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午睡  作者: 佐倉蒼葉
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第3章 涙

 ≪睡≫の女性は茜さんといった。ぱっちりした二重の目とゆるくカールした髪が女らしく、それでいて快活な雰囲気の持ち主だ。後からやってきた茜さんのお父さんは≪睡≫のマスターで、私達の来訪をとても喜んでくれた。

「弟は無名のうちに亡くなりましたから」

 二十五年前ならまだ若かった筈だ。ある賞に応募した『午睡』が入選した知らせを受ける事もなく亡くなったという。どうして、とは訊ねられなかった。関谷さんと同じ名前だったから。気まずい空気…。私が学校帰りなので早々に辞する事にした。

「ぜひまた遊びにいらしてください。お名前は?」

 関谷さんは困ったように私を見た。私は「…片岡、千鶴です」とお辞儀をして、ゆっくりと、彼を振り返った。

 ───どこかで見たような微笑。

 彼は困惑を混ぜた力ない笑みで、親子に向き直って小さく頭を下げた。

「関谷和志です」





 ≪睡≫を出てしばらく黙って歩いていた。私は何を話せば良いだろうと必死に考えていた。びっくりしましたね。こんな偶然もあるんですね。きれいな絵でしたね。そうして関谷さんは何を考えているのだろうと思った。びっくりした。こんな偶然もあるのか。今更話題にするような事でもない気がした。

 茜さん親子も彼の名前を知って驚いた。「これも何かの縁でしょう」と、嬉しそうなお父さんに手を取られ、彼は「またお邪魔します。今日はこれで」と伏し目がちに挨拶して別れた。

 関谷一志という人の存在。

 ───きれいだけれど、不安な絵。あの『午睡』そのもののよう。

 ざわざわと木々の枝が風に騒ぐ。思わず肩をすくめた。交差点の信号の赤がぽつんと遠い。神社の鳥居の前で関谷さんは足を止め、「千鶴ちゃん」と呼んだ。「はい」と振り向いた。

「もうちょっとつきあってもらっていいかな」

 そう言って横目で鳥居の奧のお社を示した。頷くと、彼は先に立って鳥居をくぐった。私は後をついてゆき、横に並んで手を清めた。氷のように冷たい水を関谷さんが掛けてくれた。と、彼は軽く背を丸めて、私の手を覗き込んだ。

 赤い絵の具。

 彼は手相を見る人のように私の指先を軽く握って赤い楕円をじっと見た。

「この前も付けていたね。付いたんじゃないね、描いたんだ」

 鋭い視線を向けられた。緊張で背筋が痛い…

「これは何?」

「ゴッホの耳…」

 彼は黙って頷いて、再び視線を掌に落とした。そのまま考え込む。ぬるくなった水が、指の先から先へと伝ってきた。顔を上げた彼は眉根を寄せて、静かに言った。

「痛かったでしょう」

 ───掌にゴッホの耳の重みと流れる血の熱が戻った。

 目に映る関谷さんの顔が水の膜の向こうに揺れた。慌てて俯くと瞬いた目からぽつりと滴が落ちた。指先をぎゅっと握られて、私はぱたぱたと涙を落とした。





 電車に揺られてうとうとした。暖かいシートが眠気を誘う。首に巻いたグレーのマフラーに顔を半分埋めて隠れた。大きなマフラー。関谷さんの匂いがする。シャンプーか何かと、≪人≫の匂い。神社で彼はこのマフラーで私の涙を拭って、そのまま首にぐるぐる巻き付けた。「店で会った時から泣きそうな顔だった」と笑って。自分では判らないけど今もそんな顔をしているかもしれない。

 お参りの後、境内を引き返しながら「何をお願いしたんですか」と訊ねると、関谷さんはフッと苦笑した。

「さっきの絵を見た瞬間にね、もう吸い込まれるような気がして、それが僕と同じ名前の人の絵だと判って…」

と深く吐き出した息が白くふわーっと流れていった。

「くやしかったなあ」

 判る。

「…でも私は関谷さんの『夜』の方が好きです。すごくきれいな青…」

 顔がマフラーの下で熱かった。───訊くなら今だ。

「…あの、『夜』のあの人は、何をしているんですか?」

「ん?」彼はクスと笑った。「千鶴ちゃんは、何をしているんだと思う?」

 どう言えば良いのだろう。私は足を止めた。関谷さんも立ち止まって私の答えを待った。上手く言えない───言ったら、おかしいと思われるかもしれない。

 俯いて目までマフラーに隠した。また泣いてしまいそうだった。

「…この前守屋さんが、人は絵に自分を見ていると言っていたね。だからあの絵の人が何をしているのかは判らなくていいんだ。彼は千鶴ちゃんが感じたままの事をしている。…そうだな、僕としては…」

 顔を上げて見ると彼は照れ笑いして鼻の下を軽く擦った。

「覗き。ふっ、覗いてる」

「…覗きですか」

「うん。地面にこう、穴が空いていてそこを覗き見てる」

 私達はまたゆっくりと歩き出した。

「ねずみの国があるかもしれないし、ジュール・ヴェルヌが書いたような地球の胎内かもしれない」

 そう言って振り向いた関谷さんは、またどこかで見たような微笑みで言った。

「地獄かもしれない。それは僕にしか判らない事」

 思い出す程、痛くなる言葉だった。痛かったでしょう、と彼が言ったのは、そういう事なのかもしれない───そういう事って何だろう。私は何を考えているんだろう? 眠くて考えられない。眠りが私を吸い込んだ。





 カンバスに向かう背中に近付いて私はそっと手を置いた。まだ白い画面の真ん中にだけ色が塗られている。絵の向こうの窓の外は灰色にくすんだ庭で、雪になりそう…と私は思った。けれど絵の中の窓は違った。

 窓枠の中一杯に広がる桜の枝は生気に溢れて紅く染まり、花は日差しの中で薄紅に輝いて開いていた。桜に目隠しされたよう。私はその人の背中に手を置いたまま、頬を肩に預けた。

 どうして桜だけなの? 他にもいろんな花が咲くのに

 訊ねるとその人は筆を置いて振り向いた。額に軽く触れた唇が動いた。

 こういう意味

 心地よい声に眩暈を覚えてその人の顔を仰いだ。優しい眼差しが目の前に近付いて、私はまぶたを閉じて応えた。





 胸いっぱいに広がるあたたかさが消えてしまわないよう、何度も何度も確かめていた。目を開けると車窓の外の景色が動きを止めるところだった。ぼんやりと駅の名前を見る。───降りなきゃ。私はふらふらと立ち上がってホームに降りた。辺りを見回して、何か大事な事を忘れている…忘れ物をしてる、と車両を振り返った。

 シートの端に腰掛けた関谷さんがにっこりと手を振っていた。あ、と思う間もなくドアが閉まった。

「あっ、あ、あ、」

 走り出した列車に向かって私は口をぱくぱくさせた。今日はありがとうございました、寝ちゃってすみません、マフラー返してない。いろんな言葉がまぜこぜになって何にも出て来なかった。出ても聞こえない。関谷さんを乗せた列車はあっというまにホームを去っていった。

 ばか。恥ずかしくて死にそう。額にどっと汗が出た。目の中で、線路の上をもう一度列車が走り出す。

 離れてゆく関谷さんは、夢の中の人と同じ笑顔をしていた。





 机に向かって『夜』を見上げた。

 あの絵の人に≪自分を見る≫なら…あれが私だったなら。

 澄んだ青い空気に、これまで私にまとわりついていた不安は洗われて、とても穏やかになれる。疲れた身体を土に預けてうずくまっているだろう。ただじっとして、冷たい夜の空気を深く吸い込んで、肌で呼吸して。揺らぐ空気は私の汚れを落としているのかもしれない。───そんな青。

 手の下で、畳んだマフラーがあたたかかった。その心地よさに掌が吸いついてく。私はそっとマフラーを押し退けた。

 …『午睡』がきれいだったからだ。二人の画家が同じ名前だったからだ。だからあんな夢を見たんだ、夢の人は関谷さんに似ていたけれど左の頬にほくろがなかった。

 夢は願望や性的欲求の表れだという。私は「うわ」と声を洩らして机に顔を伏せた。だってまだよく知らない人だ。

 ≪それは僕にしか判らない事≫

 きれいな───寂しい絵を描く優しい人。それだけで。

 それだけしか判らなかった。机には穴が空いていない。





「ほーお」

 涼子が辞書の上に腕を組み、机に身を乗り出して顔を近づけた。

「涼ちゃん、辞書が見えないよ」

「今まで私に黙ってた罰」

「……」

 期末試験の一週間前になって部活も休みだ。クリーニングから帰った関谷さんのマフラーを返しに行こうと持って来たは良かったが、彼もまだ学校だろうと思って図書室に残った。試験前で私達のように残っている生徒も多い。私達がお喋りをしていられたのは、ここが司書室というおそるべき事実のためだ。しかも、お茶が出てくる。涼子は図書委員の中でも別格。毎日図書室に顔を出す本の虫。

 私はシャープペンをノートの上に投げ出して湯呑みを取った。

 画廊でばったり会って知り合いになって、≪睡≫へ同じ名前の画家の絵を見に行った───と、簡単に説明した。神社で泣いたなんて絶対に言いたくない。『夜』の事は迷ったけれど、きれいな絵だとしか言えなかった。

「同じ名前の夭折の画家か。何か運命の糸が納豆のように」

「何ですかそれ」

 あははと笑う涼子の横には司書さん。ゴトンと机に置いたのは美術家名鑑だった。「洋画家?」と言ってぱらぱらとページを繰る速さが並じゃない。手を止めて、ずれた眼鏡を指先でチョイと直した。美人の愛嬌のあるしぐさ。

「関谷一志…。載ってないね、やっぱり。作品じたいが無いんだな」

「そうみたいです」と私。前に並んだ二人は美術家名鑑に並ぶ作家の名前を指でなぞり、「あ、この人知ってる」などと話していた。

「生きてたら有名になってたかしらねえ。そしたら本屋の関谷さんはやりにくいか」

「名前変えるんじゃないですか。ペンネーム? 画家の場合は何て言うんだろ」

「筆ネーム」

「中川さん、それ絶対違います」

「本屋和志」

 これには私もお腹を震わせて笑ってしまった。

 夕方を待って書店に向かった。途中で菓子折も買った。『夜』とマフラーのお礼。本屋の三階で、涼子が声をひそめて「居た居た、本屋和志」と言って、私はまた声を殺して笑いながら、涼子が一緒で良かったと思った。帰ると言う彼女を引き止めてついてきてもらったのだ。一人だと、また≪泣きそうな顔≫になるんじゃないかと思った。

 関谷さんは洋書をたくさん乗せたワゴンを押して奧に向かっているところだった。涼子に背中を押されて呼び止めた。

「すみません、お仕事中に」

「いいや」と答える声が嗄れて、彼はごほんと一つ咳をした。「気にしないで」

「ありがとうございました」と、マフラーと菓子折を入れた紙バッグを渡してお辞儀をし、涼子をひっぱってそそくさと退散した。顔を直視できない。この前は≪泣きそうな顔≫で店に押しかけて、絵を貰っておいて迷惑かけて、マフラー借りて挨拶もしないで電車を降りて。それでも関谷さんは優しい笑顔を見せて風邪ひいて、───あんな夢見て。涼子の手をぐいぐいひっぱって歩いた。「ちょっと、千鶴」と言われてやっと足が止まった。本屋の裏手の細道で、私はたまらなくなって涼子に抱きついた。涙がどっと溢れた。

 感情のセーブがきかない私を、一歩離れて冷めた私が見ている。

 自己嫌悪でいっぱいだった。涼子に肩を抱かれて電柱の陰に連れて来られ、「どうしたの」と訊かれて「自分が嫌になる」と答えた。

「何で急に」

 彼が咳をしたからだ───と冷めた私が言う。

「…千鶴がマフラー取っちゃって関谷さんが風邪ひいたから? うーん」と涼子は困ったように笑った。「風邪なんて誰のせいでもないじゃん。関谷さんも気にしてないよ」私もそう思う。それがなぜこんなにも悲しいのか。

「千鶴、関谷さんの事好きなの?」

 ずばりと訊かれて焦った。まだよく知らない人なのにわかんないよと答えると

「関谷さんの絵が好きなんでしょ? いい人だと思うんでしょ? 充分じゃん」

「…やめて、言われるとだんだんそんな気になる」

「風邪ひいたくらいで泣くほど心配か。そうかそうか」

「違うってば」

 頭を撫でられて身を縮めた。違う。こんなふうに泣いて───不安定に陥って人を困らせる。それが怖い。悲しい。嫌。





 夜中まで数学と格闘。目標、平均点クリア。志が低い。毎回危ない橋を渡っている。

 ペンだこが痛くなって息をついた。指を撫でて何となく、『夜』に目を遣る。

 もっと数学が得意なら。もっと思うような絵が描けたら。私はもう少し、自信を持てるんだろうか?

 ≪何でかな、どうしても絵をやりたかった≫

 なぜだろう。私も。

 子供の頃から絵を描くのが好きだった。身体を動かすのは苦手だったし、母が言うには「言葉が遅くて」人とのコミュニケーションも上手く取れなかった。友達も出来ず、家に居てばかりだったから…絵を描いてばかりいた。絵を描くのは楽しかった。今は、ただ熱中している。

 地面の穴の中。

 それを見てみたくて。

 青い空気が絵から流れて降りてくる。その流れにしばし浸って、問題集のページをめくった。

 関谷さんも穴の中を見ている。

 私には判らない何か。

 私は彼が時折見せた、どこかで見たような微笑を思い出していた。戸惑うような、寂しいような。

 そうして判った。見た事があった。遊園地や、絵画の中で、道化師が同じものを頬に付けていた。

 あの頬のほくろは涙の雫に似ている。


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