第四章 弐(過去)
ひんやりとした感触で、目が覚めた。
「……ん……」
「ヘヘ、起きちゃった?」
薄く目を開けると、そこにはコーラの缶をこちらの頬に押し当てたまま笑っている、妻・ひろみの姿。
「そりゃ起きるよ……。疲れてんだから、少しは休ませてよ……」
「だってー、あんまり静かだから、死んでるのかと思ったんだもん」
「……笑いながら、怖いことを言うなよ」
優しい風が頬を撫でる。
今日は非番を利用して、家族で近所の海岸に遊びに来たのだ。海岸と言っても、遠浅の離岸流による水難事故が後を絶たないという理由で、この辺りは遊泳禁止となっている。場所にもよるだろうが、日中の遠州灘など、閑散としたものだ。もっとも、そのおかげでプライベートビーチのように振る舞うことができている訳だが。
「……静かだな……」
「ね。海なんていつも見てるけど、こうして砂浜にまで来ることなんて、あんまりないもんね」
「そういや、海人を連れてくるの、初めてだったか?」
「多分ね。こんな名前つけておいて、今まで海に来たことがなかったなんて、変な話だけど」
当の本人は、ひろみの腕の中でスヤスヤと寝入っている。さっきまでは、何が嬉しいのか「だァ、だァ」と笑っていたと言うのに。子供は自由でいい。
「……俺の洋子はどうした?」
「『俺の』って何よ。いつから洋子はパパだけのものになったの? 私とパパの、洋子でしょ。勝手に独り占めしないで頂戴」
いつもの遣り取りだ。自分でも娘のことを構い過ぎだと言う自覚はあるが――話を聞かされている後輩はいつも苦い顔をしている――ひろみはそのことより、娘を独り占めされることが不満のようだ。結局は、親バカの似た者夫婦ということなのだが。
ちなみに、洋子が生まれた時、男を想定した名前しか考えてなくて慌てた話は、ひろみには内緒である。
洋子の『洋』は、海人のそれと同じで、『海』を意味している。海のような広い心を持ち、海のような広く深く愛される人間になってもらいたい――そういう願いが込められている。その願いは本物なのだから、命名の経緯など、別にどうでもいいだろう――そう言い聞かせて、自分を納得させている。
「――分かった分かった。洋子は二人のモノな? それで? 洋子は?」
「あっちでお砂遊びしてる。今、幼稚園ではブームになってるそうよ」
「……それはブームになるようなものなのか? いつの時代でもやってることだろ……」
妻の言葉に呆れながら、娘の姿を探す。あまり波打ち際にいると危ないとは思っていたのだけど、幸いにも洋子がいたのは海岸から十メートル以上離れた場所で、そこで何やら熱心に造形している。
「……何を作ってるんだ、あれ」
「シンデレラ城だって」
東京ディズニーランドが開園したのは、去年の出来事になるのだろうか。連日の報道のせいで、ずいぶんと前のことのようにも思えるけど。……それより、
「へえ。俺はてっきり、新種のエイリアンでも生み出しているのかと思った」
「……それ、絶対に本人には言わないでね」
風一つない、平和な昼下がりだった。
――幸せ、なんだろうな……。
ふと、そんなことを思う。
子供の頃は、ずっと正義のヒーローになることを夢見ていた。中学に入る頃には、その夢は市民を守る警察官へとスライドしていて――結局、高校を卒業した後、その夢は叶えられることになる。
次の夢は、平和で幸せな家庭を築くことだった。
自分の父親は真面目な職人だったけど、酒飲みで、酔っぱらって母や自分に暴力を働くことも少なくなかった。もちろん、ここまで育ててくれたことには感謝しているけど――正直、あまり居心地のいい場所ではなかった。自分は、自分こそは、平和で幸福で、皆がいつも笑っていられるような家庭を築くんだ――そう想って、そう願って、今まで頑張ってきた。
結果として、今、自分の横にはひろみがいる。洋子がいて、海人がいる。
洋子は明るく、優しい子だ。少し繊細すぎる部分もあるが、人の痛みを理解できる子だ。海人の世話も進んでやっている。ひろみに似て、素直でまっすぐで、皆に愛される子に育つんだろう。
海人は、まだ六ヶ月だから何とも言えないけど――親の贔屓目を抜きにしても、かなり優秀な子になるのではないかと、睨んでいる。もう捕まり歩きを始めているし、こちらの言葉を理解して反応している素振りもある。それに比べて、体の発育は若干遅れているような気もするが……まあ、そんなに気にすることでもないだろう。優しく、強く、人を支え、人を救ってあげられる子になってほしい。
「パパぁー」
向こうで、洋子が手を振っている。
「お、どうしたようこー。お城できたのかー?」
数瞬前まで真面目なことを考えていたというのに、娘に呼びかけられた途端に腑抜けてしまう。
「じゃじゃん! ようこーらんどの、しんでれらじょう完成です!」
派手なアクションと共に発表してくれたのはいいけど、残念ながら、どこをどう切り取っても、シンデレラ城には見えない。と言うか、四歳児にシンデレラ城はハードル高すぎだろう。
「うーん……シンデレラ城と言うよりは、『死んじまったジョー』だな、これは」
「わーい、ありやとーっ!」
誉めてない誉めてない。仰天するほどポジティブだな。我が娘ながらアッパレだ。……と言うか、さすがにネタが古すぎたか。四歳児に『明日のジョー』が通じる訳がない。
「ねーねー、こんどはパパもいっしょにやろー?」
「お、いいな。何、作ろうか?」
「えっとね、えっとね、あづちじょーっ!」
渋いな。まさかの安土城チョイスか。またしてもレベル高すぎだし。城のプラモデルが好きで、安土城も最近作り終えたばかりなのだけど――洋子もそれで覚えたのだろうけど――砂で作るのは、大人でも難しい。
「……安土城は、また今度にしよっか?」
「えー」
「それよりも、もっとカッコイイお城、作ってあげるから」
「ほんとーっ!? じゃあね、じゃあね、あれつくって!」
「ん?」
「なごやじょーっ!」
「……あくまでそこにこだわるのか」
いくら城プラモが趣味でも、天守閣のシャチホコ以外の違いがぱっと思いつかない。むしろ、シャチホコがあるだけ名古屋城の方が難易度は高い気がする。だけど、洋子の笑顔を見るとむげに断る訳にもいかなくて。
「分かった。パパ頑張るよ……」
苦笑し、砂をかき集め始めたのだった。
「……ねえ、ちょっと……」
砂山が城郭らしき形を作り始めたところで、海人を抱いたひろみに肩をつつかれる。
「ん?」
「あそこ……」
海の方を指さしている。そちらに視線を遣っても、大海原が広がっているだけだが――
「誰か、溺れてない?」
よくよく目を凝らすと、波の合間に人影が見える。小学生くらいだろうか。
――危ない。
気が付いた時には、走り出していた。