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第五章 壱(現在)

第五章 風が吹けば桶屋が儲かる


壱 大和亮介(現在)


 一夜明けて、翌朝のこと。

 私は飽きもせず、砂浜に腰を下ろし、何をするでもなく、じぃっと――海を眺めておりました。冬の海は激しく荒れていて、来訪者を拒むかのような厳しさに満ちています。

 そして、身を刻むかのような――冷たい潮風。

 すでに、頬や耳の感覚は失われています。気温自体はそれほど高い訳でもないのでしょうけど、一日を通して風が強いために、体感温度が異常に低く感じられるのです。吐き出される呼気は、風に乗って瞬く間に白く拡散していきます。淡い色彩をした空は、海との境界も曖昧で、太陽光は頼りなく、砂浜に刻まれる筈の私の(シルエツト)もまた、ひどく曖昧で――そんな時、私は耐え難い孤独を感じるのです。

 ――私は、何をしているのでしょうか……。


 私は昨日、一人の少女を救いました。救出された彼女は即座に救急病院に運び込まれ、一命を取り留めました。すでに意識も戻り、発見が早かったこともあって、数日中には無事退院できるできるとのこと。その知らせを喜代婆から聞いた時は、本気で胸を撫で下ろしたものです。

 しかし、それで大団円かと言えば――勿論、そんな訳はなくて。

 命を救い、彼女の計画を頓挫させたところで、根本的な問題が解決した訳ではないのです。イジメに限って言えば、学校を移すなどの解決策を講じることはできるでしょう。

 しかし、問題は彼女自身にあるのです。

 彼女は、深い孤独を抱えていました。クラスメイト全員が敵に回り、学校は見て見ぬふり、心配をかけたくないという理由で家族に悩みを打ち明けることもできず――それで彼女は、今回の計画に至ったのです。

 本当は、一人でなどないのに。

 母親がいて、弟がいて、椎名夫婦がいて、香織嬢がいて、恐らくはその他にも、彼女を愛し、彼女を守ってくれる存在がたくさんいて――決して、一人ではなかった筈なのに。


 不意に、風がやみました。


 と同時に、背後から砂を踏む音が聞こえてきました。誰かが近付いてくるようです。こんな朝早くに、誰でしょう。一人になりたくて、わざわざ風の吹きすさぶ砂浜を選んだと言うのに……。

 不審に思って振り向くと、そこには一人の青年が立っていました。

 一瞬、私を睨み付けてくるかのような、鋭すぎる眼光。神谷巡査です。

「こんにちわー」

「……こんにちは」

 凶悪な三白眼は相変わらずですが、快活に挨拶してくるところを見ると、怒っている訳ではなさそうです。セーターにダウンジャケット、水色のニット帽と完全防寒に徹した彼は、遠目に見ればその辺りにいる若者と変わらないように見えます。ただ、やはりニット帽の下から覗く双眸は威圧感抜群で、街を歩いていたなら確実に道を譲ってしまいそうではあるのですが。

「昨日は、大活躍でしたね」

 フラットな口調で尋ねる彼。

「いえ、結局洋子嬢を助け出したのは神谷さんの方でしたし、私は、私にできることをしただけでして……」

 結局、私は何がどう転んでも、通りすがりの狂言回しでしかないのでしょう。

「そんなの、ただの偶然ですよ。たまたま僕があそこを通りかかって、家の中で大きな音がしたから飛び込んだだけの話で……」

 偶然――でしょうか。それにしては、あまりにタイミングが良すぎる気がするのですが……まあ、それは置いておきましょう。

「大和さんがいなければ、今頃どうなっていたか……。全然、気が付きませんでした。洋子ちゃんがあそこまで思い詰めていたなんて……」

 海人少年の奮闘も虚しく、結局、洋子嬢の計画は白日の下に晒されてしまいました。ひろみ夫人は勿論、椎名夫婦も香織嬢も、神谷巡査も眼鏡の巡査も、そのことを知ってしまい――皆、一様に心配していて。

「彼女、親しい人の前では明るく振る舞っていましたからね」

「でも、大和さんは、それを見抜いたんでしょう?」

「それこそ、たまたまです」

「――昨日は『何の問題もない、彼女に危険はない』と言っていたのに」

 何だか、雲行きがおかしくなってきました。


「どうして、嘘を吐いたんです?」

 

 怪訝そうに目を(すが)める彼を見て、背筋が凍り付きました。

 この神谷巡査は、嘘を吐いた私を追及しにやって来たのでしょうか。昨日交番に連行された時は、とにかく早くその場から解放されたくて、最後の最後に決定的な嘘を吐きました。洋子嬢に問題はなく、危険はない。自分の心配は杞憂であった、と――。ですがそんな嘘は、昨日の騒動を知れば簡単に露見する訳で。

「あ、いえ、それは――」

「別に怒っている訳ではないですよ?」

 私が狼狽しているのを感じ取ったのか、慌てて取りなす神谷巡査。だったら、そんなに怖い目で睨まなくてもいいでしょうに。

「この目付きは、生まれつきなんです。元々こういう顔なんです。最近になって気が付いたんですけど、なんか僕、無意識に人を睨む癖があるみたいで――」

「……それは、些か気付くのが遅かったかもしれませんね……」

「んな事はどうでもいいんですよ。それより、僕の質問に答えてください」

「嘘を吐いたのは――単純に、騒ぎにしたくなかったからです。洋子さんや海人君は、事の真相を周囲の大人達に知られるのをひどく恐れていました。私はその意思を汲んだだけです。警察の方々が関われば――例え、それが比較的親しい間柄だったとしても――騒ぎになるのは目に見えてますからね。洋子さんがああいう行動を取ったせいで、結果的には大騒ぎになってしまいましたが……」

「なるほど。僕はてっきり、あの場から解放されたくてとっさに適当なことを言ったのだとばかり思ってました」

 ……神谷巡査、思ったよりも優秀な警察官であるようです。勿論、私が語った理由も本当のことではあるのですが。


 一時は()んでいた風が、再び強くなってきました。ビョウビョウと耳元で唸る風はコートの内側にまで入り込み、少しずつこちらの体温を奪っていきます。

「――昨日は、すみませんでした」

 唐突な謝罪の言葉に、私は再び狼狽してしまいました。

「何が……ですか?」

「いや、色々と取り乱したりして――大和さんにも、けっこう失礼な態度取っちゃって……」

「それは仕方ありませんよ。私はどこからどう見ても不審者だった訳ですし」

「それはそうなんですけど――」

 否定の言葉はなしですか。今更気にもなりませんが。

「僕、ダメなんですよね……大城さんのことが絡むと、冷静でいられなくなっちゃって……」

「そう言えば、あの眼鏡の方――」

新畑(あらはた)さんですか?」

「ええ、その新畑さんは、洋子さん達のお父さんに昔お世話になっていたとおっしゃってましたけど、神谷さんとは、どういう――」


「命の恩人なんです」


 これはまた――大仰な。

「十年以上前になるんですけど、僕、この海で溺れそうになったことがあって――大城さんは、そんな僕を助けてくれたんです」

「それで命の恩人、ですか」

「ええ。でも、そのせいで大城さんは、逆に離岸流に足を取られちゃって……僕なんかを助けたばっかりに……」

 その段になって初めて、苦しそうに顔を歪める神谷巡査。

 喜代婆からは『海で溺れた』とだけ聞かされてましたが、まさかそんな事情があったなんて。しかも、その時助けられた少年が、今同じ職場で働いているだなんて……。

「僕は、本当はあの時に、この海で死んでいたかもしれないんです。僕は――僕という人間は――この海で、大城さんに再び命を吹き込まれたんです。あの人には――一生かかっても、恩を返せそうにないですね……」

 三白眼に一抹の寂しさを漂わせながら、ポケットから何かを取り出し、それを目の前に掲げています。

「――それは?」

 見たところ、キーホルダーに見えますが。

「大城さんの形見です。助け出された時に、無意識に掴んでたみたいで――元々はペンダントだったらしいんですけど、その時にヒモが切れちゃったんで、キーホルダーにしました」

 ――僕の、宝物です。

 神谷巡査の声は、ひどく真っ直ぐに、真摯に響きました。

「なるほど。それはいいのですが……それは、何をモチーフにしたモノなんですか。見た限りでは粘土細工のようですが……」

 そして敢えて付け加えるならば、それはお世辞にもいい出来とは言い難くて。

「……何だと思います?」

 悪戯っぽく笑い、質問を質問で返してくる神谷巡査。目付きの悪い人間がそういう表情をすると、凄まれているようでひどく居心地が悪くなるのですが。

「――ヒトデ、ですか?」

 彼の目がギラリ、と光りました。

 次の瞬間、彼の繰り出した水平打ち(チヨツプ)が私の喉仏に炸裂(クリーンヒツト)して。

「――――ッッ!」

 久方ぶりに受けた身体的攻撃に、私は首を押さえて悶絶しました。呼吸はとまり、脈拍は増大し――本気で、血を吐くかと思った程で。

「ハズレです」

「――あ、あの、今の――何故――私は何故、今、現職警察官に暴行を受けたのですか――」

 息も絶え絶えで、それだけ言うのがやっとでした。せめてもの反論です。

「いやぁ、この質問に『ヒトデ』って答えた人は、もれなくチョップを喰らうという伝統があるんです」

「――そんな忌まわしき伝統は、今すぐに廃止するべきです――」

 本気で、死ぬかと思いました。

「これ、風車ですよ」

 まだ復活してない私の目の前に不細工なキーホルダーを掲げてくださっていますが、どう見てもヒトデか星にしか見えません。そうでなければ、エイリアンの卵でしょうか。

「――当時四歳だった、洋子さんが作って、父親にプレゼントした物らしいです」

 いくら四歳でも、壊滅的な造形センスです。

「――ほら、この部分はひろみさんの手作りらしいんですけど、ロケットになってるんですよ」

 そう言って、パチンと開く神谷巡査。

 中に収められているのは、幼い女の子の写真。

「これ――洋子さん、ですか?」

「ね、面影ありますよね」

 目や口が大きい、どちらかと言えば派手な顔立ちは、確かに洋子嬢そのものでした。

「大城さん、常にこれをポケットに入れて、仕事していたらしいんです。海人君が生まれたばかりだったので、写真は洋子さんだけなんですけど――とにかく、本当に家族のことを一番に考えている人だったみたいです。傍目から見ても、絵に描いたような『幸せな家族』で――

 ――僕は、そんな一家から、父親を奪って――

 ひどく悩みましたよ、最初は。何で僕なんか、助けたんだろうって。僕には、そんな価値なんてないのにって……。だけど、新畑さんに励まされて――考えを、変えたんです。せっかく助けられた、せっかく与えられた命なんだから、精一杯に生きないと、助けてくれた大城さんに申し訳ないって。――今度は僕が、誰かを救う側になるんだって」

 そう語る彼の目は、驚くほど澄んでいて。

「だから、僕も大城さんと同じ仕事を選んだんです。新畑さんに勧められた、ってのも大きいんですけど。大城さんの分まで働いて、大城さんの分まで人を幸せにして――それが、恩返しになると思ったから」

「素晴らしいと思います」

 素直に、そう思いました。私自身を含め、ここ最近はネガティブな考えにばかり触れていたせいで、余計に彼が眩しく見えたのかもしれません。

「本当は、洋子さんや海人君、それにひろみさんのことも幸せにしたいんですけど――さすがにそれはやり過ぎかなと思って、今は一定の距離から見守ることにしています。あの家族に何かあったら真っ先に駆けつけて、できる限りのことをする――つもりだったんですけど――」

「――今回のことが、起きてしまった――と」

「そうです。だから本当に悔しくて。守るとか幸せにするとか、偉そうなこと言っておいて、洋子さんのピンチに何一つ気が付かずにいたんですから……」

 これでようやく合点がいきました。昨日の一連の神谷巡査の態度は、明らかに尋常ではありませんでした。彼は、本気で洋子嬢を守りたかったのでしょう。恋愛感情とか下心などではなく、純粋な『恩返し』として。だからこそ、私から彼女の危機を知らされて――実際に彼女の危機を目の当たりにして――狼狽したのです。

「でも、貴方は洋子さんを救ったじゃないですか。それこそ、命の恩人ですよ」

「あれは大和さんの手柄ですよ。僕はたまたまあの場に通りかかっただけで――」

「たまたま、ですか?」

 気になっていたことを、口にしました。

「あの時、タイミングよく学校にいたのも、たまたまですか?」

「――分かりました。白状します」

 私の追及に耐えられないと判断したのか、神谷巡査は軽く天を仰ぎました。

「こういうこと言うと引かれそうで怖いんですけど……仕事が比較的ヒマな時を狙って、洋子さんや海人君の様子を見に行くことが、たまにあるんです。ほら、最近何かと物騒だし……。もちろん、いくら警察官とは言え、理由もなく学校の敷地内に入ったりはしませんけどね」

 動機は大変素晴らしいと思うのですが、やっていることは不審者と大差ありません。制服を着ている限り、不審に思われることはないのでしょうが、私服だったなら通報間違いなしでしょう。

 それにしても――洋子嬢や海人少年は、よく神谷巡査に見咎められることなく、柵の破壊や学校への侵入などの『工作』を行えたものです。それは彼女たちの運がいいからなのか、或いは神谷巡査の間が悪いからなのか――。

「正直言うと、大和さんのこと、少しだけ警戒していました」

「……後を、つけていた訳ですね? 学校にいたのも、大城家に現れたのも、私を警戒(マーク)していたからこそだった――と」

「……すみません」

「いえいえ、仕方ありませんよ。こんな生活をしていると、不審者扱いされるのにも慣れてきますしね」

 できれば慣れたくない感性です。


「――時に、そのことは、大城家の皆さんはご存じなのですか?」

「え?」

「貴方が、大城家を守ろうとしていること、です」

「いや――そんな、言える訳ありませんよ。僕は、あの人たちから父親を奪った、言わば疫病神みたいなものなんですよ? ひろみさんには、あの後すぐに謝って、許してもらうことができて、今は、町で会えば挨拶するぐらいの関係ですけど――洋子さんや海人君は、僕という存在がいること自体、知らないと思います」 

「知らせてあげた方がいいですね。少なくとも、洋子さんには」

 出しゃばりすぎかとも思いましたが、言わずにはいられませんでした。

「え、何でですか?」

「彼女は今、ひどい孤独を抱えています。校内に信頼できる人間がおらず、家族や『風車』の皆には心配をかけたくない――彼女は、自分が一人だと感じている。心を打ち明けて相談できる人間さえいたなら、今回のようなことは起こらなかった筈です。彼女に今一番必要なのは、自分を想い、自分を守ってくれる人間がいると――強く認識し、安心することです。

 そして貴方は、彼女のことを守りたいと思っている。だけど悲しいかな、思っているだけでは気持ちは伝わりません。分かるように、行動しなければいけないんです」

「でも――いきなり僕みたいな人間が現れて、『君を守りたいんだ』なんて言ったって、気味悪がられるだけだと思うんですけど……」

「そんなことはないでしょう。貴方は彼女の命の恩人ではないですか」

 やや茶化した口調で、そんなことを言います。

「……ですから、何度も言っている通り、あれはただの偶然で……」

「大城さんが貴方を助けたのは、偶然ではないのですか?」

「…………」

「貴方がどう捉えようと、少なくとも洋子さんや海人君、ひろみさんの方は、貴方を命の恩人だと思っているみたいですけど?」

「そんなこと言ったって……」

「ストレートにそのまま伝えなくてもいいんですよ。ただ、近くにいてあげるだけで、彼女の支えになってあげるだけでいいんです。

特に、彼女は今、これ以上ないほどに弱っています。絶望している、と言ってもいい。彼女は、所謂『味方』となってくれる存在を渇望しています。実際には、彼女にはひろみさんという母親がいて、海人君がいて、椎名夫婦がいて、香織さんがいて、既に多くの人間に囲まれ、愛されている訳ですが――ただ、『愛されている』『守られている』という実感だけが、足りない。

 貴方が、彼女を救うんです。

 本気で大城氏の代わりになりたいと思うのならば、今こそがその好機(チヤンス)なのですよ」

 些か、興奮しすぎたかもしれません。しかし、私の言葉に嘘はありません。私は本気で、この目付きの悪い若い警官こそが、彼女の救世主になり得るのだと、信じているのです。

「――僕が――」

 私の説得が通じたのかどうか、彼はその鋭い双眸を地面に落として、

「僕が――あの子を――救う――」

 掠れた声で呟く彼の声は、吹きすさぶ風の中でも、妙にはっきりと聞こえたのでした。

 


 彼が去った後も、私は海を眺め続けておりました。

 昨日も今日も、私は喋りすぎです。本来、こんなに饒舌な人間(キヤラクタア)ではない筈なのに、どうしたことでしょう。柄にもなく興奮して、柄にもなく人を想い、柄にもなく説得までして。でもこれで、洋子嬢が孤独から、絶望から救われるのなら、こんなに素晴らしいことはありません。神谷巡査には、今は亡き父親の代わりに、彼女を守ってもらいたいのです。

 洋子嬢と海人少年の父親であり、ひろみ夫人の夫であり、新畑巡査の先輩であり、椎名夫婦の友人であり、そして神谷巡査の恩人であった、大城貴文。誰にでも優しく、頼られていて、真っ直ぐな性格で正義感に溢れていた、若き警察官。


 彼は今――どこにいるのでしょう。


 勿論、彼はすでにこの世の人間ではありません。十年以上前に、神谷少年の命を救ったのと引き替えに亡くなった――それは、揺るぎのない事実です。


 ですが――彼の想いは、今もこの地に根付いていて。


 昨日、騒動が一段落した後に、私は初めて彼の顔を知りました。大城家の居間の奥が和室になっていて、そこに彼の位牌が置かれていたからです。そして、自分の推測が正しかったのだと、確認したのです。

 この三日間、海人少年の、そして洋子嬢の危機の際、突風と共に私の目の前に現れた軽装の青年――それが、彼でした。

 成り行きなのか巡り合わせなのか――峠、自転車、ストーブ――私は、その全ての現場に居合わせた訳ですが、よく考えてみれば、そこには必ず彼の導きがあったのです。

 初日、私は自分の帽子が風で飛ばされたことによって、そしてその飛ばされた方向に件の峠があったことで、少年との邂逅を果たしました。

 翌日には風と共に現れた彼の指差す方向を見て、少年の倒れた場所にいち早く駆け付けることができました。のみならず、少年は突風の力によって、坂の途中でうまく転倒することができた訳で――それはまぎれもなく、彼の力による訳で。

 昨日のことは今さら説明するまでもありません。彼は突風で隣家の瓦を飛ばし、娘の窮地を救いました。ご丁寧に、瓦が直撃しないよう、ビニール袋を使って私を安全な位置まで誘導してくれて。

 家族でも知人でもない、何の縁もゆかりもない、完全な通りすがりの私が選ばれたのには、何か意味があったのでしょうか。私が、俗に言うところの『霊感』という奴を持ち合わせていた、という単純な理由なのかもしれませんが。


 いずれにせよ、私は少し――ほんの少しだけ、安心しました。


 大城洋子は、絶望していました。クラスで陰湿なイジメを受ける一方で、そのことを誰にも打ち明けることができず――優しく責任感が強いばかりに、その考えはひどく独りよがりな、歪で愚かな方向へと進んでいき――自殺、などという選択に辿り着いてしまいました。その絶望は弟にまで感染し、姉を救いたいと強く願う一方で、彼も彼女と同様、そのことを周囲の大人に相談できないでいました。肝心の母親は二人を養うために働くので必死で、彼女らが追い詰められているのに最後の最後まで気付いてやることができませんでした。誰もが善人で悪意がなく――過剰で、見当違いだとしても――皆家族を想い、気遣っているだけに、救いがない。


 ――でも、少なくとも、彼女たちは常に見守られている。


 否、『見守る』などという表現では足りないくらい、その意思は強く、実際に私という完全な第三者の力を借りてではあるものの、家族の窮地を救っている訳で。風という形で現れる彼の力が、どれだけの期間続くのかは、私には分かりません。本当に危機に陥った時にしか出てこられないのかもしれないし、それも未来永劫続くものではないのかもしれない。

 そもそも、諸悪の根源であるイジメ自体がなくなった訳ではないし、全てが明るみに出てしまった以上、もう以前のような家族関係を築くことは困難でしょう。ひろみ夫人の精神的打撃が如何ほどかなんて、私には想像することもできません。洋子嬢の愚かな計画を頓挫させたところで、何も解決はしていないのです。

 ――それでも。

 彼女は生きている。

 かつての彼女は自分に降りかかる苦痛や困難を自分一人で背負い込み、自分一人でどうにしかしようとしていました。それが一番正しいことだと、疑いもしないで。ひどく、馬鹿げた話です。一人で生きている人間なんて、どこにもいないのに。彼女には母親がいて、弟がいて、家族同然に想ってくれる椎名家の人々がいて――そして、この地で家族を守り続ける、父親がいて。

 大城貴文は、常に風と共に登場していました。

 だけれど、彼女を守る風は、いつだって吹いていたのです。

 皆、彼女を守るためなら、どんな犠牲も厭わないでしょう。

 それなのに――彼女は気が付かない。自分がどれだけ愛され、どれだけ幸福な人間なのかを、気付こうとしない。家族を残して逝ってしまった父親の存在にも、当然気が付いていないのでしょう。

 恩返しのために、贖罪のために、大城貴文の意思を継ぐと宣言した神谷巡査――彼は、彼女に存在を認識してもらわなければなりません。そうでなければ、意味がないのです。自分を想い、自分を支えてくれる人間がいると認識して初めて、彼女は救われるのですから。 

 縁もゆかりも関係も関連もない通りすがりの私が無責任に出しゃばって、徒に詮索して推測して掻き乱して、結局のところ自分では何一つ根本的に解決しないでこの場を去るのは心苦しかったのですが、そこに光があるのなら……。

 私は海に背を向け、歩き始めました。

 いつの間にか、海は凪いでいました。

 私の心も、いつかこの海と同じように、平穏を取り戻しすことができるのでしょうか……。



「私……何をしていたんでしょうか……」

 これは私の台詞ではありません。

 風車で昼食を摂っていた私の横、盛り蕎麦と親子丼、カレーライスを運び終えた、香織嬢が漏らした言葉です。

「この一ヶ月近く、毎日のように顔を合わせていたのに、洋子ちゃんがそんなことになってたなんて、全然知らなくて――いや、知ろうともしなくて――何か私、自分で自分が情けないです」

 顔を俯け、沈痛な面持ちで吐露する彼女。力を込めているせいか、お盆を持つ手が白くなっています。全く……何故こうも皆、真面目で責任感が強いのでしょう。私ほどではないとは言え、彼女も冬期休暇の間だけこの地にいる人間、言ってみれば部外者である筈なのに。

「――もう、いいのではないですか。終わったことです。後は、彼女たちの問題ですから。これ以上――首を突っ込むべきではない、のではないでしょうか」

 刻み海苔の絡みついた蕎麦をつゆにつけながら、私は無責任ともとれる発言をします。

「そうは言っても……いや、確かにそうなんですけど……」

 香織嬢、お盆をテーブルに置き、力なく隣の席に腰掛けます。今は暇な時間帯なので大丈夫ですが、バイト店員がこんな風なのを見たら、喜代婆は何と言うでしょうか。……否、その喜代婆にしても孫と同様の衝撃を受けたらしく、今日はひどく意気消沈しているのですが。

「……でも、やっぱりおかしいですよね……。自殺だとみんなが悲しがるから、事故に見せかけて死のう、なんて……そんなの、どっちだって、変わらないのに……」

「…………」

 蒼白な表情で独りごちる香織嬢。目が虚ろです。

「……身勝手すぎますよ。残された人間のことを、何も考えていない……。自殺だろうが事故だろうが、他殺だろうが病気だろうが――死ぬってことには――いなくなるってことには――変わりがないのに」

 そう言う彼女の声は、『親しい少女が自殺未遂を起こした』だけにしてはひどく重く、湿っていて。悔やむように、憤るように、声を絞り出しながら、ひたすら洋子嬢の行動を否定し続けます。

「なんで――何で、分からないのかな――。生きているってことは、生まれてきたってことは、つまり皆に必要とされているってことで――そりゃ、生きてれば辛いこともあるだろうけど――多分、辛いことの方が多いんだろうけど――でも、だから死を選ぶなんて――おかしいじゃないですか――」

 たん――と、香織嬢の握りしめた拳が、力なくテーブルを叩きます。見れば、先程まで蒼白だった顔が、いつの間にかひどく紅潮していて。

「辛いから死ぬ、悲しいから死ぬ、怖いから死ぬって――訳分かんない。何で、何で『生きるか、死ぬか』っていう、デジタルな二者択一しかできないのかな。追い詰められて視野が狭くなるのは分かるけど――だったら、そうなる前に周りの人間に一言相談してくれればいいのに――」

「皆が皆、香織さんのように強い人間ではないんですよ」

「強い――私が強い? 強くないですよ、私なんて! 知りもしないくせに、適当なことを言わないでください!」

 おっと、いらぬことを言って彼女の逆鱗に触れてしまったようです。確かに、私の発言も大概に適当でしたが。

「私――私だって、死にたいと思ったことは何度もあります! でも――だけど、その度に家族とか友達とか、大事な人のことを思って思い止まるんです。普通、そうじゃないですか!? いや、普通がどうとかじゃなくて、そうじゃなきゃいけないんです! 残された人間のこと考えたら、その人の残りの人生を考えたら、どれだけ絶望したって、死のうなんて考えられませんよ。それなのに……何で、私の周りにいる()たちは、揃いも揃って……」

 興奮の頂点(ピイク)が過ぎたのか、声が尻つぼみ(デクレツシェンド)に小さくなっていって、後半の言葉はよく聞き取れませんでした。急に言葉に詰まって――と、香織嬢の顔を見て、驚きました。

 彼女は、泣いていたのです。

「まだ高校生なのに……高校生なんて、まだ、子供なのに……それで人生に絶望して、それで終わりにするなんて――何もかもが、まだ、これからなのに……」

 嗚咽混じりに、彼女は語ります。片手で顔を覆ってはいますが、その間から涙が漏れ、手を、顎を伝って流れ落ちていきます。私は黙って見ているしかできませんでした。


「――その言葉、洋子に言ってやりゃァ、いいんじゃねェか?」


 突然の言葉に飛び上がりました。

 いつの間に現れたのか、調理服姿の主人が立っています。いつも通りの飄々とした風貌で、何故か手には野菜炒めが盛られた大皿を抱えられていて。

「――おじいちゃん……」

 吃驚すると同時に、私は安堵していました。あまりに存在感がないが故、私にしか見えてない――つまりは、大城貴文と同じような存在ではないかと、少しばかり疑っていたものですから……。

「ここで、おにーちゃん相手に泣いてたって仕方ないら。洋子に会って、面と向かってガツンと叱ってやらんと」

 ニコニコと微笑みながら、私の前に大皿を置く主人。

「あの、私は野菜炒めなど注文していませんが……」

「いいって。最後だからサービスだヨ。アンタ、炭水化物ばっかだしさ、もっと野菜も食わんと」

「……お気遣い、ありがとうございます……」

「――で、でも、あの娘、今凄い落ちこんで弱ってるんだよ? そんな時にあまり厳しいこと言うのも……」

 私と主人の会話に割り込む香織嬢。涙で顔がクシャクシャです。

「『優しくする』ってのは、『甘やかす』ってことじゃねーんじゃねーかナ。腫れ物扱うように接したり、適当な言葉で励ましたりするのなんざ、かえって逆効果だヨ」

「……でも、自殺しそうな人に『自殺なんてやめろ』って説教するのは逆効果だって、本に書いてあったよ?」

「そりゃ、おためごかしの説教じゃ意味ねェだろうけどサ、お前さんの――本物の言葉だったら、心に響くんじゃねェかナ。今の香織の言葉は、本物だったと思うんだけどナー」

 彼はあくまで飄々と、淡々と言葉を紡いでいるのに、何故かそれは、シンとした店内に不思議と響き渡って。

「本物の、言葉……?」

「まあ、お前さんだって、休みが終われば埼玉に帰んなきゃいけねんだし、洋子とずっと一緒にいられる訳じゃない。だけどサ、香織にしか言えない言葉ってのは、あるよナ。……お前さんは、それだけの経験をしてきたんだから」

「…………」

 主人の言葉に、黙って頷く香織嬢。

 何なのでしょう。彼女の過去に、何があったのでしょうか。先程、彼女は感情を昂ぶらせ、涙ながらに洋子嬢の自殺未遂を糾弾していました。いつもは冷静な香織嬢だけに、唐突な態度に対して妙な不自然さを感じずにはいられなかったのですが――ひょっとしたら彼女、過去に似たような経験があったのかもしれません。十代の頃に親しい人間を、それも自殺という悲劇的な形で亡くしているのだとしたら、一連の態度にも納得がいきます。

 掛け替えのない、大切な人間がいる。

 その人物が苦しんでいたということ。

 限界まで、絶望していたということ。

 自殺という道を、選んだということ。

 その時、彼女の瞳は何を写し、何を思い、それを乗り越えたのでしょうか。――否、まだ乗り越えてさえいないのかもしれません。疼く(きず)をひた隠し――現在(いま)の彼女は、何を思っているのでしょう。この期に及んで――一体どんな絶望を、その胸に抱え込んでいると言うのでしょうか。主人や喜代婆は、その辺りの事情を把握しているのかもしれません。

 勿論、それを詮索する気など、今の私にはありません。私などが踏み込んでいい領域ではないからです。

「――少し、裏で休むか? そんな顔で接客なんてできんら。もうちょっとしたら、忙しくなるに」

「……ありがとう」

 主人の優しい言葉に、香織嬢は従います。

「何か、一人で騒いじゃって。すいませんでした……」

 こちらは何も気にしてないと言うのに、再度謝罪の言葉と共に頭を下げ、香織嬢は厨房に戻ろうとします。


「あと――今回のこと、本当にありがとうございました」


 去り際、一瞬立ち止まって、彼女はそう呟きます。

 何も――感謝されるようなことはしていないのですが。私は返す言葉も見つからず、黙って箸を動かすことしかできませんでした。サービスで出された野菜炒めは、他の料理より、ほんの少し味付けが濃い気がしました。



 さて――そろそろ、この地を離れる時が近付いてきたようです。もともと長居するつもりもなかった土地です。少ない荷物をまとめ、私は三日分の精算を民宿のロビーで行いました。案の定、食事代は相当な代金になっていましたが、幸いにも持ち合わせだけは潤沢にあります。あの島から逃げる時に、しばしの旅費にと屋敷から持ち出してきたものなのですが――少し、多く持ってきすぎたかもしれません。一家族が五年は何もしないで暮らせる額です。……まさか、あの人が金惜しさに追っ手をよこすとも思えませんが……。

「まァ、色々あったけど……気ィつけてね」

 フロントに立つ喜代婆は、やはり少し気落ちしているようにも見えましたが、それでも気丈に声をかけてくれます。香織嬢とは対照的に、昨日の件に全く触れてこないのも、私には有り難く感じられました。

「ええ。それじゃ、三日間お世話になりました」

「あんまり食べ過ぎて、腹ァ壊さんようにね」

 それは余計なお世話です。

 軽い会釈と共に、私は『風車』を後にします。何となく後ろを見れば、厨房からお玉を振って見送る主人――椎名一朗の姿。喜代婆から何かを言われて、それをいつものニコニコ顔で飄々と流しています。

 安堵しました。

 彼は私か椎名香織にしか見えない存在だと――否、これ以上はくどくなるのでやめておきましょうか。

 とにかく、私は新たな一歩に向けて歩き始めたのです。


 ――私は、これからどうするべきなのでしょう。

 何の当てもなく、何の目的もなく始めた旅でしたが、気が付けばずいぶんな距離を移動しています。このまま東へ、そして北へと向かうのもいいかもしれませんが……それも、果たしていつまで続くものか。

 旅は、いつしか終わるものです。

 ならば、いっそのこと街に落ち着いてしまうのも一興かもしれません。放浪の旅人を気取って、何者とも無関係で無関連であろうとしても、どうもそれは許されないらしく――。もう、何かに関わって、何かに巻きこまれて、誰かの人生に首を突っ込むなんて、まっぴらの筈だったのに――。

 その点、人で溢れる都会ならば、私の存在など、個性など、人格など――簡単に埋没してしまう。誰も私を気にしない、誰も私のことなど気にかけない、私が首を突っ込む隙間さえない程に密集した都会ならば――私の望んだ生活が得られるのかもしれません。

 取り留めのない考え、取り留めのない旅――取り留めのない私。

 ――私はこれから、どうするべきなのでしょう。


「おじさんっ!」

 どれだけ歩いたのでしょう。

 駅前の商店街に差し掛かったところで、声をかけられました。この地で私のことを『おじさん』呼ばわりする人間は、一人しかおりません。

「……海人君」

「探したよー。おじさん、何も言わないで行っちゃうんだもんなー」

「……ええと」

「んや、食堂行ったら、もう出ちゃったってお婆ちゃんに言われて。で、多分駅だろうと思って、急いで来たんだよー。よかった、電車乗る前で……」

「あの――」

「サヨナラくらい言わせてよーっ!」

 私の問い掛けを聞くまでもなく、息を切らせながら矢継ぎ早に言葉を吐き出す海人少年。回転が早いというのも困りものです。

「別れの言葉を言うために――そのために、わざわざ?」

「そうだよー。淋しいじゃん!」

 ううん。正直、こういうのは苦手なのですが……。

「おじさんはこれからどこ行くのっ?」

「そうですね……決定ではないのですが、とりあえず東京に向かってみようかと」

「あ、いいなー。いいな東京。僕はまだ行ったことないけど、人多いし、色々いっぱいあるし、いいよね東京」

 よく分からない感想を漏らす少年。そこまで良くはないと思いますが、東京。

 とは言え――思ったより元気そうで、やはり私は少しだけ安心したのでした。尤も、例え何かを抱えていたとしても、心配をかけまいと最大限の虚勢を張るという悪癖が、この姉弟にはあります。しかし、顔色よく、真っ直ぐな笑顔をこちらにむけて来る限り、本当に心配はなさそうです。今後のことはともかく、とりあえず問題が一段落して安心しているのでしょう。いい傾向です。

「洋子さんは、大丈夫そうですか?」

「うん、まだ病院だけど、すぐにでも退院できるみたい。今はお母さんがつきっきりになってる。つきっきりで――色んな話してる。家のこととか、学校のこととか」

「……そうですか」

「お母さん、ずっと泣いてたし、怒ってたけど……っていうか、あの、けっこうな勢いで怒られたけど――生まれて初めて親にぶたれたんだけど――でも、何か、よかったと思う。あの、うまく言葉にできないけど――何か、家族って感じがして」

 少し照れた様子で、少年はそう言います。幼くして苦労を知ってしまったがばかりに、過剰に責任感が強く、独り善がりになっていた姉弟。

 子供を養うのに精一杯で、子供の問題に気付けないでいた母親。

 それが間違ってるとは言えないし、きっと正解なんてないのでしょう。ただ、一つ言えるのは――この家族は、もう大丈夫だということ。無責任な楽観視をするつもりはありませんが、お互いに寄り添って、お互いを思いやっている限り、大城家の未来は明るい。私には、そう思えるのです。

 それに、彼らは決して――孤独ではない。

 恩に報いるため、情熱を燃やす若き警官がいる。

 過去を引き摺りながらも、人を思い遣る女子大生がいる。

 素っ気ないように見えて、誰より彼らを心配する老婦人がいる。

 飄々としながら、全てを温かく受け止める老人がいる。

 これだけの人間に囲まれ、想われ、愛されている家族が、どうして不幸などと言えるでしょう。確かに不運ではあるのでしょうが――私には、とても幸福に思えてならないのです。

 それに――今もどこかで、彼らの父親は家族を守っているのでしょうし。

 私などが立ち入る隙など、どこにもありません。


「――まだちゃんと、お礼言ってなかったよね」

 それなのに、照れたついでか、少年は意外な言葉を口にします。

「私なんて……お礼を言われるようなことは何もしていませんよ。ただ、頼まれてもいないのに勝手に出しゃばって、首を突っ込んで……まあ、どちらかと言えば巻きこまれた感も否めませんが。いずれにせよ私は――」

「何言ってンだよーっ。おじさんがいなきゃ、お姉ちゃん死んでたじゃん! 僕だって……自分で気をつけてはいたけど、崖とか自転車とかで死んでたかもしれないしっ!」

「私は何もしていません。洋子さんを救ったのは神谷巡査です。私は――何も、していないのですよ」

 それに、これは大城家の問題です。本来部外者である私が、どうこうしていい筈はなく。

 ――そう。

 あの島で。

 あまりの死者を。

 あまりの生者を。

 弄んで弄くって操って小馬鹿にしていた私のような人間が――偉そうに口を出していい筈はなく。

「私は何も――」


「お姉ちゃんが――」


 自嘲し自重し自戒する私に、少年の真っ直ぐな瞳が向けられます。

「おじさんに、ありがとう、って――」

「…………」

「目が覚めてから、全部話したんだ、僕――もう、ここまで来たら全部話さなきゃダメだと思って、おじさんに言われたことも、昨日何があったのかも全部話した。そしたら――お姉ちゃん、すごく戸惑ってたけど――お礼、言ってって……。あのお巡りさんもそうだけど――お姉ちゃんが助かったのも、今みんなが無事にいられるのも、やっぱりおじさんがいてくれたからだし」

 そんな。

 私には――私のような咎人(とがびと)には、そんなこと言われる資格なんてないのに。

「もちろん、お姉ちゃんがどーのこーのじゃなくて、僕もお礼言いたいって思ってたしっ!」

「…………」

「本当に、ありがとうございましたっ!」

 少年から放たれる真っ直ぐな想いに、私は何と答えればいいか分かりませんでした。


 繰り返し繰り返し、別れと感謝の言葉を口にする少年に別れを告げ、私は駅を目指します。その道すがら、また取り留めのない考えが頭をもたげますが、むりやりそれを振り払い、私はただ遮二無二、駅を目指しました。

 例えそれがプラスにせよマイナスにせよ、与えるのが希望にせよ絶望にせよ――私は人と関わるべきではない。その考えは揺らぎません。

 私には人は救えない。

 私には人を救う資格がない。

 私は人と関わってはいけない。

 あの島で、あの屋敷で、あの人の下で――私は、ただ一つそのことだけを学んだというのに。

 それなのに、私は――


改札に切符を通した私は、案内板に従ってホームに身をすべらせます。JR東海・浜松行きのホームは冷たい潮風を遮るものが何もない程に小さく、私は設置された時刻表を見ながら、電車が来るのを待っていました。幸い、電車はすぐに来るようです。

 ――と、唐突に、風が止みました。

 不思議に思って前方を見ると――向かいのホームに、彼が立っていました。

 十一年前の夏、海で子供を助けるために飛び込んだのと同じ服装のまま、彼は人一人いないホームに立ち、こちらを見ていたのです。


 そして、こちらに向けて頭を下げたのです。


 ――が、その一瞬後に来た下り列車によって、彼の姿はかき消えてしまいました。数人の利用客が出入りした後で、列車はホームを去っていきます。

 すでに、彼の姿はそこにありませんでした。



 私は、彼らを救うことができたのでしょうか。

 私のしたことは、最善で最良だったのでしょうか。

 車窓を流れる田舎町を眺めながら、私は思います。

 否――どれだけ彼らが謝辞の言葉を述べようが、彼が感謝の意を示そうが――結局、私はただの通りすがりにしかすぎません。どこまでも無関係で無関連の人間です。卑屈に構えている訳ではなく、純然たる事実として、そう思います。

 洋子嬢を、海人少年を、ひろみ夫人を救うのは、私ではありません。私であってはいけないのです。

 神谷少年は、大城氏に命を救われました。その後は大城氏の後輩である新畑巡査の励ましを受け、今では立派な警察官として成長しています。

 香織嬢は――これはあくまで私の想像ですが――親しい人間の自殺によって、深く大きい疵を負いました。しかし祖父母の優しさにより、今では何とか立ち直っているように見えます。

 神谷巡査と香織嬢、似た境遇を持つ二人は今、同じく似た境遇に晒されている家族を救おうとしてます。不器用ながらも、精一杯に手を差し伸べようとしているのです。

 そして、これも私の憶測なのですが、若い二人を助けた新畑巡査や椎名夫婦もまた、かつては大城氏に助けられ、救われた経験があったのではないでしょうか。


 憎しみ、悲しみは、連鎖し、伝播し、感染していきます。

 だけどそれと同様に――人を想うという気持ち、人を救おうという気持ちも連鎖するのであって――それは多分、『愛』なんて言葉で収束されてしまう感情なのでしょうけど――かつて救われた人々は、その想いを消化し、昇華して、有向線分(ベクトル)だけはそのままに、大切な人間を救おうとしているのです。人を想う気持ちは人を繋ぎ、いつしか光り輝く大きな輪となる。それは何と素晴らしい光景なのでしょうか。

 残念ながら、私がそこに加わることはありません。

 全ての因縁を断ち切るため、旅に出たのです。それは当然の報いと言えるでしょう。

 ただ。

 希望と絶望、生と死、自殺、他殺、事故死――そういうものに関わる時――

 私は、決まってあの風を思い出すのです。

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