第5話 「死神の旋律! 三十郎に鎮魂歌(レクイエム)を」
馬鹿な、こんな悪夢が、あってはならない……!
ロシアの格闘家、イワン・コッチャナイは、ここ有明ビッグファイトにて再び悪夢を味わっていた。
「おおっと! イワン選手またもダウン! チェリオ選手の正体不明の攻撃に、手も足も出ません!」
(正体不明だと? 大ボラ吹きやがって……!)
イワンはコーナーに立つ、チェリオと呼ばれる対戦相手を見た。タキシードに身を包み、手には金属製のフルート、おおよそ戦う姿には見えないその男の特異性は、更に筋肉すら付いていない華奢な体つきやモデルの様な端正な顔立ちにより、一層際立たせていた。
そして恐怖は、そんな格闘家から程遠い男から一方的に攻撃を受け続ける事であり、その荒唐無稽で不都合な現実は、耐え難い悪夢としてイワンを苦しめていた。
「うおおおお!」
何度目になるだろうか、イワンは咆哮をあげチェリオに突進を試みる。狙いはタックルで、用いる武器は鍛えぬいた丸太のような両腕である。イワンの両目が、イワンの両腕が、イワンの長きに渡る闘争で培った経験値が、狭いリングにおいて相手を逃がす事はない。
……そのはずである。
「……無駄だよ……」
チェリオはフルートを構えると、ひとたび演奏を始めた。美しい音色と、どこか儚い旋律に、観客はおろかアナウンサーも言葉を失う。
(まただ、こんな音楽は関係ない! 奴の演奏が、俺のタックルを避ける理由になど……!)
だが、結果は何度やっても同じだった。イワンがチェリオをとらえた瞬間、彼の姿は蜃気楼のように波打って消える。そしてイワンは、全力の突進でコーナーポストへと激突するのだ。
「があっ……」
激痛に目眩を覚えるイワン。何一つハッキリとしない歪む世界の中で、彼はチェリオの姿を見た。
「あなたもよく戦いました……せめて、あなたに安らぎを……」
チェリオがイワンへ近付くと、イワンの視界は目まぐるしく変わる。観客席、天井、そしてもう一度、今度は逆さまになった観客席。やがてイワンは衝撃とともに、歪んだ世界からようやく解放される。
「勝者! ゴヒャク・チェリオ選手!」
アナウンサーが叫び、観客の歓声が男を包む。しかし、男の目は、どこか遠くを見ている。
「……なんとか、もってくれたか……」
誰にも気付かれないほどの小さな声で、男は一人呟いた。
「【恐怖の笛吹男、またも完封試合】……」
「なんだよアニキ、そのダサいフレーズは」
「今朝のスポーツ新聞でヤンス」
ソファーに座り、メガネの広げる新聞紙を、三十郎は後ろから覗きこむ。一面記事には、タキシード姿でリング上の紙吹雪を浴びる、場違いな男の姿が写っていた。
「何だよこいつ、私服でリング上がってるじゃん。お前はオレか」
「名前は【ゴヒャク・チェリオ】ここ最近デビューしたばかりの新人選手でヤンス」
「新人ねえ……」
三十郎は冷蔵庫へフラフラと向かうと牛乳パックを取りだし、ラッパ飲みを始める。
「ほら、倒した相手はあの【間接技のイワン】。文字通りちょっと離れた、間接的な技のエキスパートでヤンスよ」
「ああ、そいつなら間接技で倒したな。ドアをノックしたらぶっ倒れやがった」
三十郎は口まわりの牛乳を、服の袖でぬぐい去る。
「で、そんなに気になるのか?」
「体格もよくない、こんなラムネ瓶のようなか細い男が、無傷で屈強なイワンを倒した……危険なニオイがするでヤンス」
「そりゃアレだ、暗器とか使うんじゃねえか?」
――――――――――
【暗器ってNANDA!?】
確か中国辺りで、拳法家がコッソリ使う武器の事だよ! たとえば素手の戦いで、バレないようにメリケンサック(拳を固いもので保護する物)付けたらズルいよね? 刃物を使ったら危ないよね? そんな物に頼る大人になりたくないよね?
――――――――――
「少しは頭を使ったでヤンスね三十郎、しかし」
メガネは新聞紙を三十郎に突き付ける、チェリオの手には笛が握られていた。
「この笛で相手をぶん殴ったとでも? バスケットボールですら反則になる、公式試合で?」
「笛ねえ……やっぱり吹いたんじゃない?」
「それが……どうやってイワンを!?」
「さあな。ただ、残念ながら謎解きする時間はあんまりないようだぜ」
三十郎はポケットから1通の手紙を取り出した、そこには次の対戦相手と、試合日程が書かれている。
「まさか……対戦相手がチェリオでヤンスか!?」
「まったく、対戦前にビビらせてくれるぜ、参謀さんよ」
三十郎は苦笑いを浮かべた。そして不安は現実のものとなった。
「おーっと! またも三十郎ダウン! チェリオ選手の攻撃に、手も足も出ません!」
どこか嬉しそうなアナウンサーの声を聞き、三十郎はムキになった様に手足をバタバタと動かした。
(ちくしょう、ワケが分からん!)
試合が始まり5分は経過したであろうか。三十郎はコーナーに立つチェリオを見た。やはり汗一つかかずに、優雅に笛を吹いている。これでは先日やられたイワンのよう、三十郎、君はもはや主人公の器ではないのかい?
「三十郎! 何をボンヤリしてるでヤンスか!? とにかく殴るでヤンス! 得意のグルグルパンチでヤンス!」
場外からメガネの野次が飛ぶ。彼のアドバイスは基本的に役に立たない。何しろ人の事を考えてない、あんなメガネをかけているのに、作戦と言えばラッシュ&ラッシュである。
(俺の『血祭り観覧車』が効くなら、さっさと使ってるっちゅうの)
『血祭り観覧車』……三十郎がバカ力に任せて、両腕をグルグルと振り回す力技……当たれば大打撃のこの技も、当たらなければ意味がない。
「おっとぉー! 三十郎選手のグルグルパンチ、やはりチェリオ選手には当たらないー!」
そう、当たるわけがないのだ。しかし可能性はゼロではない。宝くじを当てるのも、クラスのマドンナのハートを射止めるのも、無駄に思える第一歩が肝心なのである。
ゆえに、三十郎は何度も立ち上がり、その拳を何度でも振り回した。その不屈の闘志こそが主人公の器なのだ。しかし……。
「三十郎選手、またも(以下略)」
三十郎、君は学ばねばならない。その積み上げられた外れクジの総額を。高嶺の花を追ううちに、身近なチャンスを見失っていた事を。十回やって外れた攻撃に、君は有効性を疑わなければならない。
「三十郎! その調子でヤンスー!」
そして、君は悪しき隣人を疑わなければならない。頭を使わなければならない。その腕を休ませなければならない。お願いだ三十郎、君にもし、主人公の器があるとするならば……。
「三十郎選手ダウン!」
そう、君は敗北という形をもって学ばねばならない。彼はそれほどに、強力な相手だったのだから……。
【SANJYUROW IS DEAD!】
【SANJYUROW IS DEAD!】
「三十郎……」
三十郎は夢を見た。自分に優しく語りかける声、世界で誰よりも自分を大切にしてくれた人、今は亡き母の姿がそこにあった。
「母ちゃん……」
「三十郎……お父さんはね、それはそれは強い人だったわ」
違う。本当に強い人間ならば、なぜ自分と母を見捨てたのか。そんな父を、三十郎は許しはしない。そしてその強さなど理解できるはずがない。
「なんで……母ちゃんは親父を……」
三十郎の問いに、母からの答えはない。あったとしても所詮は夢の中。その言葉は決して母の言葉ではない。深層心理だが何だか知らないが、自分が考えた台詞でしかない。
それでも、三十郎は問い続ける。
「親父を、まだ愛してるってのかよ?」
三十郎の寂しげな口調に、母は優しく微笑むと、静かに口を開いた。
「スーッ、ハーッ……」
「へっ?」
「スース―スス―スース―ハーハー! スース―スス―スース―ハーハーシーハー! バスターメントール新発売!」
三十郎は絶句した。昨日、試合前に見たテレビのCMソングを、母が軽やかに歌い上げる。
「超撃ミントで鼻直撃! 眠気も意識もフライアウェイ!」
母の手には山ほどのガムが握られていた。
「噛めば噛むほどミントの嵐!」
「母ちゃん! 一口で十分だって、止めてくれ!」
「キスした相手もミント漬け!」
「母ちゃん!」
絶叫をあげて三十郎は目を覚ました。辺りを見回すとしわ一つない清潔なベッドシーツに、視界を遮るように覆われたカーテン、そして見知らぬ少女が唖然とした顔でこちらを覗きこんでいた。
「……病院?」
「その通り。あなたは試合に負け、昏睡状態に陥ってたのよ」
「昏睡状態……」
三十郎は額に手を当てた。尋常じゃない汗が肌一面から発せられている。
「うなされてた様だけど……悪い夢でも見てた?」
「悪い夢というかなんというか……それより君は?」
「あたし? あたしは拳一花」
「拳……拳だって?」
「そうよ。はじめまして、お兄ちゃん」
少女はニッコリと笑った。
「拳殴蹴の娘……そうか、そりゃそうだよな。三十人も息子がいて、一人も娘がいないなんて、おかしいもんな……」
三十郎は改めて一花を見た。自分とそんなに歳も離れていなさそうだが、『拳』の名を名乗るものが『拳』と接触する。その事に三十郎は身構えた。
「やはり君も格闘家なのか?」
「あら、やっぱり話が早いんだ」
「『拳』を名乗る者の宿命だな。嫌なら偽名を使うだろうしな」
『拳』の血脈は戦いのサラブレッドであり、格闘家にとっての一大ブランドでもある。その名声欲しさに自ら『拳』を名乗る偽者もいるが、その名声欲しさに『拳』を付け狙う者もまた多い。『拳』の名には常に闘争が付きまとうのである。
もちろん拳の血脈は絶対ではなく、戦いの才能は人それぞれである。中には二十九郎のように自らの弱さを悟り、徒党を組む者もいる。しかし、それでも『拳』の名を捨てる者は少なかった。
『拳』の名前こそが、この世界に蒔かれた最強の種子であり、誰もがその頂点を夢見るのだから。
「しかし、血の繋がりってすごいね。まるで引力の様に兄弟に巡り会う。まさか町に出て、すぐお兄ちゃんに会えるなんて」
「で、用事は何だ? ただの見舞いでもあるまい」
「お兄ちゃんの対戦相手……チェリオだっけ、あたしに譲ってくれない?」
その言葉を聞いた瞬間、三十郎の腕に力が込められる。
「人の獲物を取ろうってのか?」
「あら、あなたは一度負けているのよ。挑戦権なら誰にでもあると思うけど?」
「それなら、すぐにでも退院して、さっさとリベンジしてやるよ」
「前回は完封試合だったのに、戦略も勝算もなしにどう戦うつもりなの?」
「勝算? そんなもんは知らないけどよ……」
三十郎の握力が徐々に強まると、掴んでいたベッドのパイプ部分がみるみる内に潰れていく。
「この『力』だけは信じているぜ」
一花はそれを見て、少し口元に笑みを浮かべると、慌ててため息を吐いた。
「あーあ、せっかくあたしの華麗な『功夫』でデビューしてやろうと思ったのにな」
一花はポケットから新品のガムを取り出すと、三十郎に放り投げる。三十郎の握力で、ガムは束ごと一瞬にして潰れてしまった。
「何だよ」
「見舞い品。鼻息荒いし、ガム食って落ち着いたら?」
「けっ、腹の足しにもならねーよ」
三十郎は握り潰したガムを開く、歪曲した包装紙からミントの香りが漂っていた。夢の中で母が宣伝していたガムだった。
「さあ! 先日彗星の如く誕生した新チャンピオン・チェリオ選手! 挑むのは『怒りの連コイン』こと、拳三十郎選手です!」
「何が『怒りの連コイン』だ。対戦ゲームじゃないっつうの」
三十郎はアナウンサーと、周囲の観客の小ばかにした笑みに苛立ちを覚える。
三十郎のリベンジマッチ、敗戦からそう間もない期間に組まれたこの試合は、再び観衆を呼び寄せる好カードとなった。謎のファイター・チェリオの戦いもそうだが、小生意気な三十郎の無様な連敗を、観客は期待せざるを得ないのだ。
「チェリオったよな、今日こそはその涼しい顔をぐっちゃぐちゃにしてやるぜ」
三十郎の挑発も、一度の敗戦のあとでは滑稽なパフォーマンスにすら映る。観客の失笑の中で、三十郎はひとり闘志を高める。
「三十郎……くん」
意外にもチェリオが返答をする。見た目通りの静かな、それこそ歓声の中にかき消えてしまいそうな声を、三十郎だけが拾った。
「僕は戦う事が好きじゃないけれど、戦う事でお金が手に入るなら、僕は何度でも戦う。悪いけど今日も勝たせてもらうよ」
「結構ドライなやつだな。格闘家ってのは、何かしら戦う事に喜びを抱くもんだがな、ハッキリ金儲けって言うやつ、珍しいぜ」
「僕は……戦う事でしか生きていけない。仕方なくそうしているんだ」
三十郎の拳が一層硬くなった。
「仕方なく戦い、簡単に勝てる……か。甘ったれ野郎が!」
試合開始のゴングが鳴ると同時に、チェリオは笛を構えた。
「おっと、チェリオ選手さっそく『死神の笛』を取り出した!」
『死神の笛』とは試合後にスポーツ新聞の一面記事で名付けられたチェリオの笛だ。イワンを完封したとされる武器だが、審判団は試合の最中も試合後もこの笛の反則性を協議したものの、結果は「試合中のパフォーマンスで、戦法自体はあくまでチェリオの体術によるもの」という判断を下した。試合中にわざわざ隙だらけになる演奏そのものが、最初から「そんな無駄な事をわざわざするかい」と強く印象付けていたからだ。だが……。
(それでも、謎は解かなきゃ勝てっこねえ!)
チェリオが笛を口にする瞬間、三十郎はその笛を力づくで奪い取っていた。
「なんと三十郎選手、いきなり『死神の笛』を奪取、演奏を阻止した!」
観客がどよめく。チェリオの笛はあくまでもパフォーマンス、それを阻止する三十郎は小心者か、はてまたは大人げのない大人か。鋭くにらみつけるチェリオに対し、三十郎は笛をチング外へと放り投げた。
「でかしたでヤンス三十郎! これでチェリオは笛をふけないでヤンス!」
「……まさか、それで勝ったつもりなの?」
チェリオの凍り付いたような声に、メガネはおろか観客一同が言葉を詰まらせた。ピリピリとした空気、静かな怒りが会場を張り詰める。
「まさか、ただ格闘家なら試合に集中しな。呑気に笛なんて吹かせないぜ」
「だったら、あなたこそ試合に集中した方がいい」
「なに……?」
三十郎は突然体が重くなった気がした。この感覚はそう、前回と同じだ。自分の体が言う事を聞かない、あるいはプールに全身が浸かったかのように動作がスローに感じられる。
「僕の攻撃はもう始まっている」
無防備に歩いてくるチェリオに三十郎は身動きが取れない。そしてその細い腕や脚から放たれるパンチやキックが、なぜかハンマーで殴られたかのような衝撃に感じる。
「おっと三十郎選手! チェリオ選手の攻撃をもろに食らった! この展開、まさにデジャブです!」
「三十郎! とにかく技を! 攻撃に転じるでヤンス!」
メガネの思いついたようなアドバイスに三十郎は既視感を覚える。確かあの時、言われるがままに『血祭り観覧車』を放ち……。
(ダメだ! あいつにあの技は通用しない! 『血祭り観覧車』は威力は高いが真正面の敵にしか当たらない、何とかあいつに当たる技を……)
フラフラと立ち上がった三十郎は、荒々しく呼吸をするも、両手を強く握りしめた。
「無駄だよ。動き回れば回るほど苦しむだけだ」
(縦がだめなら、そう……横だ!)
三十郎は両腕を水平に保つと、渾身の力を込めて回転を始める。
(足元をしっかり、それでかつ相手に向かって!)
回転速度がじょじょに増し、両腕の風を切る鈍い音が聞こえてくる。その異様な光景に観客は言葉を失った。
「おっと三十郎選手! 今まで見た事のない新必殺技です! まさに人間台風、筋肉の高気圧がじょじょにチェリオ選手を追い詰めます!」
チェリオは高速回転する三十郎を前に、眉一つ動かさなかった。
「なるほど、確かに驚異的だ。全方位に継続して剛腕を振り続ける……とんでもない腕力とスタミナが生んだ力業だ。だけど……」
迫りくる三十郎を前に、チェリオは落ち着いて屈むと、そのまま足払いをした。
「下半身は無力だ」
筋肉台風は轟音とともにリングに倒れ伏した。
「チェリオ選手、なんなくこれを退けた! 三十郎選手、まさかの初奥義が破られ、心は晴れのちくもりといったところでしょうか!」
「三十郎! 立つでヤンスー!」
どよめく歓声と、ゆらめく意識の中で、三十郎は静かに時間の流れを感じ取っていた。
ああ、まただ。バイク事故を起こした時も、前にこうやって倒された時も、なんかゆっくりに感じるものなんだな。そんでもって意外にいろいろ考えられるんだな。
「もういい、もう立たなくていいんだ」
チェリオがティッシュで鼻をかみながら、こちらを見下ろしている。調子こいてるな。余裕こいてるな。くそっ、愚痴しか出てこないな。
一体何が悪かったのだろう。三十郎は考えた。新必殺技は悪くなかったはずだ、少なくとも『血祭り観覧車』よりかは遥かに実用的な、思い付きでやった割には良い必殺技だったはずだ。もっと練習すればより良い技になるはずだ。チェリオは冷静に対処したが……あいつ、また鼻をかんだな。よく見たらポケットにティッシュパンパンに入れてるな。
「今日もまた、生き延びたようだ……」
チェリオが鼻にスプレーを一刺しした。
「って、鼻の調子が悪いのかよ!」
三十郎は思わずポケットに入っていたガムを一粒握りしめると、チェリオの口に目がけて投げ込んだ。バスターメントール、一花からもらった新商品のガムだ。
「!?」
異変はすぐに起きた。鼻をつくようなミントの刺激にチェリオが悶絶する。そして三十郎は、急に体中が軽くなったような気がした。
「おっとチェリオ選手、突然苦しみだした! 一体何が起きたというのか!? 謎です!」
「くそっ、まさかこんな……!」
チェリオは鼻をスースーさせながら困惑した。
「あなたみたいな筋肉バカが、『死神の笛』の謎を解いたとでも!?」
『死神の笛』の正体……それは年中ひどい鼻炎に悩まされ、鼻づまりに耐えたチェリオが編み出した独自の必殺技だった。鼻笛の音域をコントロールし、超音波のようにして近距離の相手にのみ影響を与え、意識を蝕んでいく。
審判団の見解はある意味では正しかった。試合中の笛の演奏はあくまでもパフォーマンス、本当の『笛』は目にも見えず耳にも聞こえていなかった。そしてその正体は決して見破られる事のない、対峙したものだけを葬り去る、まさに『死神』の奏でる旋律だったのだから。
「バカな、命を賭した私の奥義が……」
「奥義がどうか『死神の笛』がなんなのかよう分からんが、とりあえず耳鼻科行ってこい!」
三十郎の拳がチェリオの腹部を捕らえた。チェリオは多少鍛えてはいるが、あくまで奇策に頼る暗殺者に過ぎない。三十郎の一撃にとうてい耐えられる鍛錬は積んでいなかった。
「勝者! 拳三十郎! 有言実行、この男は復讐を遂げました! やる時はやる、それが三十郎です!」
手のひらを返したように盛り上がる会場内で、少女がひとり覚めた表情で三十郎を見ていた。
(結局、新必殺技は不発。最後は道具に助けられる。格闘家としては微妙だけど……)
一花は、自分なりに対チェリオ戦を考えてはいたが、とうとう『死神の笛』の正体には辿り着けなかった。そしてたった今、この会場でただ一人その答えに辿り着いていた。
(運も実力のうち、ってか)
三十郎は、おそらくはいつものように無心で戦い、勝利した。一花は乾いた拍手を三十郎に送った。