一
太陽は壁の向こうへ姿を消した。暗く高い影が人間の国『メンシュ』にさした。
『ねえ、起きて』
北町の外れにある小さな池のほとりに、ひとりの少女と一匹の犬がいた。灰色の短い髪に空色のリボン、空色のワンピースを身につけた少女。黄に近い茶色の長毛と金のトライアングルのついた首輪をした大きな犬。少女は木にもたれ目を閉じ、眠っているようだ。犬はそんな少女の体をしきりにゆすっていた。
『ソラ、ソラったら』
犬はフサフサしたしっぽで少女――名前はソラ――の顔をはたいた。ソラは気がついたようで、うっすらと目を開けてこう言った。
「カイ……おはよう」
それを聞いて犬――名前はカイ――は責めるような目つきでソラを見た。
『おはようって、もう夕暮れだよ。はやく帰らないと』
「夕暮れ?」
ソラは驚いたように顔をあげた。目前には巨大な灰色の壁がそびえたち、重々しく彼女を見おろしていた。上空は夕日を浴びて、紅色に染まっていた。そこには一羽の鳥の影があった。鳥は翼を広げぐるりと旋回すると、たちまち壁の向こうへ姿を消した。ソラはその様子をぼんやりと見ていた。
『ソラ、はやく帰ろう』
「……うん」
ソラは立ち上がり、カイとともに駆けだした。
ふたりがいた池は林に囲まれていた。ふたりは壁の反対方向へ進み、林の外の集落を目指した。
集落に出ると、ふたりは西に向かった。ちょうど町の西端にふたりの家があるのだ。道中、いくつかの民家と何人かの住人とすれ違った。
「あ、ソラ。おかえり」
「ソラちゃん、こんばんは」
「また池に行ってたのか」
すれ違いざまにこんな言葉をかけられながら、ソラとカイは走った。あたりはすっかり暗くなり、ソラは何度か石につまづいて転びかけた。
ソラたちの家は集落から少しはずれたところにぽつりと建っていた。
三角屋根のログ・ハウス。ソラはおそるおそるその戸をたたいた。すぐに戸が開き、ひとりの細身の男が顔を出した。
「まったく、こんな時間まで何してたんだ」
その男——ソラの父親だ——は刈り上げた黒髪に青いバンダナを巻いて、作業着のオーバーオールを着ていた。彼は眉をしかめて、とてもこわい顔をしていた。
ソラとカイはおずおずと中に入った。ソラは父親の顔をきまずそうに見返して言った。
「キノコ狩り」
カイはソラを鼻でつついた。ソラは目を泳がせた。
「へえ、キノコ狩りか」
父親は戸を閉めながら、ソラの手元を見た。
「それで、キノコは取れたのか」
ソラは少しの間黙って、言った。
「全部毒キノコだった」
「……ソラ」
父親は右手でソラの頰を軽くつねった。
「本当のことを言え」
ソラはすぐに答えた。
「池の木かげで寝てた」
「なに、また? 外で寝るなって何度言ったらわかるんだ」
父親はソラの頰から手を離すと、あきれた声を出した。ソラはうつむいてこう言った。
「ごめんなさい」
それを聞いて、父親はため息をつき表情をゆるめた。
「まったく、今度からは気をつけるんだぞ……それにしても、お前は嘘をつくのが下手だな。嘘をつくときはポーカーフェイスが大事なんだぞ」
「ぽーかーふぇいす?」
「そう。感情を顔を出さずに……」
「ちょっと、あなた」
ふと、ひとりの女が父親に声をかけた。その女——ソラの母親だ——は長い黒髪を束ね、クリーム色のワンピースに白いエプロンをつけて、台所に立っていた。
「嘘のつき方なんて教えなくていいの。嘘つきは泥棒のはじまりなんだから」
「ああ、そうだったかな」
父親は彼女の方を向いて、はにかんだ笑みを浮かべた。母親はそれを見てふふっと笑った。ソラとカイは顔を見合わせ、彼らにつられて微笑んだ。
「さあ、ご飯にしましょう。みんな座って」
ソラがベッドにもぐりこんだ頃、月はちょうど東の壁から顔を出した。月明かりはソラの部屋である屋根裏部屋に差しこんで、神秘的な明暗を映しだした。カイは窓に向かって顔を伸ばし月の光と暗い空を眺めていた。
ソラは母親を呼んだ。母親は返事をして、屋根裏へ上がった。
「あの歌、歌って」
布団にすっぽりと包まれたソラは母親に言った。
「眠れないの」
母親は、昼寝したからでしょ、と思いつつソラの頭をなでた。そして優しい声で歌いはじめた。
風とともに空を飛ぼう
どこまでも高く どこまでも遠く
翼がなくてもわたしたちは飛べるから
明日の空は何色だろう
青 白 赤 黒 それとも灰色?
どんな色でも どんな空でも
わたしたちは飛んでゆく
迎えに行こう 鳥たちを
青 白 赤 黒 そして灰色
色んな空に飛んでいった
色んな空に消えていった
あの鳥たちを迎えに行こう
翼がなくてもわたしたちは飛べるから
「……もう寝たの?」
母親はソラの顔をのぞきこんだ。ソラは目を閉じて、小さな寝息をたてていた。あまりの寝つきの良さに、母親は思わず声を出して笑った。
「おやすみ、ソラ」
そして優しい声でそうささやいた。