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午睡  作者: 佐倉蒼葉
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第1章 手

 掌に絵筆を載せて弧を描く。くるりと筆先を返すとそれは歪んだ楕円になった。カーマインのアクリル絵の具はつんと匂って、筆跡をたどるようにすうっと乾いていった。

 ガタン、

 静寂を破る突然の音に、心臓が飛び跳ねた。立て付けの悪い戸をガタンガタンと二度言わせて「やっぱり居た」と眩しい西日を浴びる笑顔。私は宙に浮いた手をそのまま、足早に近づく彼女を呆然と見ていた。涼子は私の掌の絵の具を見つけて「何それ」と覗き込んだ。

「ゴッホの耳」

 涼子は軽く眉を寄せ、小さく首を傾げた。

「…ああ、耳切り落としたんだっけ」

「そう」

「何でそんなの描いてんの」

 何だかばつが悪くなって視線を落とした。パレットが一杯になったから、と答えて掌で絵の具を混ぜるふりをした。涼子は「ああ」と頷いて私のボードに目を遣り「もうすぐ出来る?」と訊いた。

「まだだけど…ここだけやっちゃう」

「そ、じゃあ待ってる」

「うん」

 筆を動かしながら答えた。涼子は傍らの椅子を引いて腰を下ろした。見られていると描きにくい。画面の隅の水面に陰を付けて終わりにした。席を立ち、教室の窓際の水道で筆を洗っている背に声をかけてくる。

「ねえ、誰も出て来ないの?」

「文化祭終わったからね」

 ふーん、と言う語尾が上がる。美術部が賑わう時なんて四月の新入生入部の時期と文化祭の前だけだ。ぎりぎり九人の部員数で廃部を免れたものの、二年生のやる気のなさが一年にも伝染してこの有様。毎回、部長がお義理でちょっとだけ顔を出して帰ってゆく。今時ここで絵を描いている私も相当の物好きかもしれない。

「ほんとに描くのが好きなのは千鶴だけだよねえ。こんな美術部やめて家で描けばいいじゃん」

「だって部費で買ってもらえるものは使わないと」

 あはははは。

 私はようやく涼子を振り向いて、笑った。





 美術室の窓から見ていた夕陽は校門を出て駅の方へと歩く間に落ちた。帰宅部の涼子が学校に残っていたのは図書室で勉強する為だったが、疲れて少し本を読んでいたという。

「それでシュルレアリスムの話になって、私その絵を知らないから、千鶴なら知ってるかと思って美術室覗いたのよ」

 うん、と頷いて「ついでに見てみる?」と軽く上を指差した。大型書店の立ち並ぶ大通り。本屋に寄ろうと言ったのは涼子だったが、彼女が先刻読んだ本の話をしなくても、美術書フロアに寄りたいと私から言うつもりだった。

 エスカレーターで三階まで上る。写真集の書架の間を通って奧へ進んだ。この一角だけ、客は疎らだ。廉価版の画集が平積みにされている。涼子は「あった」と一冊手に取った。私は「他の見てていい?」と訊ね、「うん」という返事に彼女から少し離れて棚の上の方を見上げた。

 ダリの『陰惨な遊び』。

 どうしても好きになれない。

 ハイパーリアリズムとも呼ばれるダリの後の画風は私を感嘆させるが、それでもダリの描く世界は好きになれなかった。中でも彼の初期シュルレアリスム作品である『陰惨な遊び』の第一印象は≪不快≫だった。

 近くにあった踏み台に乗って一番上の棚に手を伸ばした。物によってはケース入りの、厚くて固い表紙の画集が並んでいる。余程、普段誰も手を出さないのだろう、背表紙に指も掛けられない程ぎっしりと押し込まれ、私は力を入れて一冊を抜いた。

 近くにあった厚い本が何冊も目の前を飛んだ───ように見えた。

 驚いて声も出なかった。

 重い本はゴトゴトと音を立てて棚から雪崩のように落ち、私は思わず目の前の棚にすがりついた。店内を流れる音楽が耳に戻ってそっと後ろを振り返る。「何やってるのよ」と笑いながらダリの画集を置く涼子の向こうから、紺色のエプロンを掛けた男の人が走ってきた。

 その人はまっすぐに私の顔を見て駆け寄り───本を一冊蹴飛ばしたのに気付いたのか気付かないのか───「大丈夫ですか」と訊ねた。

 はい、と言ったつもりだったが声が出なかった。

 涼子が本を拾い始めた。私も慌てて踏み台から下りて腰を落とした。髪を耳に掛ける手と、ようやく出た「すみません」の声が震える。その人も私の横にしゃがんで本を拾っては腕に抱えた。

「いいですよ、やりますから」

「いえ…、すみません、本当に」

「千鶴、傷付けたら買い取りだよ」

「えっ」

 こんな高価な本ばっかり───涼子はクスクス笑っている。男の人も「大丈夫」と言ってフッと笑った。恥ずかしい。俯いて足元の本を拾おうとしたその時───

 左手をふいに掴まれた。

 また、心臓が飛び跳ねた。

 彼は真顔で私の左手を引っ張り、掌の絵の具を見た。そして、大きな目を瞬いて「ああ」と言って苦笑し、手を放した。

「ごめん、怪我したのかと思った」

「いえ…」

 私は身を縮めて本を渡した。片付けを終えて、「ゆっくり見てってください」と彼が去るまで、心臓は忙しく跳ね続けていた。

「…で、千鶴」

「何?」

「見ようとしてたの、どれよ」

 二人で棚の一番上を見上げて、低く笑った。

 それから私達は書店の並びのドーナツショップに腰を落ち着けた。涼子は書店の袋から先程の廉価版の画集を取り出しながら「さっきの人さ、結構格好良かったね」と言ってにやにや笑った。

「いきなり手握られてるし、この人は」

「やめてー」

 両手で顔を覆う一瞬、左手の赤が目に痛かった。「…こんな、絵の具付けてたからだよ…」と私は左の掌を指先で擦った。恥ずかしくて泣きたい。

「関谷さんって、バイトかな」

「何で名前知ってるの!」

「ほら」

と涼子が見せたのはレシートだった。本を買う時、彼はレジに立っていた。すみませんでしたと頭を下げる私達にクスクス笑ってレジを打っていた。そのレシートに『担当:関谷』とあった。

「…判んないよ?横に居た女の人が関谷さんかもしれないじゃん」

「じゃ、判るまで彼は関谷さんという事で」

「別に判らなくていいよ…」

 俯いた目に『燃えるキリン』が映った。そこに描かれた人の身体の抽斗を、急いで全部閉めてしまいたかった。





 洗った髪を乾かして、鏡を覗き込む。気付いたのは夏休みの終わり。海で少し日焼けをしたからかな…と唇の端の小さなほくろを指の先でそっと撫でた。

 変化。

 それは小さいけれど、目に見えてそこにある。ほんの少し背が伸びてスカートの丈を直した事、髪が伸びて肩を覆うようになった事。

 私はタオルを投げ出して部屋に戻った。掌の絵の具は湯船にのんびりと浸かって、ごしごしと洗ったら剥がれ落ちた。机に向かって白い掌を見た。

 切り落とされたゴッホの耳。

 きゅう、と胸を締めつけられて目を伏せた。





 私の通う高校は出版社や書店が居並ぶ街の外れにある。少し歩けば寺町。私はこの古い文化の香りと坂道の街が気に入っている。

 あれから、美術書をぶちまけた書店には行っていなかった。あんな恥をかいて、とても行く気にはなれないし、本屋は他にいくらでもある。古本屋をはしごするのが好きな涼子は時々寄っているようで、「昨日関谷さん居たよ」とか報告してくる。

「さすがに恥ずかしいから見つからないようにしてるけど」

と言われてがくりと頭が下がった。

「それで何で行くの」

「うーん?何でかなあ」

 シャープペンのしっぽで軽くつつく頬にえくぼ。色素の薄い、天然の栗色の髪と鳶色の明るい瞳がふわりと揺れた。こんな時、同性でもちょっとどきっとする。

 図書室で机を挟んで向かい合っていた。化学のレポートの再提出を喰らって居残りだ。無論、それは私だけ。涼子に教えてもらいながら四苦八苦。

「一旦うちに帰ろうと思ってたのに」

「いいじゃん、制服でも。学割効くかもよ」

「効くかっ」

 レポートにかじりつく。今日は母の誕生日で、食事に出かける事になっているのだ。学校から直接行けば待ち合わせには充分間に合うけれど、せめて着替えてから行きたかった。何とか仕上げて職員室に駆け込んだら肝心の先生が居ない。第一校舎から端の第三校舎まで走った。

 案の定、野本先生は化学準備室に居た。

「…何してるんですか」

「見ての通り」

 漫画を読んでいた。書類と漫画の山の頂上に饅頭が一つあった。完全に準備室を私物化している。「レポート持って来ました」と差し出すと「ご苦労さん」と受け取って机に置いた。

「じゃ、帰るか」

 野本先生は立ち上がり、よれた白衣のポケットに饅頭を入れた。

「片岡さん待ってる間、暇だったから。いつも漫画読んでる訳じゃないよ」

 ───変な先生。

 それが野本先生の、生徒からの評価だ。面長ののんびりした顔立ちにセルフレームの眼鏡、顔と同じくとぼけた口調、教室の戸口をいつも頭を下げて出入りする長身。背の高い涼子も並ぶと小さく見える。揃って準備室を出た。先生は鍵を掛ける自分の手元に向かって「また来週」と言った。失礼しますとお辞儀して離れた。

「ああ終わった…。涼子、ありがと」

「うん。それより急がなくていいの?」

「そうだった」

 どうも野本先生と話すとこちらものんびりしてしまう。ごめんねと言いながら廊下を走り出した。





 両親との待ち合わせのJRの駅まで、地下鉄の駅から少し距離がある。歩かなければならないが、時間潰しにはちょうどいい。柳の揺れるモダンな街。大通りよりは裏通り。ここは画廊が多い事でも知られている。それに、表通りの喧噪は苦手だ。親と一緒ならデパートのウインドウを覗くのも楽しいけれど。

 確か、この道だったな…と角を曲がった。

 紺色に塗られた壁に大きなウインドウが見えた。以前この道を通った時にいい雰囲気だなと思った画廊だった。場所が場所だけに、私のような小娘が中に入る勇気はなかったけれど、ウインドウから絵を見る事が出来る。ゆっくりと歩み寄って、───その絵に、目が吸い寄せられた。

 それはB4サイズの額に収まる小さな絵だった。

 澄んだ水色の画面一杯に、黒い亀裂が入ったような。

 大きな木を斜め上から見下ろした構図。黒い亀裂は葉を落とした冬枯れの枝だった。夜なのだろう、辺りは何もかもが青く染まり、枝の間から見える地面を枯葉が覆うその影が美しい模様になっていた。

 余白に版画である事を示す数字が鉛筆で薄く書かれている。エッチングかな、とガラスに顔を近づけた。

 木の根元から少し離れて、一人の人物がうずくまっている。黒っぽい服を着て、地面に両手と膝を突き頭を垂れているその背中は、悲しげに見えた。

 ───何だろう。それだけじゃない───私は背中を丸めて腰を落とし、ガラスに掴まるように手を当てて目を凝らした。

 絵の中の空気が揺れている。

 だが画面の枯葉はくっきりと影を描いている。じっと動いていないという事だ。わずかな青の濃淡で描かれた、風と呼ぶ程ではない空気の揺らぎ。

 溜息をついたら枯葉が舞ってしまいそう…

 息を殺していたその時、ふいに傍らのドアが開いて、私は一瞬、息の仕方を忘れた。

 顔を上げるとそこにはドアを開いたままでこちらに微笑みかける五十がらみの男性が立っていた。

「あの、よろしかったら中でご覧になりませんか。寒いでしょう」

「え、でも」

「どうぞ。見るだけで構いませんよ」

と、その人は中に入るとガラスの向こうで額を手にし、にこやかに奧の応接セットを手で示した。確かに、制服を着た見るからに高校生の私が絵を買えるとは思わないだろう。厚意で言ってくれているのだ。ちょっとだけ見て帰ろうと意を決して中に入った。

「ちょうど今、この絵の作者がいらしてるんですよ」

 ソファに腰掛けていた人が立ってこちらを振り向いた。どこかで見た顔だ…と思った時、絵の作者は「関谷君」と呼ばれて微笑し、頭を下げた。

 ───本屋の関谷さんだ。

「関谷和志です」

 私はどうもと口ごもってお辞儀をして、そのまま俯いた。顔を見られたらまずい。中年の男性は画廊のオーナーで守屋と名乗った。関谷さんの隣の席を勧められ、俯いたまま座った。正面に守屋さんが腰を下ろした。コーヒーまで運ばれてきて恐縮した。

 ───早く帰りたい。頭の上に、守屋さんの声を聞く。

「熱心に見てましたね。良かったね関谷君、可愛いお嬢さんに気に入ってもらえて」

「判りませんよ。何だこれ、って思ったかもしれない」

「いえ、そんな」

 顔を上げて「きれいだと思いました。空気が揺れてるみたいで」と言った。私は初めて、関谷さんの顔をまともに見た。

 大きな目。真っ黒の瞳。左の頬骨のてっぺんにぽつんと小さなほくろがある。それが何かに似ていた。微笑の優しい印象とは裏腹に、強い力を感じさせる視線。目が合った時、吸い込まれそうだと思った。

 彼はわずかに眉を寄せて目を瞬いた。

「その制服、僕のバイト先の近くなんだけど、どこかで会ってないかな」

「関谷君、いきなりナンパですか」

「違いますよ」

 慌てて否定する関谷さんと、声もなく笑っている守屋さんに向き直って「いえ、あの、一度お会いしてます。本屋さんで棚の本を落としちゃって」と頭を下げた。関谷さんは「ああ、あの時の」と頷いた。忘れてくれてたのに、自分から言ってしまった。

「…空気が揺れてる、か」

 彼はテーブルの上の額に目を落とし、ふっと照れ笑いした。

「ありがとう」

 私は何も言えずにただ頷いた。関谷さんは絵から目を上げて私を振り向いた。

「ひょっとして、君も絵を描くんじゃありませんか」

「え?」

「この前、掌に絵の具を付けていたから」

「おや、そうなんですか」と守屋さん。「ぜひ見せていただきたいですね」

「守屋さんは若手の育成に力を注いでらっしゃるんだよ」

「絵を描かれる若い方に会えるのが嬉しくてね」

 二人はにこにこと頷き合った。私はそんな二人を交互に見て身を縮めた。

「いえ、私なんてそんな、美術部で描いてるだけです。ただの、趣味です」

「……」

 沈黙に堪えかねて膝の上の手を組んだ。ふっと聞こえた溜息は関谷さんのものだった。静かな声で、彼は言った。

「守屋さん、あれ言ってください」

「ふふ、あれですか。…お嬢さん、趣味というのはね、心を映す鏡なんです。絵を描かれるのでも観賞するのでも人はそこに自分を見ています。あなたが描かれるのでしたら、それは描くという行為にその鏡があるという事なんですよ。そこにはどんな無駄もない。そして絵を通じて見出せるものに、格差はないのですよ。お嬢さん、名前は何とおっしゃいますか」

 私はゆっくりと顔を上げて答えた。

「…片岡千鶴です」

「片岡千鶴さん。覚えておきましょう」





 結局、待ち合わせには遅刻した。中華レストランで、父は私が持参した包みを母に渡さないので不思議そうに「何を買ったんだ」と訊ねた。

「版画」

「版画?何だ自分のか。よくそんなお金あったな」

「学割だったの」

「は?」

 守屋さんの画廊で、早く行かなくちゃと思うのに、立ち去り難かった。関谷さんの版画が欲しかったのだ。小さいし、版画は同じ物が複数あるし、若い人の作品だし、お小遣いを貯めれば私にも買えるかもしれない。念の為、いちかばちか、当たって砕けろ   値段を訊いた。

「関谷君が値を付けなさい」

「ごひゃくえん」

「…え?…ええっ!」

 聞き間違いかと思った。

「額代にもならないじゃないですか!」

「ああそうか。じゃあ千円。ですよね、この額」

「特価品だからね。あのワゴンの額と同じ物だよ」

 買います買いますと慌ててお金を払ってお礼もそこそこに出て来てしまったけれど。

 ワゴンセールの額、千円。

 ───関谷さん、絵をタダでくれたんだ…

 思い出すと料理も喉を通らなかった。


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