「その9 深淵に触れたいとか言われてもね」(1)
ひととおりのじゃれ合いを終え、ティンクルは自分の席に、ライプニは元の席に、ラムシゲは「障子」の開いた窓際にもたれ掛かるように、トボトボ戻る。
それと言うのも、くすぐられて暴れたラムシゲのエルボーが、たまたまライプニの顔面に直撃し、真っ白の大福に鼻血というジャムが垂れ始めたため、みんな、何となくテンションが下がって来たからであろう。
ライプニだけは、ラムシゲから「ごめんね、ごめんね!」と優しく介抱してもらえて、内心、テンションが上がってはいたのだが。
そしてまた、どさくさに紛れて、ティンクルがライプニの鼻血をちょいちょい啜っていたのは言うまでもない。
「それで、まぁ、魚の気持ちとかは別としても、『一度飼い始めたら、最後まで飼い続けてあげるべき』って言うのは間違ってるわけ?」
一息ついて、落ち着いたラムシゲが質問する。
「ぃゃぃゃ、勘違いしてほしくないんだが、朕は、生命倫理上の特定の命題について、それが間違ってるとか正しいとかの価値判断をしてるわけじゃないけん。」
「まーた、難しい言葉使うわね、あんた。」
とラムシゲ。
「俺なんて、言ってることの半分も分からんかったぞ。ぐははは!」
とカトゥーチャが続く。
「あー、もぅ、めんどっちぃヤツらっちゃね。よーするに、朕は『熱帯魚は最後まで飼い続けてあげるべき』かどうかなんて知らんし!ってことよ。だって、汚い最悪の環境で飼い続けられるより、ひと思いに殺してくれ~!なんてことさえあるやもしれんし。ぃゃ、知らんよ、朕は。何が正しいかなんて、ホントに。」
ティンクルは、両足を自分の机の上に投げ出し、黒く美しい髪の後ろに手を組んで、天井を見つめる。
むっちりした太腿が、藍色のデニムのミニスカートから大いに露わになっているが、そーゆーことは気にしない様子だ。
カトゥーチャは「いかんいかん」とか言って顔を手で覆いつつ、ひょっこり指の隙間から覗いてるようだが、いずれにせよ、世の男どもには目に毒な光景だろーぜ。
「ただ、あれっちゃよ。そもそも熱帯魚を飼い始める趣旨が、自分が楽しんだり、癒されたりするために、魚を水槽に詰め込むってことにある点は、否定できん事実っちゃけん。もちろん、絶滅危惧種の魚を水槽内で人為的に増やすために飼育するとか、学術的な研究のために飼育するとかゆー場合は違うんよ。ただ、ライプニには最初にゆーといた通り、ここで言う『アクアリウム』とか『熱帯魚飼育』とかは、要するに、鑑賞目的で魚を水槽で飼育することをゆーって定義しとっちゃろ?これは完全に自分のための趣味=ホビーっちゃけんね。この点を捨象しちゃったら本末転倒になるけん、重要な点なんよ。」
だが、ラムシゲは納得してない。
「趣味なのは分かるけど、魚の命を預かる趣味なんだもん。やっぱり、ちゃんと飼ってあげるのが飼い主としての義務じゃないの?」
ティンクルは、フイフイっと空中で左手を振って答える。
「朕も、ちゃんと飼うべきだってことは否定しとらんけん。ただ、『魚のために』的な議論とか価値観はふわふわし過ぎとーけん、熱帯魚飼育というものの本質を議論するのに危険な要因となりかねないと思っとーだけなんよ。『魚のために』じゃなくって、朕が熱帯魚飼育を成功するために、ちゃんと『飼ってあげる』んじゃなくて、ちゃんと『飼う』んよ。」
「う~ん……、言ってることは分かるよーな気もするんだけど……。」
ラムシゲは、どーもシックリ来てない様子だ。
ライプニも、鼻の穴に赤いティッシュを詰めたまま、素直な質問をぶつける。
「そーすっと……。チンクルさんのよーに考えると、何か現実的な違いが出てくるんすか?結局、同じように『ちゃんと飼おう!』って結論が出てくるだけっすよね?」
「そのとーり。だが、具体的にいろいろな場面で考えると、結構違いが出てくるっちゃね。『魚のために』ってゆーのは、とにかく『最高の水質で、どこまでも広いスペースで、全くストレスのかからない環境で、まさに大自然の中のごとく、そして、時には実際の自然の中以上の環境で、飼育すべきだ』っちゅー、ちと無理な方向に傾きやすい。それに対して、『飼育者が楽しむために熱帯魚飼育を成功させる』って考えると、『飼育者にとって時間的・経済的・物理的に可能な範囲で、かつ、魚が相応に耐えられる範囲で、いかに魚の生態を楽しめる状況にもってくか?』という現実的な方向に傾きやすくなるっちゃろ?」
ティンクルの説明に、フムフムと頷く様子のライプニ。
ティンクルは、机上に放り出した両足を組んで、自分の鼻の頭を両目で見つめながら続ける。
もうパンツ見えちゃうからね、それ。
ティンクルさん、気を付けて~!
「前者はとても素晴らしいかもしれんが、一方で、危険な議論でもあるけん。そんな大風呂敷を広げた挙句、時間的・経済的・物理的な限界が訪れてしまったら、その熱帯魚はどーするん?それに、そもそも、そんな過度に理想的な飼育環境を目標にしてたら、いつまで経っても目標に近づけんくて、最後には嫌になって投げ出しちゃう初心者が沢山出てきそーっちゃろ?例えば、野球を初めてやろーってとき。いきなり大リーグ級のテクニックとか訓練とか求められたら、すぐに嫌になるっちゃろ。」
「う~ん……、なるほどねー。まぁ、あんたの言ってることも全く分からないわけじゃないし。オッケー、今日はこのラムシゲ姉さん、とりあえずあんたの考え方に乗ってあげるよ♪」
ラムシゲが華奢で薄い胸を右手でポンと叩く。
「お、上から目線返しっちゃね、生意気な!それなら朕だって……」
ティンクルが、器用に椅子から飛び上ると、ひょいと机の上に立ち上がって、ラムシゲを上から見下ろそうとする。
その瞬間、「ゴン」という鈍い音が室内に響く。
「うぉっ……!?この朕としたことがぁぁぁ……っ!!!」
ティンクルは、天井の梁に頭を強打した。
低身長のティンクルでも、机の上に立ち上がると、さすがに頭をぶつけることがあるらしい。
もがき苦しみ、椅子に座り込むティンクル。
涙流しちゃってるよ、この吸血鬼。
「キャハハハ!超ウケるんだけど~っ!!背、低いのにね、背!あー、可哀想~!」
ラムシゲは本当に嬉しそうだ。
「あー、腹立つ!むちゃくちゃ痛いっちゃねー!カトゥーチャ、ここスポンジ貼っといて!もう、フッカフカな感じになるくらいー!!」
「ガハハハ!本気か、ティンクル?それより、背の高い者の気持ちが分かって勉強になったろ?ぐわはははは!」
「笑うな、もう!ホント、むちゃくちゃイッタ~……」




