神へ告げた。
「あなたは罪深き過ちを犯してしまいました。全知全能なあなたでもやはり間違えることはあったみたいです。ですが、私は死にたい。なのであなたの罪は問わないことにします。また元の世界に戻してください。牢獄もいいけれど、生き地獄を味わうよりかはスパッと死にたいのです。これはおそらく皆の願い。どうか叶えてくれることを、願っています。
では、僕は逝きます。おっと、あと30秒で12時です。丁度いい。私は12時に死ぬとしましょう。
・・・・・・では、さようならみなさん。」
少年は地を背中に、手を広げ、目じりに大粒の涙をのせて・・・ビルから、落ちた。
彼は、当たり前にも、転落死した。
***
『神が死んだ日』から1年半。
人口は世界の人口は40億人まで減った。
最も人々が死んだ日、『神が死んだ日』から1年と1日の日。
人々は何人かの自殺者が出たというニュースを見て、飛び跳ねて喜んだ。この日を当時の人々は、『自殺解禁の日』と呼んだ。皆は喜んで、今まで思い描いていた自殺計画を実行しようとした。首吊り、飛び降り、焼身、入水、飛び込み、殺し合いパーティー、あらゆる方法でそれは行われた。
1日に20億人もの死者を出したその日は後に『死神の日』として語り継がれることになる。
狂った人々は狂ったままだったが、狂ったなりに第二の人生を歩もうとしていた。
この神災がもう起きないよう、地球では自殺は禁忌とされ、神からの強制ではなく、自らの抑制によって、自殺はなくなった。
この時代を生きた賢者の著書『自殺の終焉』にはある文節がある。
「神は我々を生かし、神は我々を見殺し、神は我々に破壊された世界をもたらした。ただ一つ、たった一つよかったことは、神は我々に生きることを覚えさせたことだ。」
読んでくださりありがとうございました。