セルカと指輪と伝染する悪夢⑬
目を覚ました時、最初に感じたのは驚く程の寝覚めの悪さだった。
全身がじっとりと湿っていて肌着が体に張り付く。不快感から汗をかき、湿度が上がってより不快になるという悪循環。
そして襲ってくる――腹部の鈍痛。お腹を壊したときのような、内側から来る痛み。ぐぎゅるるる。と嫌な音を発する下腹部。なおも収まらない膨腹感。尿意と便意が僕の下半身を絶え間なく攻め立ててくる。
僕は今地獄にいた。
「お気づきになられましたか?セルカ様。」
頭上から聞こえてくるジト目さんの声。
「申し訳ありません。了解を得ずに新薬の臨床実験に付き合わせてしまいまして。後程ヒヤシンスの店主から正式に報酬が――」
「それよりも」
「……はい?」
「それよりもトイレに行かせてくださいぃぃぃ!!」
僕のお腹は限界だった。
ジャー。バタン。はあ、ぎりぎり助かったぁ……。なんとか窮地を脱した僕はトイレから出る。うう、でもまだお腹がたぷんたぷんしてるぅ。少なくとも倒れる前はお腹に異常なんてなかったはずなのに。
だとすれば、考えられるのは……、意識を失っている間に、錯乱した僕が何かやらかした可能性0.02%。意識を失っている間に、誰かに何かされた可能性ーー99.98%。
……うん。考えるまでも無かった感はあるよね。まあ少なくとも、最悪の事態は避けられたんだ。それで良しとしようじゃないか。その、何が僕のお腹に満たされていたのかについては考えない方向でいきたい。正直怖い。めっちゃ怖い。
っていうか、僕の周辺には「直視できない現実」ってやつが多すぎる気がする。
駆け出しの頃に「好奇心は冒険者を殺す」って教えられたけど、僕がもう少しだけでも好奇心旺盛だったら確実に何回か死んでたね。精神的に。
まさに
「フフッ。この世には知らない方がいいこともあるのだよ。少年。ってやつ……」
個人的に人生で一度は言ってみたいセリフナンバー3を言いながら、キメ顔でクルッとターンを決めて後ろに振り向いたとき、驚きの人物と目があった。いや、あってしまった。
そこには、いい笑顔でこちらに笑いかけるリシアが……って
「何が『知らない方がいいこと』なのかしら〜。セルカっ♪」
「ぎゃあぁぁぁー!!」
「いや〜手元に記録媒体がないのが本当に残念ね〜。ま、私の脳内フォルダにはしっかり記録したけどっ」
やっぱり聞かれてた!さっきの、は、恥ずかしいセリフっ!なんで、よりによってリシアに聞かれるんだよ!ダメじゃん!一番聞かれちゃダメなやつじゃん!!どうして口に出してしまってたし、5秒くらい前の僕ぅぅーーー!!
「さて、私としてはさっきのハードボイルド(笑)な行動について小一時間ほど語り合いたいところだけど、残念ながら先約があるのよね~。もう時間も時間だしねー。ってわけで急いでついて来てねっ、セルカ!」
ガシッ。いつかの時と同様に首根っこを掴んでくるリシア。
「あっ、ちょっ、えっ!?」
「よいではないか!よいではないかー!」
十秒程の爆走の後、着いたのはついさっきまで僕が寝かされていた部屋。つまるところ戻って来ただけなんだけど、僕がちょっと席を外している間に部屋の中はずいぶん様子が変わっていた。
さ っきも部屋に居たジト目さんの他に、僕を連れてきたリシア、パーティメンバーのアル、さらに鑑定屋店主の四代目、薬屋のオーリエさんまで居る。特に最後の二人はどうして居るのか謎だ。
「その顔は『どうして私達が居るのかわからない』って顔ですわね。いいですわ、説明してあげますわね」
オーリエさんが有無を言わせぬ口調で言ってきた。……悪い人ではないんだけど、苦手なんだよなぁオーリエさん。なんていうの?柔らかいけど強い物腰、みたいな?断れないオーラが凄いんだよね。
「まず、今回あなたには私の新薬の実験台になっていただきましたの。もちろん無断でね」
「そういうところが嫌いなんだよぉぉぉ!!」
前にも、なし崩し的に人体実験に付き合わされたことがありましたよね!?そして、それからずっと近づくのも避けてたはずなんですけど!!
「そんなに嫌わないでほしいですわ。あなたは私の大切な実験台なんですもの」
「う、」
『う?』
「う、うわぁぁぁん!!」
「しまった、ストレスのかけすぎでセルカが退行した!!」
ペタンと床に座り込んで泣きわめくセルカ(三十手前♂)。いくらゆったり作られている建物とはいえ、既に空に月が浮かぶような時間帯。近所迷惑になってしまうのは避けられない。かつてなかった事態に動揺しながらも、退行したセルカをなだめ始める一同。結局、状況の説明に戻れたのはそれから一時間後のことだった。
「つまり、僕でしか試せないようなヤバイ薬だったから、どうしても僕で実験するしかなくて、仕方なくジト目さんを巻き込んで僕をはめた。……ってことでいいの?」
「大体合ってますわ。それに、不意討ちだったとはいえ実験に協力してもらったのですから、きっちりと報酬は出させていただきますわ」
「……まあいいよ。どうせ今日は臨時休業だったし、特に苦しいみたいなこともなかったしね」
「ありがとうございますわ。……それでは、本題に入りましょうか」
『了解』
「??さっきので話は終わったんじゃないの?」
僕以外の全員は、深刻そうにうなずいている。……なんだろう、当事者のはずなのにすごい疎外感を感じる。
「もう一度確認したい。薬屋の店主さんよ、あんたが自分で試した時には6時間で目覚めた。間違いないな?」
「正確には5時間57分43秒ですわ。付け加えるなら、うちの気付け薬を使ったときは3時間ぴったりで気がつきましたわ。それを踏まえた私の実験前の試算だと、セルカに対するこの薬の効果時間は四時間ぐらいを予想していました。……少なくとも、私のときより短くなるなんて有り得ないことですわ」
「でも、その有り得ないことが現実に起こってる」
「ええっと、全く話についていけてないのですが……」
「セルカ。外見てみなさいよ、外」
「??」
リシアにそう言われて、この部屋で一つしかないはめ殺しの小窓に近づいて外をのぞき込む。そこは
「えっ……夜?」
外は真っ暗。仄かな月明かりとまばらな街灯だけが街を照らしていた。
「セルカ。お前はずっと眠ってたんだよ。9時間もな」
「正確には9時間12分です。きっちり測らせていただきましたので間違いありません。」
「9時間!?そんなに持続する状態異常付与の薬なんて聞いたこともないよ!普通の睡眠薬なんて1時間くらいしか持たないのに!」
「元々、薬屋の店主さんは超がつくほど効き目の強い薬を持ってきてたんだ。だから、それはいいんだが……」
「さっきも言いましたが、効果継続時間が予想よりも長すぎるのですわ」
「だからね、私が飲ませーー」
「ちょっと待って!詳しくは言わないで!それ以上は僕の精神衛生上よくない気がする!」
「……まぁいいわ。それで、持ってた気付け薬とかを片っ端から飲ませたのよ。それでも全く起きなかったんだから」
とりあえず僕の腹痛の原因がヤバそうな物じゃなくて良かった。リシアがやたらと「とか」を強調してたのは怖いけど。
「みんなで集まって話し合ってみたが、今朝の指輪と同じくこの件も分からんことだらけってわけだ。お前が起きたら何か分かるかとも思ったが……無駄っぽいしな」
「なんだか馬鹿にされてるような気がする」
「じゃあ何か分かるのか?」
「……分からないですけど」
『……』
みんなからの冷ややかな視線が痛い。今回はある意味プロのジト目さんもいるし、いつもより厳しく感じる。
「まあまあみんな。このままこうしていたってどうにもならないだろうし、もう遅い時間だ。今日は一旦解散ってことにしよう。いいかな?」
アルからの提案。全員が
『異議なし』
同意してその日は解散ということになった。
……既に、ここフレイルに最強の「魔」が襲来してきているとも知らずに。