第二章 弐(過去)
「あ、あの、ひろみはッ!」
「……とりあえず、座りん」
ぜえぜえと息を切らしながら登場した人間に対して、何て冷ややかな反応をするんだろう、この人は。
「あの、でも、ひろみ――」
「大丈夫だから。三〇分くらい前に分娩室に入ってったとこ。あとはプロに任せて、『お父さん』はでんっと構えてればいいに……」
慌てふためくこちらを見て、若干呆れている風にも見える。
「そ、そうだね……」
「だから、座りんって。ちょっとは落ちついたら?」
「嫁が産気づいたって聞いて、落ちついていられる奴なんていないって。あの、何か、俺にできることとか――」
「ない」
「何か手伝えることとか――」
「邪魔になるだけだから。座って待ってなって」
どこまでもつれない態度だ。――そう言えば、
「……おばちゃん、何でここにいるの?」
「今? 今になって、それ疑問に思った?」
「いやァ、俺も色々動転してて――」
「呼ばれたの。アンタ一人だと、とっちらかって何しでかすか分からんもんで、『風車』の椎名さんも呼んで下さいって、ひろみちゃんが、さ――。お父さんは夜の仕込みがあるから、代わりにアタシが来たの。ひろみちゃん、さすがによく分かっとるわ」
「あ、そうなんだ……」
何だか、脱力する。
確かに、ひろみはとてもよくできた女で、しっかりしていて、暴走しがちな自分の、いいストッパー役にもなってくれている。感謝してるし、信頼もしているが――だけれど、
「もうちょっと、俺のこと信頼してくれてもいいと思うんだけどな……」
「信頼してないんじゃなくて、心配してるだけだら。嫁が産気づいただけで、血相変えて全力ダッシュしてくるような男だもんねェ」
「そんなの、誰だってそうなるって」
「真っ昼間に真っ青な顔して病院を全力疾走する制服警官なん、そうおらんら。後で謝っときんよ? 病院の人たち、何事かと思って大騒ぎになっとるに」
言われて、気がついた。電話をもらったのは、パトロールから戻ったばかりだったのだ。
「……すみません」
「あたしは別に、謝られるようなことされとらんけどね」
どこまでもどこまでも、つれない人だ。……だけど、そのおかげで少し落ちついたのも、事実で。
「――名前とか、もう考えてあるの?」
分娩室前の長椅子に並んで腰掛けていると、唐突にそんなことを聞いてくる。
「そうですね……俺もひろみも、二人とも海が好きだし――それに、海みたいに大きな愛に包まれて育ってほしい、海みたいな大きな人間に育ってほしいってことで――『海人』にしようか、と。『海』の『人』と書いて、『海人』」
「いい名前じゃん。――それで?」
「え?」
「女の子だったら?」
「え?」
「え?」
顔を、見合わせた。
「――え!?」
どっと、汗が噴き出してきた。
「……もしかして、考えてなかった?」
赤くなったり青くなったりしながら、コクリと頷いのと――
フロアに産声が響き渡ったのは、ほぼ同時だった。