第一章 壱(現在)
山雨来らんと欲して風楼に満つ
小さな頃、世界というものは無限に広がっているのだと思っていました。今はまだ狭い範囲でしか動けないけれども、大きくなれば――立派な大人になれば、どこにでも行けるし、何でもできる。可能性は無限にあって、選択肢は無数にあって、自分という人間は無期限に存在し続けるのだと、無垢に信じて疑いませんでした。
それが、今はどうでしょう。
確かに、行動範囲は想像以上に広くなりました。様々な交通手段を駆使して、様々な人々と出逢い、様々な体験をして、様々なことを考え――しかし、世界が広がったかと言えば――そんなことはなく。
人は成長するごとに多くのことを学び、吸収し、自分の世界というものを築き上げていきます。ですが、それと同時に周囲の人、モノ、事柄全てを自分の世界に取り込もうともします。もちろん個人差はあるのでしょうけど、ある程度歳を重ねてしまうと、なかなか自分の世界を広げられないものなのです。
自分には限界があって、そんなちっぽけな自分を取り巻く世界も決して無限などではないと思い知らされて、勝手に築き上げた自己領域から出ることも出来ず、それどころか、他者がそこに踏み込むことすら許せず、徒に怒り、悲しみ、傷ついて。
私は、その度に海を見に行っていました。
昔から、海は好きでした。
海には、それこそ無限の世界が広がっているように見えました。視界に広がる海原と、果てなく続く水平線――その向こうにはどんな世界が広がっているのだろう。島育ちの私にとって、海は常に身近な存在でした。
今でも、海の近くに来ると――気持ちが安らぐのです。
~
どれだけ歩いたのでしょうか。
気が付くと、海に出ていました。
私がどういった人間で、どういった経緯から旅に出、何を目的として放浪しているのか――ここで敢えて説明するつもりはありません。凡庸とは言い難く、俄には信じられないような話ばかりで、決して聞き手を退屈させない自信はあるのですが――それを語るにはあまりにも時間がかかりすぎるし、第一、この後に待ち受けている諸々の展開とはとは何一つ関連もない話ですので、今回は割愛させて頂きます。
とある西の地を発端とした私の旅は、東へ東へと向かい――いつしか、この地へと辿り着いていました。
国道一号線から外れてしばらく――周りには大きな建物はおろか、人影もまばらで、右を見ても左を見ても、稲の刈り取られた荒涼とした田圃が広がるばかり。冬の高い空から注ぐ陽の光はとても弱く、前方に伸びる影も、ますますその輪郭を朧気にしていきます。そろそろ、ルートを元の国道に戻した方がいいのかもしれません。そう思いつつも、私はただ徒に歩を進めていきます。
人が住み着いているのかも分からない民家をいくつか通り過ぎ、小さな丘を上り下りし、小さな松林を抜けたところで――目の前に、砂浜が広がったのです。
やはりその砂浜にも人の気配はほとんどなかったのですが、元来、私は海が好きな人間です。靴の中に砂が入りこむのも構わず、私は海岸線に向かって歩き始めたのでした。
来る者を拒むかのように広がる、冬の海。遠くから吹き付ける潮風は、湿っているくせ冷たくて、鋭く、強く、その場に留まっているだけで凍えてしまいそうです。私は思わず、コートの襟を高くしたのでした。
と、視界の隅に、小さな人影が入りました。
浜を臨む小高い丘の、切り立った崖の上に、その男性は立っています。危険防止のために、崖が途切れる五十メートルくらいの範囲で木製の柵が設置されているのですが、彼はその内側に立ち、肘を突いて――こちらを見続けています。歳は二十代の半ばほどでしょうか、真冬だと言うのに薄手のTシャツにジーンズという軽装で、凛々しい顔立ちをしているにも関わらず、面でも貼り付けたかのような無表情で――身じろぎもせず、ただじぃっとこちらを見続けているのです。
妙な、感じがしました。
何者なのでしょう。辿り着いたこの地に対し、先程から私は散々『人気のない田舎』などと揶揄してきた訳ですが、考えてみれば今は平日の昼過ぎで、まっとうな人間なら勤めなり学校なりに行っている時間帯です。ぷらぷらと海辺を散策している私の方が異端なのであって、町中に人気がないのは至極当たり前のことなのですが――では、私と同じく丘の上に佇む彼は、あんな所で一体何をしているのでしょう。学生、或いは会社員のようにしか見えませんが――知らず、私は丘の上の彼に興味を持っていたのでした。
草木のまばらな崖下を迂回して数分も歩くと、交通量の多い国道と合流しました。多くの荷物を積載したトラックが絶えず行き来しています。路肩に寄ってしばらく歩くと、今度は急な坂道が直角に伸びています。かなりの傾斜を誇るであろうその坂は大きくカーブしていて、恐らく最終的には海岸と平行に並ぶ形になるのでしょう。先程見た切り立った崖も、この坂から続いている筈です。猛烈な勢いで走り抜けていくトラック群に背を向け、私は坂を上り始めました。右手には暗く湿った林が広がり、左手には少しずつ高低差を大きくしていく崖が続いています。崖の高さが三メートルを越した辺りから、柵は始まっていました。坂の頂上はもうすぐです。
――なのですが、いつしか男の姿は消えていました。きっと私が崖下を迂回している間に立ち去ってしまったのでしょう。別段、男と対峙してどうしようと思った訳ではないのですが……。ほんの少し、淋しく思いました。
~
一陣の風が、通り過ぎていきます。
かなりの強風だったため、私の帽子は飛ばされてしまいました。慌ててそれを追い掛けます。幸い強風は瞬間的なものだったので、十メートル程走るだけで、帽子を拾うことができました。しかしそれと同時に、私は柵の端にあたる箇所に、小さな人影を発見したのでした。
「すいませーん」
――否、正確には、人影の半分を、です。
その人物は下半身を崖の下に落とし、胸から上の部分だけを崖の上に露出していました。
「だれかいませんかー」
まだ年端もいかないであろう少年は、か細い声で何者かに助けを求めているようです。道路脇に黒いランドセルが放り出されているところを見ると、まだ小学生のようです。危険防止のための柵はその少年のところでぶつりと切断されていて――よりによってその場所で、彼は足を滑らせてしまったようです。すでに走り出していた私は短時間でその程度の考察を終え、
「……大丈夫ですか」
「わあ。ありがとうございます」
四十キロに満たないであろう小さな体を路肩に引き上げたのでした。
「ああびっくりしたー」
それはこちらの台詞です。
彼がぶら下がっていた箇所はすでに崖の高低差が二十メートルを超えていて、下が柔らかな砂浜とは言え、所々ごつごつとした岩肌が露出していて、落下したならそれこそ命の危機に関わったでしょう。
「死ぬかと思ったー」
それなのに、当事者である少年の声には、あまり緊張感が感じられません。口では『死ぬかと思った』などと言っているものの、その実、自分が如何に危険な目に遭遇していたのか、理解できていないのではないでしょうか。
「本当に大丈夫ですか?」
「ゼンゼン大丈夫ですよー。ありがとうございましたー」
ぺこりとお辞儀をして、傍らのランドセルを取り上げ、そそくさとその場を後にしようとする少年。この寒いのに――上は長袖のトレーナーですが――半ズボンです。『子供は風の子』などという古い慣用句は、平成になってもまだ生きているのでしょうか。
「……大丈夫ではないでしょう……」
よく見ると、膝と脛の二箇所から血が出ています。落ちかけた時に擦り剥いたのかもしれません。
「……君、家はどこですか?」
考えるより先に、声が出ていました。