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午睡  作者: 佐倉蒼葉
9/11

第9章 蕾

 翌日、私にとって、大事件が起こった。

 バレンタインのチョコレートを関谷さんに押し付けて逃げ帰った後は、自己嫌悪で一杯だった。職場の人達の前であんな事をして、迷惑をかけたに違いない。嫌われるかも───と思うと悲しかった。今朝は学校へ行く足が重く、休んでしまいたかった。母にうるさく追い立てられなければ、ずる休みをしていたかもしれない。

 昼休みに校庭の隅のベンチで、涼子とお弁当を食べながら、昨日の顛末を話した。

「告白したの?やったじゃん!」と興奮する涼子に、「やっちゃったよ…」とうなだれるしかなかった。お弁当も喉を通らない。

「絶対迷惑だったよ……関谷さん、困った顔してたもの」

「でも受け取ってくれたんでしょ?」

「関谷さん、優しいから。それだけだよ」

 空の方からゴーンと音がする。飛行機が高く、近くを飛んでいた。涙を堪えて目を上げると、飛行機雲が一筋、すうっと伸びてゆく。澄んだ青空───私の心とは裏腹に、良い天気で、暖かかった。

 青い色は関谷さんの『夜』や、絵の具で染まった指先を連想させて、それもまた切なかった。

「ごめん、私がけしかけたから」

「ううん。涼ちゃんのせいじゃないよ…私が」

 職場の人に嫉妬なんかして、勢いであんなことを言って。

「勢いで言っちゃっただけ…」

 夢の中で、≪もうこんな事はしないで≫と、和志さん───いや、一志さんか───に叱られたのを思い出した。縁さんも、こんな気持ちだったろうか。胸を締め付けられて毛布に包まり泣いた事も思い出した。

 あれは、夢。

 けれど本当にあった事のようなリアリティ。夢なのに───

 そうして私は午後の授業もぼんやりとしていた。早く帰って、何もかも忘れて眠りたい。だけどまた夢を見てしまいそうで……美術室に足が向いた。今日は誰もいない。下校する生徒の賑やかな声を窓の外に聞いていた。

 ボードをイーゼルに置いて、愕然とした。

 何も浮かんでこない。

 白い画面に目を凝らす。以前はこんな事をしなくても、風景が見えていた。心のままに筆を滑らせ、色を載せて行くだけ───それが出来ない───目に浮かぶのは、瞼を閉じて微睡む縁さんの顔だった。

 描けないと言った関谷さんも、こんな風だったのだろうか。

 ぎゅっと胸が潰れるようだと思ったその時、ガタンガタン、と戸が開いて「千鶴、」と涼子が開いた戸の隙間から慌てた顔をにゅっと出して呼んだ。

「ちょっと、こっち。早く」

「え?」

 涼子は部屋に飛び込んできて、私の手を掴むと「早く早く、こっち来て」と引っ張った。「あ、これも」と私の鞄とコートを抱える涼子に、何事かと思いながらストーブを消した。

 美術室のある第二校舎から第一校舎へと渡り廊下を走る。2階は職員室があるが、お構いなしに走る涼子につられた。

「こっち、ほら」と涼子が立ち止まり、窓ガラスに張り付く。ちょうど正門の前だ。私も窓から下を覗いて、驚きのあまり心臓が止まったかと思った。

 通りを挟んだ向こうの歩道で、ガードレールに凭れて立っているのは───関谷さんだった。

「図書室から見えてびっくりしたよ」と涼子。

「……」

 呆然とするしかなかった。関谷さんは、正門から出てくる女生徒達にチラチラと見られながら、困ったように目を逸らしている。

「…あ、やばい。松田に捕まる」

「え?」

 見ると風紀の松田先生が関谷さんに近づいて行った。そうだろう、女子校の前でずっと……ずっと待っていたのだろう。不審者と思われても仕方ない。涼子が私の肩をぐいと押した。

「早く行ってあげて!警察呼ぶかもよ」

「う、うん」

 涼子が突き出した鞄とコートを抱えて、私は走り出した。

 関谷さんが来てくれた───こんな時なのに喜んでいる自分がいる。

 ドキドキと心臓が弾んだ。いつもと違う、緊張。コートをはおりもせずに第二校舎に戻って靴を履き替え、正門へ急いだ。





 松田先生には「知り合いです、不審者じゃありません」と言うのがやっとだった。怪訝な顔で私達を見た先生は「それなら良いでしょう」と関谷さんをひと睨みして校舎に戻っていった。関谷さんは私を振り向いて、優しい苦笑いを見せた。かと思うと目を逸らされた。ちくん、と胸が痛んだ。けれど関谷さんが見たのは私の腕の中だった。

「コート、着た方がいいよ。風邪引くから」

「あ、はい…」

 そうして彼はやっと私の目を見てくれた。今度は私が目を逸らす番だった。昨日の今日で、何を言えばいいのだろう。額の辺りで声を聞く。「昨日、ちゃんとお礼言えなかったから」と言われて赤面するのがわかって、顔を上げられない。静かに「ありがとう」と優しい声がした。ゆっくりとコートの袖に手を通して、上目遣いに関谷さんを見た。彼はフッと微笑んで「うん」とだけ言った。どちらからともなく駅の方へと歩き出す。緩やかな下り坂。一緒にいることを噛みしめるようにゆっくり歩いた。それに歩調を合わせる関谷さん。

 関谷さんはいつも優しい───

 それがよそよそしくも思えた。けれどお礼を言いに来てくれたのだ、待っていてくれたのだ。嬉しい気持ちの方が強かった。泣きたいくらいに。

 こんな気持ちは初めてだった。けれど初めてではなかった。

 夢に見る和志さん───あるいは一志さん───に抱いていた、切なく苦しい思い。この上なく幸福で、悲しみで一杯で。

「………」

 何を言われたのかわからなかった。言葉がバラバラに分解されたみたいに。「千鶴ちゃん?」と尋ねられて、名前を呼ばれたのだとわかった。はい、と横を歩く関谷さんを振り返った。

「もし良かったらだけど…二人で話せないかな」

 え?と目を瞬くと、「その…二人だけで」と関谷さんは言った。

「え?」と今度は声が出た。関谷さんは「≪睡≫じゃなくて、…僕の部屋で」と言った。

「あ…、誤解しないでね。ちょっと≪睡≫では話しにくくて…それだけだから」

「あ、はい…」

 頷きながら、私の緊張はピークに達した。早鐘を打つ心臓。

 地下鉄駅の階段で、隣にいた関谷さんがすっと前に出た。

 ぽっ。

 胸にあの小さな灯のような花が開く。

 それは私の胸の闇の中でたった一つの希望のように見えた。

 希望───ちょっと違うかもしれない。

 私の前で階段を降りてゆく背中。さりげなく、確かな力で、私を恐怖から守ろうとしてくれている。それは希望と言うより、与えられた愛情のように思えた。

 ───嬉しくて泣きそう……

 この気持ちもまた、縁さんとシンクロした。

 切符売り場で2駅の所まで切符を買った。改札を抜けながら、二人で話したいことって何だろう……と考えた時、発車した電車の残した風が階段下から吹き上げて、何かが動き出す予感がした。





 関谷さんの部屋は、古くて小さなアパートにあった。二間の奥の部屋に絵を描く為の大机。こたつが部屋を狭く見せていた。台所にあるストーブに火をつけて、関谷さんは「散らかっててごめんね」と照れくさそうに言った。やかんを火にかける。手早くお茶の用意をする関谷さんの背を見ていたら、こちらを振り向いて「こたつにあたって」。私は「お邪魔します…」とコートを脱いだ。

 こたつを挟んで関谷さんと向かい合った。話って何ですか、と切り出すことが出来ない。緊張で心臓が痛かった。私は関谷さんの言葉を待った。

 長く感じられる沈黙───

 不意に関谷さんが「ごめん」と頭を下げた。

「え…?」と意外な言葉に驚いた。

「千鶴ちゃんの気持ちを考えてなかった。ごめん」

と言ってまた頭を下げる。昨日「好きです」と言ったことだ、とやっと気づいて、「そんな、関谷さんは悪くないです」と慌てた。

 茜さんに言った言葉が喉から出かかった。

 ≪私が一方的に憧れてるだけです≫

 それを言ったら拒絶されそうで怖かった。互いに見つめ合う───困惑の表情を見て、私はどんな顔をしているだろう、と思った。その思いを察したように「千鶴ちゃん」と優しい声で私を呼ぶ。きっと迷惑なんだ───そう思った時。

「前に≪睡≫で会った時に、僕に『描いてるんだ』って言って、笑ってくれたじゃない」

 記憶を手繰る。そういえば、そう言った時にみんなに笑われたのを思い出した。

「あの時、マスターが言ったよね。『いつもそんな顔で笑っていらっしゃい』って」

 そう言って関谷さんは腕を組んでこたつに寄りかかり、私の顔を覗き込んだ。ふ、と微笑む。

「僕もそう思った」

 ───え?

「あの時ね、なんて可愛い子なんだろうって思った。僕が絵を描くのを待っててくれる、喜んでくれる。そんな人、他にいないよ。…嬉しかった」

「………」

「あの時みたいに笑って欲しいって思ってる」

 そして「はは」と小さく笑って、湯呑みを手に取りお茶を啜った。

「だからそんな顔しないで」

 コトン。

 静かに置かれた湯呑み。

「気がついたんだ。『午睡』の彼女が美しいのは、関谷一志を愛しているからだって。それを錯覚していたんだね。まるで自分への愛情のように」

 錯覚───

「きっとあの絵を見た人は同じように錯覚するんだろうね。愛されていると…」

 ため息交じりの声だった。私は何も言えずに、関谷さんを見つめているだけだった。

「あの絵には深い愛がある。縁さんと関谷一志の。命を投げ打つほどの愛が」

 ふと、関谷さんの眼が曇った。それは悲しげに見えた。

 高いビルの屋上で、風になぶられて涙を落とした一志さんのような───

「…錯覚じゃないと思います」

 私は無意識に呟いていた。

「彼女は関谷さんを愛してます。≪かず≫の字が違っても…生まれ変わっても…」

「…え?」

「…あ」困惑の声に、我に返った。「すみません、何言ってるんだろ…」おかしくもなかったけれど、私はクスと笑いを漏らした。自嘲の笑いだった。

 私にはわかる。縁さんの気持ちが。何度も私に訴えかける夢の数々。

「ごめんなさい、おかしいですよね」と涙が滲んだ目を擦った。

「…もう一つ、話があったんだ」

「はい」

「千鶴ちゃん」

と彼は両手の指を組んで顎を乗せた。

「モデルになってくれないかな」

「…えっ?」

「君が僕を錯覚から現実に引き戻してくれた。君を描きたい」

 ≪生きている千鶴の方が強い想いを持ってる筈だよ≫

 涼子の言葉が頭を過ぎった。

 ───私の、思い。

 縁さんではなくて───

 私も気がついた。縁さんの恋に惑わされていたことに。

 今、生きているのは、私だ……

「あ、もちろんヌードじゃないからね。安心して」と関谷さんはふっと笑いを漏らした。「…いいかな」

 すぐに返事をするのは躊躇われた。自信もなかったし、急に縮まった関谷さんとの距離に戸惑った。「…本当に、私でいいんですか?」と尋ねた。

「君がいいんだ」

 そう言われてどきんとした。

「素直に心を見せてくれる、君が」


 ≪慣れてるモデルは心を見せてくれない≫


 どうしても夢の中の一志さんと重ねてしまう……だけど───

 勇気を振り絞った。

「…私でよければ…」

 知らず頭が下がった。「あ、いや、こちらこそ」と彼も頭を下げた。同時に顔を上げて見つめあい、思わずふっと二人で笑った。

 ぽっ。

 またひとつ、胸に花が開く。

 今度は暖かな、幸福の花が。

 それがたった一輪でもいいと思った。今の幸福が続くなら。

 今日は私に会うために休みを取ったらしかった。「早速だけど」と関谷さんはスケッチブックを手にして、こたつを挟んで座ったままの私を描き始めた。

 これが私の告白への返事なのだと───縁さんのように愛されるとか、望んではいない。ただ、私を描いてくれることだけで、こんなにも幸せなのかと思った。

 縁さん。

 私も和志さんに描いてもらっています。

 あなたもきっとこんな風に幸福だったんですね。

 思いが届かない寂しさも一時忘れるほどに。





 関谷さんは「動かないで」とは言わなかった。習作だからだろうか、お茶を飲んでいていいと言った。私はどんな顔をしていいのかわからず、たださらさらと聞こえる、鉛筆の走る音を聞いているうちに、なんだか胸がほかほかとしてきた。描くことに集中している関谷さんを見ているだけで嬉しくなった。

 夢の中でそうだったように───

 出来上がったのか、手を止めてスケッチブックを眺める関谷さんに「見せて」と近づいた。隣に並ぶ。肩も付くような近い距離。≪睡≫でも並んで座るけど、こんなに近づいたのは酔っ払って前後不覚になった時以来だった。

 鉛筆で描かれた私は、置いた湯呑みに手を添えて薄く微笑み、こちらを見ていた。

 驚いた。

 きれい……自分じゃないみたい。

 けれど肩で切りそろえた黒髪も、笑みをたたえた瞳も、唇の端のほくろも、私と同じだった。

「美化してません?」と言うと、「見えた通りに描いてるけどなあ」と彼は苦笑した。

 ───こんな風に、私は関谷さんの目に映っているのか。嬉しさと気恥ずかしさで私も苦笑いした。

「この絵、もらっていいですか?」

「ダメだよ、習作なんだから」

 そして「遅くなったから、もうお帰り。駅まで送るよ」とコートを取ってくれた。

 駅までの道々、これからのことを話した。私をモデルに描く日や時間など決めて、冗談交じりに話して。しばらくはいろんな私を描いてくれると言う。「きっと『午睡』に負けない、良い絵になるよ」と関谷さんは笑顔で言った。

 この人が言うのだから、間違いない。

 そんな確信があった。

 信じるものがあるということは、なんて幸福なんだろう。

 信じられる人がいるということは。

 胸の中で、繰り返し、その幸福を噛み締めた。───やっぱり、好きだ……この人が。

 今にも口からこぼれそうな言葉を呑み込んだ。困らせたくない……嫌われたくない……さっきまでの幸福が痛みに変わる瞬間を、これが恋なんだと思った。

 駅の改札前で「じゃあ、また」「はい、また」と軽くお辞儀して別れた。改札を通って振り返ると、関谷さんは私をまだ見ていた。小さく手を振っている。私も手を振った。

 本当は、もっとずっと側にいたい……

 改札から離れがたかった。関谷さんはまだ私を見ている。私を見てくれているうちに───背を向けられる前に───私は痛む胸を押さえてホームへの階段を降りた。


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