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第四章 壱(現在)

飄風(ひようふう)(ちよう)を終えず驟雨(しゆうう)は日を終えず


 ――私は、何をしているのでしょう。

 何度繰り返されたか分からない自問自答を冬の大気に霧散させ、私は一人、コートの襟を高くします。

 この地に来て三日目――放浪の身である筈なのに、どうしたことでしょう。目的がある訳でもなく、引き止める者がいる訳でもない。

 ただ気にかかるのは――あの姉弟。

 初日、工作された柵にもたれ掛かり、あわや崖下に落下しそうになっていた海人少年。その翌日には、またしても工作された自転車によって命の危機に晒されて――一度きりなら、偶然ということもあるでしょう。しかし、偶然が二度続けば、それは必然――である可能性が、高い。いずれにせよ、柵も自転車も何者かが手を加えたのは明白な訳で、二回連続で海人少年が危険な目に遭わされたのも――必ず、何らかの意味がある筈で。

 ――だからと言って、私はここで何を……。


『静岡県立 黒花崗(くろみかげ)高校』


 宿から小一時間程歩いたところに、その学校はありました。閑静な住宅街のさらに端に位置する、見たところ何の変哲もない公立校――大城洋子の通う高校です。今朝方、喜代婆から聞いてここまで足を運んだのですが……来るのが早すぎたようです。登校する生徒の数もまばらで、私はただ(いたずら)にその生徒たちを遠目に眺めることぐらいしかできません。紺地に赤いラインの入ったセーラー服、そしてその上に学校指定のコートを羽織った女子高生たちと、それを眺める三十路間近の男一人――どこからどう見ても不審者です。そう見えないことを祈るばかりですが。

 始業まではまだだいぶ時間があるらしく、数少ない登校生徒も、皆どこかしらの運動部の朝練習に参加するらしく、ラケットや竹刀、弓らしきモノを入れた袋を提げて校門をくぐっていきます。それでも皆律儀に制服を着ているのは、そういう風に校則で決まっているからでしょうか。

「――あの」

 数人で列をなしながら、或いは自転車を操りながら、次々と生徒たちが校門に吸い込まれていきます。いつもは元気で賑やかな筈の生徒たちも、この寒空の下では皆一様に無口で――

「あの、ちょっと!」

 私に話しかけているのでしょうか。声の方を振り向くと、赤いセルフレームの眼鏡をかけた真面目そうな青年が立っています。この学校の教職員でしょうか。私を見る目に険が含まれているのは――やはり、私が不審者に見えるからでしょうか。

「……私が、何か?」

「あの、失礼ですが、この学校に何か御用でしょうか?」

 オドオドした態度とは裏腹に、その言葉はずいぶんと強くて。

「この学校に、大城洋子という生徒がいると思うのですが――」

「……あの、大城が、何か?」

「ご存じなのですか?」

「あの、ええ。大城は私のクラスの生徒ですから」

 まさかこのタイミングでクラスの担任と邂逅することになるとは。幸か不幸か運か不運か――我ながら、引きが強い、と言うところでしょうか。

「そうなんですか。それは都合がいい」

「あの……?」

「ああ、申し訳ない。ワタクシ、大城ソウイチと申しまして、洋子とは遠縁にあたります。先日から仕事の関係で彼女の祖母の宿に逗留しているのですが――どうも、最近洋子の態度がおかしいような気がしまして」

 スラスラと、息を吐くように嘘を吐けるようになってしまいました。今までは自分の境遇を呪ってばかりいたのですが――この十年間で培った能力(スキル)、どこでどう役立つか分かったものではありません。

「はぁ……大城の様子が、ですか……」

「どうでしょう先生――最近の、学校での洋子の様子は。何か友人関係のトラブルに巻きこまれているとか、男子生徒との間によからぬ噂が立っているとか――そうことは考えられないでしょうか?」


「――考えられませんね」


 一瞬、先生の目が光ったような気がしたのは、私の目の錯覚でしょうか。

「ほぅ。学校ではそういうことは――」

「絶対に、あり得ません。誰に何を吹き込まれた知りませんが、私のクラスでは、そういったことは絶対にあり得ません」

「絶対――ですか」

「絶対に、です。――他の生徒もいる場所でそういう人聞きの悪いことを言わないで頂きたい」

 強い口調で彼はそう断言します。

 そう――不自然なほどに、強い言葉で。

「しかし、洋子の様子がおかしいのも事実なんですよ」

 無駄と分かっていましたが、私はしつこく質問を重ねました。

「家の人間に聞いても、特に思い当たることもないと言う。だったら後は学校しか――」

「だからっ! ウチのクラスは関係がないと言っているでしょう!? いい加減にしないと、警察を呼びますよ!?」

 露骨に気色ばみ、こちらを脅すような台詞を口にする担任教師。話を引き出しやすいので、感情的になるのは歓迎なのですが――脅し文句とした引き出された『警察』という単語、これは頂けません。

 何せ、こちらは偽名をこしらえ、氏素性を隠して放浪しているような人間です。警察などという巨大で強力な組織に関わろうものなら、どんな目に遭うか分かったものではありません。

 彼が口にしたのはあくまで脅し文句であり、彼が本気で警察を呼ぶつもりでないことは明白でしたが、事が事だけに、慎重な行動が求められます。この辺りが引き際というものでしょう。私が適当な言葉でその場を辞去しようとした、まさにその時、


「警察を呼ぶ必要はありませんよ」


 第三の人物が現れました。

「警察は、ここにいますからね」

 善良な一般市民に無言の圧力をかける紺の制服を身に纏い、腰に警棒と拳銃を携えたその人物は、私が一番忌避していた、いわゆる『警察官』という奴に相違なくて。

 本当に、引きが強いと言うか、悪運が強いと言うか。

「……交番で、話を聞かせてもらおうか」

 私に向き合った途端に口調が変わった彼、凶悪な目つきをしております。眼光が鋭いのではなく、単純に、目つきが悪いのです。元々そういう顔なのでしょう。ずいぶんと若そうなのに、威圧感だけは充分で、警官としてはそれで正解なのかもしれませんが――胸ポケットから覗く、ヒトデの形をした不細工なキーホルダーが色々と台無しにしているような気がします。大きなお世話でしょうけど。



「――こんな言葉に何の説得力もないことは重々承知しているのですが――」

 しどろもどろにならないように気を付けながら、私は言葉を紡ぎます。

「私、本当に怪しい者ではないのですよ」

「うん、それは今から我々がゆっくり判断しますので、ちょっと待っていてください」

 冷たく一蹴されました。取り付く島がありません。


 有無を言わさず連行された、国道沿いの交番にて。そこには、目つきの悪い若い警官の他にもう一人、眼鏡をかけた理知的な顔立ちの警官が控えていました。年齢は三〇代半ばでしょうか。私の取り調べは、こちらの警官が担当することになったようです。とは言え、若い方の警官も、私の斜向かいに鎮座しているのですが。膝がつきそうな至近距離に警官が二名――将棋なら、とっくに詰んでいるところです。将棋じゃなくても、この状況は完全に『詰み』なのでしょうけど。

「――それで、貴方はあんな場所で、何をしていたんですか?」

 さて、どうしましょうか。

 ここで私は、一つの賭けに出ることに致しました。

「……実は私、数日前から『風車』という民宿に宿泊させて頂いているのですが――」

「ほう!」

 適当な嘘でこの場を乗り切ることは可能ですが、万が一それが露見した時のことを考えると、些か危険(リスキイ)な気がします。ここはある程度本当のことを話して、相手の信頼を得るのが賢明というものでしょう。

「あ……ああ、はいはいはい」

 と、真向かいに座る眼鏡の警官が、何かを思い出したかのように、さかんにコクコクと頷いています。

「あの、何か……」

「いや、『風車』のみんなとは、私も仲良くさせてもらってましてね、ちょっと前から変わった客が泊まっているって、椎名さんから聞いてたんですよ」

「変わった客、ですか」

 詳しい事情はよく分かりませんが、とにかくひどい言われようです。

「何でも、物凄い大食らいだとか」

「……成る程。ちょっと前から『風車』に宿泊している、大食らいの変わった客と言えば、確かに私しかいないでしょうね」

 私以外にそんな人間がいたとしたら、それは間違いなく私の二重歩行者(ドツペルゲンガア)でしょう。

「大和さん、って仰いましたっけ?」

「名前まで聞いてらっしゃるんですか」

「椎名さんからね。あの人、ちょっとでも暇になると、ここに遊びに来るから……。全く、交番は暇な老人の茶飲み場ではないと言うのに……」

 成る程。あの話し好きな喜代婆なら、いかにもありそうな話です。客もおらず、孫の香織嬢も相手にしてくれないような状況でも、誰かと話さずにはいられないのでしょう。

「あの、『風車』の――椎名家の皆さんとは、どういう……」

「ああ、あそこでバイトしている女子高生がいるでしょう」

「洋子さんのことですか」

「そうです。彼女の父親が、まあ……私の職場の先輩にあたりましてね。その先輩が、生前椎名家の皆さんと仲よくしていたんです。私も色々とお世話になっていて――まあ、その縁で、今も大城家、椎名家共に仲よくさせて頂いている訳なんですけどね」

 ――成る程。

 洋子嬢の父親は交番で働く警察官だったと喜代婆が話していたのを、今更ながらに思い出しました。大変に真っ直ぐで、仕事熱心な熱血漢であったと――当然のことながら、人望も厚かったのでしょう。目の前の、冷静で理知的な警官が彼を慕っていたとしても、おかしくありません。


「――それで、その大和さんは、洋子ちゃんの通う高校の前で、何をなさっていたんですか?」

 ――おや。

 おやおやおや。

『風車』の話題で、洋子嬢の話題で、今は亡きその父親の話題で、少しは打ち解け、相手の警戒を解くのに成功したと思っていたのですが――何だか、一周してふりだしに戻ってしまったようです。どうやらこの警官、思っていた以上に職務熱心と言うか――ドライな性格をしているようで。その横に座る若い警官に至っては、絶対に心を許すまじ、と言った心積もりなのか、先程から凶悪な目つきでこちらを()め付けていますし……。

 仕方ありません。やはり、事の次第を話さなければいけないようです。

「……あの、椎名さんから聞いていませんか」

「聞いていますよ。貴方がこの数日で、食堂のメニューを何周したのかを」

 あの人は町の警官に何を話しているのでしょうか。

「――いえ、そうではなくて――この二日ばかりの間に、洋子さんや、その弟の海人君の身に、何が起きたのか――」

 がたん。

 突然の物音に、私は(すく)み上がってしましました。今まで無言を貫いていた若い警官が、急に立ち上がったのです。何事でしょうか。ただでさえ凶悪な三白眼が僅かな光を帯び、今にも光線(ビーム)を発射しそうな勢いです。

「――何が、あったんだ……」

 彼、顔面蒼白です。今の話のどこが、彼の琴線に――否、逆鱗に触れてしまったのでしょうか。彼も眼鏡の警官と一緒で、椎名家と関わりがあるのでしょうか。彼の年齢から言って、いまひとつ接点が見いだせないのですが……。

「洋子さんや海人君に何があったって――あの二人に、大城さん()に何かあったって言うんだ? え!?」

「……いえ、今からそれをお話するんですけど……」

「そうですね。大和さん、話してください。そして神谷(かみや)は黙れ。そして座れ」

 神谷と呼ばれた若い警官、先輩に命じられて渋々席に着きます。

 

 そして、私は話しました。


 私がこの地に着いてから起きた出来事――その、全てを。

 もちろん、その過程において私が感じた違和感や疑問点などは、伏せておきました。話しても詮無いことですし、仮に私の推測が正しければ、その解決に警察を巻き込むのは、必ずしも正しい選択ではないような気がしたものですから。

「……そんなことが……」

 私の話を聞き、唇に指を当て、何かを思案している様子の眼鏡警官。一方、凶悪な目つきをした若い警官、改め神谷巡査は、三白眼を四角くし、蒼くなったり赤くなったりしながら、

「だ、誰が、誰がそんな馬鹿なことをしたんだっ!?」

 立ち上がり、一人で騒いでおります。

「神谷」

「そんな危険な――洋子さんや海人君の命を狙って、何の得があるんだよ!? 意味が分からない!」

「神谷」

「あんた――大和って言ったか――あんたは知ってるのか!? いや、知らなくても、ある程度の察しはついてんだろ!? だから洋子さんの学校まで行って、探偵みたいな真似してたんだろ!? なあ、どうなん――」

 神谷巡査が私に掴み掛かろうとしたその刹那、眼鏡警官の肘が神谷巡査の鳩尾(みぞおち)に直撃しました。言葉もなく悶絶し、その場にうずくまっています。

「……職場内で、あまり手荒な真似をさせるな」

 知性派のうらなりにしか見えないのに、以外にも武闘派だったようです。

「……でも……」

「いいから、取りあえず三分黙ってろ。その後で何か言いたいことがあったら、挙手しろ。この場に限っては、お前の発言権はないと思え。……じゃないと、話が進まない」

 冷たい声音でピシャリと言い放つ眼鏡警官。一切の容赦がありません。やっていることは、どつき漫才と大差ありませんが。

「――それで、貴方はどういう結論に達したのですか?」

 仕切り直したつもりなのでしょうが、質問の意味は神谷巡査のそれと変わりません。

「結論……ですか?」

「ええ。貴方は一連の出来事から洋子ちゃんの身が危ないと感じ、彼女が狙われていると考え、学校を訪れた。そこで運良く担任教師と出会い、質問攻勢に打って出た。……そういうことですよね?」

「確かに、そういうことなのですが……」

 隣で神谷巡査が脇腹を押さえながらこちらを睨み付けいますが、無視しました。

「それで、貴方は何か結論を得たのですか?」

「いえ……結局、何を分かりませんでした」

 

 ここに来て、私は初めて嘘を吐きました。


「やはり素人探偵では駄目ですね。これも何かの縁だと思って行動に出たのですが、結局は何も分かりませんでした」

「ほう」

「どうやら、洋子さんは無関係だったようです。やはりあれは悪質な悪戯だったのでしょう。崖のと自転車のとが同一犯人かどうかなんて、私には知る由もないことですが――少なくとも、私が危惧していたような事実は、一切なかったみたいですね」

「貴方は何を危惧していたのですか?」

「洋子さんの命を、誰かが狙っている――そう考えておりました」

「違う、と?」

「違いますね。少なくとも、私はそう感じました」

 結局、私は嘘を吐かざるを得なかったようです。こんな嘘、近いうちに露見してしまうに決まっているというのに……。


 しばらくして、私はようやく解放されました。拘束時間は恐らく一時間に満たな買ったのでしょうが、私にはそれが数十時間にも感じられました。全く、警官などと対面で話すものではありません。こんな経験は今回限りにして頂きたいものです。

 先輩に発言権を剥奪された神谷巡査は、結局、私が退出するまで発言のための挙手をすることもなく、ただ黙って、凶悪な視線で睨み続けていました。それは決して心地よいものではなかったのですが――それにしても、何故彼は、洋子嬢を話題に出しただけであんなにも取り乱したのでしょうか。彼女に想いを寄せているのかもしれません。勿論、それもこれも、私には関係のない話なのですが。


 交番を出た私は、その足で海を目指すことにしました。ほんの数十メートル先に海が見えているのですが、そこに辿り着くには車通りの多い国道を横切らねばなりません。結局、大きく迂回して信号のある横断歩道を利用しなければならないのですが――その間の時間を利用して、私は自分の考えを整理することにしました。

 この数日内に起きたこと。ことごとく危険な目に遭う海人少年と、それを知って不自然な程に狼狽する洋子嬢。意図せずに集められた様々な情報。学校での、担任教師の態度。

 やはり、あの姉弟は――否、大城洋子は、何らかのトラブルを抱えていると見てしかるべきなのでしょう。担任教師の態度で確信しました。あの不自然な程に強い口調、不自然な程の否定――何かを隠しているとしか思えません。

 そもそも――よく考えてみれば、この二件は一から十までおかしなことだらけなのです。交番で警官と話し、私はそのことを再認識致しました。

 確かに、結果だけ抜き出して見れば、崖下に落下しそうになったのも、国道に突っ込みそうになったのも、海人少年一人です。ですが――洋子嬢は、母親の影響で毎日峠の、あの柵から海を眺めるのを日課としていました。そして言うまでもなく、あの自転車は彼女の所持品です。柵と自転車――海人少年は不運にも両方の罠にはまり、幸運にも軽傷で済んだ訳ですが――元々、どちらも洋子嬢一人を狙ったものだったのではないでしょうか? そう考えれば、少しは辻褄が合います。

 とは言え、まだ納得のいかない部分はたくさんあります。あれもあれもあれも、考える程に不自然で――まだ、私の知らない真実が隠されていそうで。

 吹きすさぶ風に体温を奪われながらも、私の頭はさらに加熱していくのでした。



 そして――私はまた、海に来ていました。

 砂浜に腰掛け、静かに打ち寄せる波を、ただ静かに見つめて。

 こんなところには何もないと、分かっている筈なのに。

 ここに来ても、何も分からないと知っている筈なのに。

 考え事しても、無意味なことばかり巡ってしまう癖に。

 私は、またこうして。

 人と接するということ。人と関わるということ。人を傷つけるということ。人を死なせるということ。人を動かすということ。人を(とど)まらせるということ。悲しませるということ。突き落とすということ。救う。掬い上げる。笑う。嘲笑う。見守る。見透かす。見放す。見殺す。沈む。切る。動く。泣く。諦める。弄ぶ。

 私のしたこと。

 私がすること。

 彼の意志。

 彼女の意思。


 一体――何の因果が、そこにあるというのでしょう。


 何の因果があって、事に関わろうというのか。

 何の権利があって、真実を暴こうというのか。

 何の資格があって――人を裁こうというのか。

 流れ流れてここまで来て、私は今更ながらに――迷っているようです。私が。私のような人間が。何を偉そうに。何を――


「寒いネー」


 心臓が跳ね上がりました。今の今まで、たった一人で海を眺めていたと言うのに。この砂浜には私以外、誰もいなかった筈なのに……。

「クソ寒いのに、こんなとこで考え事かい?」

 私の隣には、柔和に笑う小柄な老人が座っています。いつの間に現れたのでしょう。顔中を皺だらけにして笑う様は、見るからに善良そうで、取りあえず私に危害を加える意思がないことは明らかなのですが……。

「あの、失礼ですが……」

「ん? ああ、俺かい? あれ、こうやって話すのは初めてだっけか?」

「初対面ではないのですか?」 

 これでも人に関する記憶力には些か自信があって、一度会った人間は決して忘れない筈なのですが。

「ん、ああ……初対面っちゃ、初対面になるのかナー。俺の方は、いつも厨房からアンタのことを見てるんだけど」

 全身から汗が噴き出しました。

「あ、あの、もしかして、『風車』の――ご主人様ですか!?」

「ハハ、『ご主人様』か。そんな偉そうなモンじゃねえって。確かに『風車』は俺の店だが、接客や銭勘定は全部喜代に任せてっからナー。俺ァ、ただの料理人だヨ。厨房には俺一人しかいないから、誰の主人でもねえしナ」

 何ということでしょう。 

 彼は、私が宿泊し、ここ数日の食事を賄ってくださっている『風車』のご主人(オオナア)だったのです。

 ――まさか、実在していただなんて。

 あまりに存在を明かさないものだから、すでに亡くなっているのだとばかり思っておりました。押しの強い喜代婆に比べて、存在感が薄すぎます。二日に渡る逗留において、気配すら感じさせなかったのですから、その存在自体を危ぶまれても仕方がないのではないでしょうか――などと、私は誰に聞いているのでしょう?

 とにかく、『風車』の主人こと椎名一朗(いちろう)――ただの料理人、などと謙遜してますが、それはつまり、あの大量の食事を(こしら)えている張本人ということであり――咄嗟に、私は頭を下げていました。

「申し訳ありません。いつもいつも、調子に乗って非常識な注文ばかり――まさか、ご主人自らが、それも一人で調理なさってるなんて、夢にも思わず……」

「オイオイ、やめてくれヨ。料理人が客の注文したモンを調理するのは当たり前のことなんだからヨ。……ま、最初はちぃーとばかし、度肝を抜かれたけどな。野球部のボウズ共が団体で来たのかと思ってたら、客はアンタ一人なんだもんナー」

「……すいません」

 ニコニコと話す彼を前に、私はますます小さくなるばかり。こういう反応が一番困るのです。香織嬢のように、呆れ、(なじ)ってくれた方がどれだけ楽なことか。私はどうも、人から好意的、肯定的に接せられることに慣れていないようです。

「いいんだって。アンタ、客だら? だったらもっと堂々としてればいいに。代金さえちゃんと払ってくれれば、誰も文句は言わん。……ちゃんと払ってくれるだら?」

「あ、ハイ。それは勿論。宿を出る時に、ちゃんと精算致しますので」

 当たり前です。ただでさえ警察には関わりたくないと言うのに、無銭飲食などという馬鹿な真似をする訳がありません。

「冗談だヨー。そう構えなさんな」

 恐縮のあまり挙動不審になる私を受け流し、主人はあくまでニコニコと、静かに、柔らかに、海を眺めています。何だか柳のような人です。喜代婆も香織嬢も、些か我の強い面がある人物ですが――きっと、彼女らが何を言っても、彼はニコニコと受け流してしまうのでしょう。何だか、そんな気が致しました。


「……それで、おにーちゃんは、何を悩んでいるんだい?」


 ここに来て、話題が一周したようです。彼は尚も柔和な笑顔を崩しません。私は、何と答えたらいいのでしょう。交番の時と同じく、適当なことを言って流すのは容易いことです。しかし――それは、許されない気がしました。今回は、保身のためではなく、誠意の問題として――本当のことを言わなくては。主人の柔らかな笑顔を見て、私はそんな強迫観念に襲われたのでした。

「……ここ数日の間に起きた、物騒な事故について、です」

「ああ、あれかァ。どこの誰だか分かんねえけど、危ない奴もいたもんだよナ。柵壊して、人様の自転車壊して――危ねえったらねえヨ」

 やはり、世間一般ではそういう結論に至っているのでしょう。それが一番自然で、一番常識的です。……それが真実だったならば、どれだけ救われるか。

「……おにーちゃんは、何か違うと思ってんだ?」

 精神感応者(エスパア)登場です。

「ええ。二回続けて海人君が引っ掛かるなんて、偶然としてはできすぎてます。私はそこに意図的なモノを感じて、私なりに真相を解明しようとしたのですけど……」

 隠しても仕方ないので、私はまたしても本当のことを話していました。それも、かなり中途半端に。

「へえ……。すげえナ、おにーちゃんは。金田一耕助みたいだな」

 それはつまり、被害者が出揃うまで真相に辿り着けないということでしょうか。

 いつかの時みたいに。

 いつもの時みたいに。

 私は何も救わない。中途半端に首を突っ込んで、引っかき回して、知らなくてもいい真実を突き付けて――その実、事態は何も進展していなくて。

「……何も凄くなど、ないですよ……。私なんて……結局、何もできない根無し草なんですから……」

 意図せず、甘えるような文言を口にしていました。普段の私からは考えられないことです。それほどまでに私は参っていたのでしょうか。或いは、主人の包容力がそうさせるのか――

「俺は学もないし、難しいことは分かんねーけどサ、おにーちゃんは、実際、難しく考えすぎなんじゃないのかナー」

 それは、ひどく柔らかな、ともすれば頼りない響きを持った言葉ではあったのだけど――何故か私の心に、確かな輪郭を持って響いてきて。

「人のこと考えて、自分のこと考えて、それで行動するのも大事だとは思うけど……考えすぎて行動できないんじゃ、意味ねえんじゃねえのかナ。結果はどうあれ、それが誰かのためになるなら動くべきだし、それが正しいんだと思うのなら、それに従うべきだと思うヨー?」

「……それは、そうなのかもしれませんが……」

 私は、何を迷っているのでしょう。何を、惑っているのでしょう。このまま私が何もしなければ、最悪の結果になることは目に見えています。私にできることがあって、それが私にしかできないことならば、選択の余地などない筈なのに。

「色々考えて悩んで迷って、そういうこと自体は、別に悪いことじゃねえと思うんだヨ。何も考えないで突っ走っちまうバカたれよりは、よっぽど立派だと思うし。ただ、あれこれ考えた挙げ句に答えを出さない――悩むために悩む、ってのは、ちっとばかし問題がある気がするけどナー」

 主人の言葉が胸に刺さります。その言葉には、決して棘はないのだけど――丸みに帯びている分、私の心を抉るのです。

 結局、私は甘えているだけなのでしょう。

 結論など、やるべきことなど、分かりきっている筈なのに――生来の臆病さから、逃げだそうとしている。資格がないだとか関係がないだとか、無数の言い訳を拵えて、現実から目を逸らしている。それは私の悪い癖で、無意識に自覚している事柄の筈だったのに。

「……まあ、決めるのはおにーちゃんだからナ。俺には難しいことはよく分かんねえし、偉そうなことなんて何も言えないけどサ」

 吹きすさぶ潮風に頬を切られながら、どこまでも主人は飄々としていて。

「おっと、もうこんな時間か。そろそろ仕込みを始めないといけねえナー。今日もうまいモン食わしてやるからさ、早く帰っておいでヨ。悩んでいる時は、うまい飯食って、あったかい布団でぐっすり寝るのが一番なんだからヨ」

 主人はそう言い残し、来た時と同様、静かに、穏やかに、去っていきました。結局、事件のことについては殆ど尋ねてきませんでしたが――きっと、尋ねたところで私が詳細な話をしないと、見透かしていたのでしょう。実際、私も話すつもりなどありませんでしたし。


 とにかく、私はようやく覚悟を決めることができました。


 私はまた、余計なことをしなければならないようです。

 

 学校、交番、そして海岸と――今日は様々な場所で、様々な人間に会い、話をしました。そして、この後もまた、私はある人物に会い、話をしなければならないのです。それで、全てを終わりにするつもりです。

 時計の針は、すでに三時を過ぎています。

 私は再び、歩き始めました。行き先は決まっています。朝の段階で、高校の場所と共に、喜代婆に聞いてあったからです。

 そろそろ、彼も帰っている筈ですが……。



 私は、何をやっているのでしょう。

 自分とは関係のないことに首を突っ込んで、

 自分とは関係のないことを色々と詮索して、

 自分とは関係のない人々を、救おうとして。


 それなのに――すでに事態は、思ったよりも切迫していて。

 そしてそれに対して、私は――あまりにも何もできなくて。


 今まで散々、人間の生と死を弄んできたというのに。

 あんなにも、死者を愚弄してきたというのに。

 目の前の人間を、救うこともできない。

 救い出すことすら――できない。


 海岸でひとしきり悩み、図らずも主人に話を聞いてもらうことで、吹っ切ったつもりでいたのに。相も変わらず懲りもせず、私はまた同じことで悩んでいるのです。

 私は、何なのでしょう。

 大城家にて、私は途方に暮れてしまったのでした。


 話は四〇分程前に遡ります。

 大城洋子・海人姉弟の住む大城家は、ごく一般的な洋風家屋で――その場所は、民宿・風車から見て、高校とも海を臨む峠とも全く逆方向にあって。地の利のない私は、片田舎の住宅街で、ほんの少し迷ってしまったのでした。

 番地と表札を一軒一軒確認すること数十分、私はようやく目当ての家に到達したのでした。――大城家は何の変哲もない一軒家で、小さな門扉を開けると、左手には雑草がまばらに生えただけの、小さな――恐らくは、多忙のために花の世話さえできないのでしょう――花壇らしきモノが広がり、右手には隣家との境を示すブロック塀が続いていて――その前に、小さくコンクリが敷き詰められた箇所があるのですが、恐らく以前はそこに洋子嬢の自転車が停められていたに相違ありません。その自転車が、昨夜派手な(ダメエジ)を負い、今現在『風車』の軒下に停められていることは、私自身がよく知るところなのですけれども。

 ――さて、どうしましょう。

 ここでインターホンを押すべきでしょうか。すでに家人の一人が帰宅しているのは、電気メーターがクルクル回転していることからも明らかで、そしてそれは間違いなく海人少年なのでしょう。母親のひろみ夫人――或いはひろみ未亡人、と表するべきか――は駅前の売店にいる時間でしょうし、高校生であるところの洋子嬢はまだ学校にいる時分の筈です。現代の時間割がどうなっているのかなど私には分かりませんが、今の大城家で帰宅予定にあるのは海人少年だけの筈で――私は今回、彼に用事があって、こうしてここまで足を運んだのですが……。もう少し外堀を埋めておくのもいいかもしれません。家人には気付かれぬよう、家屋の周りを探索でもしてみましょうか。

 ――と、

「…………?」

 背後に視線を感じ、振り向いたのですが――そこには、誰もいませんでした。気のせいでしょうか。最近、意味もなく神経が過敏になっている気がします。時間がありません。急ぐことにしましょう。


 家屋の裏手に回ったところで、早速興味深いものを見つけてしまいました。物干し竿に並べられた洗濯物――タオル、シャツ、ジャージ、スウェット、ジーンズ、靴下、下着の類――私はそのうちの一つに釘付けになってしまいました。

 これは――?


「ナニやってンだァァッ!」

 

 刹那、私は比喩でも何でもなく、飛び上がってしまいました。何かに集中している時に、背後で大声を出される事ほど驚くことはありません。心臓を押さえながら振り向くと、そこには目を剥いて構えている海人少年の姿。ランドセルを背負ったまま、完璧な臨戦態勢に入っています。

「……な、なんですか……」

 少年、怒鳴りつけた相手が私だと分かっていなかったのか、こちらの姿を認識するや否や、臨戦態勢を解き、

「――なんだ、おじさんかぁ……。ビックリした。庭の方で物音がするから、僕てっきり、下着ドロボーか何かだと思ってー」

 これは何と人聞きの悪い。……確かに、洗濯物の一つに鼻を近付けていた私は何処からどう見ても不審者に相違ないのでしょうけど。……なるほど、確かにこれでは下着泥棒出歯亀痴漢変態の(そし)りは免れないかもしれません。どちらが悪いかと言えば、人様の庭先に無断で侵入しているこちらに圧倒的な非がある訳で。

「――申し訳ありません。私は何もよからぬ理由でこんなことをしている訳ではないのですが……」

 などと、弁解の言葉を並べ立てても見苦しいだけというのは重々承知しているのですが。

「んや、おじさんが下着ドロだなんて思ってないけどさー。僕の命の恩人だしー」

 恩は売っておくモノです。痴漢泥棒の類ではないにしても――私のしていたことは、お世辞にも褒められたことではなかった、というのに。

「それより、どうしたんですかー。家まで来て。お姉ちゃんに用?」

「いえいえ。今日は海人君に用事がありまして。そろそろご帰宅の時間かな、と思ったものですから」

「ふうん、そうなんだー」

 気のない返事をする海人少年。

 ……本当なら、この時に気が付くべきだったのですが。


「どうぞー。散らかってますけど」

 少年はどこの誰とも知れない私のような人間を、こころよく居間(リヴィング)にあげてくれました。些か無警戒、無防備な気がしないでもないのですが――やはり、二度に渡って少年の危機を救ったことで、心を開いてくれているのでしょうか。


 ――否、そんな訳はありません。

 そんな訳はないことは、もう分かっているのです。


 少年が二度に渡って命の危機に晒されたとか――それが邪悪な何者かの悪戯による犯行だとか――そんなもの、全てがまやかしで全てが見せかけだなんてこと、私とて重々承知しているのです。当事者である少年など、尚更でしょう。彼は見かけよりずっと聡明で利発で――優しく、不器用な人間です。だからこそ、苦しんでいる。

 私は彼を救いたい。

 こんな――(いたち)ごっこの茶番劇など、すぐにでも終わらせなければならない。すぐに終わらせなければならないのですが――


「何か飲みますかー。って言っても、お茶か水くらいしか出せませんけどー」

 何でもないかのように、少年は聞いてきます。

「いえ、お構いなく。私は用件を済ませたら、すぐにでもお(いとま)致しますので」

「えー」

 徒に時間を延ばしても仕方がありません。いい加減――率直に聞くことにしましょう。


「海人君……本当のことを話してくれませんか?」



「……本当の、コト?」

「ええ。一昨日、君は壊れた柵にもたれて、崖に墜落しかけましたよね? そして昨日は、ブレーキの壊れた自転車に乗って、同様に死にかけた。二日連続で起きたこれらの出来事――一体、何の意味があったんですか?」

「えー、そんなの、僕が聞きたいですよー。柵が壊れてたのだって、自転車が壊れてたのだって、どっかの危ない人がイタズラ半分でやったことなんでしょ? 香織お姉ちゃんがそう言ってたもん。そんなの、子供の僕に分かる訳が――」

「違いますよ」

 少年の目をじぃっと見据え、言い切ります。

「えー、違うって言われても……」

「もう、誤魔化さなくていいんですよ。ここには君と私の二人しかいない。君は本当のことを知っている筈です。――本当のことを、話してください」

「だからー、そんなこと言われても困るってば」

「じゃあ私が話します。聞いていただけますか?」

「…………」

 少年、むくれてそっぽを向いてしまいます。私はそれを肯定のサインだと受け取りました。

「君が遭遇した二件の事故ですが――両方とも、柵なり自転車なりに細工をした、無差別かつ悪質な悪戯――という点では共通しています。……ですが、本当のところはどうなのでしょう? 犯人は、本当に無差別を狙ったのでしょうか? 私は違うと思います」

「…………」

 聞いているのかいないのか、少年はテーブルに置かれたリモコンを手にして、エアコンのスイッチを入れています。

「まず柵の件。確かにあの峠は公道に面していて、もちろん展望台も、そこに設置された柵も公共のモノに違いありません。……ですが、この北風の吹きすさぶ寒空の下、呑気に柵にもたれて海を眺める人間が、果たしてどれだけいるのでしょう? ゼロとまでは言いませんが、かなり少数なのは間違いありません。……もっとも、毎日あの場所のあの箇所で海を眺めるのを日課にしている人間がいるのなら、話は別ですが」

「…………」

「自転車の件はさらに分かりやすい。あれは誰の自転車ですか? 昨日は君が勝手に拝借していったせいで、ああいう展開になった訳ですが――本来、被害者となるべき人間は誰でしたか?」

「……お姉ちゃん……」

 しぶしぶ、といった感じで呟く海人少年。先程から一切目を合わせてくれませんが、問いに答えてくれただけでも良しとしましょう。

「そうです。喜代さんに伺ったのですが、洋子さん、かつてお父さんが亡くなられたあの海を、他でもないあの場所で眺める習慣があったそうですね。それを知っている人間がどれだけいるかは分かりませんが、いずれにせよ、今回の件は無差別などではなく、洋子さん一人を狙った犯行だと言える」

 正直、このことについては随分早い段階で察しがついていました。警察官相手にも、この話はしてあります。……問題はその後で。

「……でも、そしたらどうなるの? どっかの誰かがお姉ちゃんを殺そうとしてて――もちろんそんなの許せないけどさ――それを僕に聞いてどうするんですかー。そんなの、警察に任せれば――」

「……海人君。君は年齢の割に、とても賢い。そして優しい」

「ちょ、急に何を――」

「でも、君のしていることは明らかに間違っている。その場凌(しの)ぎで、根本的な解決になっていない」

「ぼ、僕が何だって言うんですかっ! 僕はただ、どっかの誰かがお姉ちゃんを狙って仕掛けた罠に、運悪く引っ掛かっただけなのに……」

「それが不自然だと言っているんです。洋子さんには、あの峠で海を眺めるという習慣があった。しかし、君にはそんな習慣はない。しかも、あの場所は君の通う小学校から見て、この家からも洋子さんの働く食堂からも逆方向にある。あの日あの時あの場所で、君があの峠にいる理由がないのですよ」

「そんなの、ただの偶然だってば」

「確かにそういうこともあるかもしれません。人というのは、あんがい頻繁に、整合性のない、脈絡のない行動をとるものですからね。それが不幸な偶然を呼ぶことも、ままあることです。しかし、君はその翌日、友人の家に行くという理由で、洋子さんの自転車を無断で拝借している。別に徒歩で行っても構わなかったでしょうに、君はそうしなかった。何故でしょう?」

「だから、別に理由なんてないって。自転車の方が楽だし。わざわざお姉ちゃんに断るのも面倒だったし……」

「それも不自然です。何者かが洋子さんの命を狙って罠を仕掛けた。ですがその両方とも、掛かったのは彼女ではなく、弟である君だった。――しかも、行動を追っていく限り、君はわざわざ罠にかかりにいったように見える。これは私の気のせいでしょうか?」

「…………」

「わざと、ですよね? 君は柵の細工もブレーキの破損も知っていた。知っていて、わざわざ自分が被害者となった。そうして、仕掛けられていた罠を一つずつ潰していった。他でもない、たった一人のお姉さんを救うために」

「そんな――そんなことする訳ないじゃんっ! 自分だって死ぬかもしれないのに――」

「もちろん、賢い君のことだから、必要最低限の安全確保はしていたんでしょう。崖から落ちかけたのだって、人が近付いてくるのを確認してからだし、自転車で転んだのだって――突風が吹いたせいもあるのでしょうが――十中八九、計算のうえで行われたことなのでしょう? 一昨日はトレーナーに半ズボンという軽装だった君が、昨日になったらダウンジャケットにジーンズという厚着になっていたのもそのせいです。崖から落ちかけた拍子に足を擦り剥いて血を出してしまったのを教訓としたのでしょう。自転車で転んでも大丈夫なように、できるだけ衝撃に強い服装を選んだ――といったところでしょうか」

「…………」

 押し黙って俯いてしまう海人少年。たかだか八畳ほどの空間に、私の声と、旧式のエアコンが温風を吐き出す稼働音だけが、やけに寒々しく響いています。

「ついでに言えば、わざわざ君が危険な目に遭ってまで罠を潰す必要もないのです。要は、仕掛けられた幾つもの罠に、お姉さんが近付かなければいい話なのですから。例えば――学校の屋上に近付かせないために、スプレーなどでメチャクチャに落書きをしてしまう、とか」

「――――っ!」

 驚いて顔を上げる海人少年。これはあまり自信のない仮説だったのですが、それが的を射ていたことは彼の反応(リアクション)を見ても明らかです。

「失礼は承知で、先程庭先の洗濯物を調べさせて頂きました。私にとっては幸運だったのですが、海人君のモノらしきジャージ――僅かに、ごく僅かにですが、裾の部分に塗料がこびり付いているのを確認しました。油性塗料は一、二度洗濯したくらいでは落ちませんからね。

 ……君は三日前――私がこの町に来る直前になりますが――お姉さんの通う黒花崗高校の校舎、さらにはその屋上に、スプレー持参で、うまいこと侵入した。落書きが発見されれば、当然教職員たちの逆鱗に触れ、一般生徒の立ち入りが禁止になるのは目に見えている。君はそこまで計算して、実際に行動に移した。恐らく、あの峠の柵にされていたのと同じ細工が、屋上の柵にもされていたのでしょう。さらに推測を重ねるなら、洋子さんにはその屋上に頻繁に上がって、危険防止の柵なりフェンスなりにもたれる習慣があったのかもしれない。そして――君はそのことを知っていた」

「ちょっと待ってよ――そりゃ、お姉ちゃんの習慣だとかってのは――まァ、もしかしたら知ってたかもしれないよ? お姉ちゃんが学校で何やってるかなんて、本当にほとんど何も知らないけど、それでもまあ、何かの拍子にいつも昼休みに一人で屋上にあがるのが好きだって話は、うん、聞いたことがあったかもしんない。

 だ、だけどさ、おじさんのいうところの『罠』がどこに仕掛けてあるかなんて、僕に分かる訳ないじゃんさ。……そりゃ、どこにあるのか分かってれば、そーゆー風に片っ端から潰してくだってできるかもしれないけどさ……そんなの、僕には分からないし……」

 恐らくは、これが最後の反論になるのでしょう。伏し目がちに、弱々しく言葉を紡ぐ大城海人に対し、私は決定的な――恐らくは決定打になるであろう――言葉を投げつけます。

「くどいようですが、君は賢く、鋭く、そして優しい。一つ屋根の下で暮らしている人間が何に悩み、何に苦しみ、何を考えているか――察し、調べ、詮索することは充分に可能だった筈です。そして、何らかの拍子に知ってしまった。――大城洋子が、自ら死を選ぼうとしていることに」

「――――ッ!!!」

「自殺――だったのですね、全ては。ただの自殺ではない。事故に見せかけた間接殺人――その実、加害者と被害者が同一人物という、非常に手の込んだ自作自演――屋上のフェンスも、峠の柵も、自転車のブレーキも、細工をしたのは全て彼女自身で、本来なら彼女自身がそのどれかの罠にかかり――不幸な死を演じる筈だった」

「…………」

「私は大城洋子という人間のことをほとんど何も知りません。二日前に初めて会ったのですから、それは無理もない話なのですが……それでも気にかかった点がいくつかあります。

 彼女、普段はとても明るく饒舌なくせに、君が危ない目に遭った時は、酷く――不自然な程に動揺していた。自転車の時は興奮のあまり、君に平手打ちを喰らわせたほどです。勿論、最初はそれだけ弟のことを心配しているのだな、と思っていたのですが――どうも、様子がおかしい。『心配』というには、あまりに度を超しているように見えたのです。ですが、今となってみれば納得です。一連の罠を仕掛けたのが彼女自身であって、本来、自分がそれにかかる筈だったのに、血の繋がった弟がそれで命を落としてしまったのでは――あまりにも救いがない。彼女はそのことに焦り、また、自分の仕掛けた罠にことごとくはまる君の粗忽さに憤っていたのでしょう。苦労して準備したモノが君の所為で水の泡になったことに苛ついていた、ということもあるのでしょうけど。

 翌日、私は――短い時間ではあるのですが――彼女と登校を共にしました。その時の彼女、口では『急いでいる』と言いながら、ずっと自転車を押して歩いていたんですよね。上り坂だけではなく、坂を上り切ったその後も、です。……恐らくは、あの時点ですでにブレーキを切っていたのでしょう。学校や食堂では、何時(いつ)何処(どこ)で誰に見られるているか分かりませんからね。

 そして――彼女、登校する時も下校する時も、ずっとジャージ姿でした。最初は部活でもあるのかと思い、大して気にも留めなかったのですが――今朝彼女の高校に行ってみて、妙なことに気が付いたんです。登校する生徒全員――明らかに朝練に行くと思われる体育部員含めて――ジャージ姿の生徒が一人もいないのです。恐らく、校則か何かでそう決められているのでしょう。なのに、彼女はジャージ姿で登下校を続けていた。むしろ、彼女の制服姿を見たことがないくらいです。何故でしょう。考えられるのは――制服に袖を通すのを頑なに拒絶しているのか、或いは――着るべき制服が何らかの理由で紛失してしまったのか。可能性として挙げてみたものの、前者は考えづらい。では後者はどうなのか。制服を紛失してしまうことなど、そうあることではありません。何者かの手で隠されるか、二度と着られないくらいに切り裂かれるかしない限りは――ですが。

 ――彼女、学校で苛め(イジメ)に遭っていたのではないですか?」



「それならば、自殺の動機にも納得がいく。自作自演なんて自然にやらなければ意味がないのに、三日連続というハイペースで実行していたのも――単純に、少しでも早く、辛い現実から逃げ出したかったからなのでしょう。

 彼女、私たちの前では決してそんな素振りは見せませんでした。そしてそれが今回の動機の全てを物語っています。今の世の中、死にたい人間など山ほどいる。現に毎年数万単位の人間が自ら命を絶っている――のですが、こんな手の込んだことをする人間は少ない。

 が、いない訳ではない。事故や他殺に見せかけた自殺というのは、少なからず存在します。そしてその大部分は保険金狙い。加入してすぐの自殺では保険金は支払われませんからね。……とは言え、今回の件では、それは当てはまらない気がする。彼女に多額の保険金がかけられているとも思えません。では何なのか……?

 弟の君と同じく、彼女もまた、賢く優しく――そしてひどく不器用な人間なのでしょう。自分が死ねば周囲の人間が悲しむのは目に見えている。実際、彼女は幼い頃に父親を失い、悲しみに暮れ憔悴する母親を目の当たりにしている。母親にも――弟にも――そして椎名家の人々にも――そんな想いはさせたくない。だが、これ以上生きていくのも辛い。

 彼女は悩み続け――今回の計画を思いついた。

 自分が自殺したとなれば、周囲に与えるショックは計り知れない。身近にいる人間は、彼女を救えなかったこと、彼女の悲鳴に気付けなかったことに自責の念を感じ、一生十字架を背負い続けなければならない。しかし、それが例えば事故死であったなら――それはただの『不幸』、ただの『不運』で片付けられる。同じ『死』でも、受け取り方に雲泥の差が出てくる。少なくとも、彼女はそう考えた。そこで思いついたのが――自分の死を『偽装』するということ。方法は何でもいい。飛び降り、飛び込み、服毒、焼身、酸欠、凍死――出来うる限り自然な形で、出来うる限り簡単にできる方法を、彼女は選んだ。もちろん、他の人間が巻きこまれない、というのが最優先項目として。――そして彼女は、屋上のフェンスに、峠の柵に、自転車のブレーキに、細工を施した……」

「…………」

 私の長い話を、少年はただ黙って聞いています。俯き加減で、テーブルの角をじっと見つめたまま。

「しかし、彼女の目論見はうまくいきませんでした。邪魔をする人間が現れたからです――つまり、君のことですが。お姉さんの目論見に気が付いた君は、毎日それとなく洋子さんの行動をチェックして、何か『罠』を仕掛けようものなら、片っ端からそれらを潰していった。それが、この数日間に起きた出来事の真相です。

 お姉さんを死なせたくない、傷つけたくない、助けたい、救いたい。――君の気持ちはよく分かる。……ですが、先程も言った通り、それはその場凌ぎの対処療法にすぎません。根本を絶たない限り――同じことは何度も何度も繰り返される。学校側が見て見ぬふりをしている以上、苛めを沈静化させるのは困難かもしれませんが……そう、例えば学校を変えるであるとか、もっと建設的な解決策はいくらでもある。いずれにせよ――こんなことは、もう終わりにしなければならない」

 少年を真っ直ぐに見据え、私は言葉を結びました。

 ――私は、何を言っているのでしょう。

 こんなこと言う資格など、ありもしないくせに。

 少年がやっていたよりも、もっと――もっと愚劣で、人の尊厳を小馬鹿にした所業を、何年も続けていたというのに。


 

「――おじさんに、何が分かるんだよ……」

 しばしの沈黙の後、少年が口を開きました。

「何も――何も知らないくせに……」

 観念したのか、絞り出すように言葉を吐き出す海人少年。握ったままの拳に、グッと力が入るのが、ここからでも分かります。

「僕が生まれてすぐにお父さんが死んで――お母さんは僕たちを育てるために一日中働き通しで――本当に、ずーっと働きっぱなしで――僕たちはそのことが分かってるから、できるだけお母さんに心配かけないようにってしてきたのに――お姉ちゃんが学校でイジメに遭ってるらしいってのは、けっこう前から気付いてたんだ、僕は。いつのまにか制服がなくなってたし――でもお姉ちゃんは、僕やお母さんに心配かけたくないから、そのことをずっと隠してて……。でもそんなの、言えるわけないじゃん。そりゃ、転校することだって、退学することだって、やろうと思えばできるけど――でも、そしたら全部お母さんに分かっちゃうし。ただでさえ仕事で疲れてるのに、こんなこと……。

 だけど――やっぱり、間違ってたんだと思う。軽く考えてたんだ。お姉ちゃんがもうちょっと我慢してれば、イジメなんて自然になくなるんだって、そう思ってた。だけど――なんかどんどんひどくなってるみたいで――お姉ちゃんの限界なんて、もうとっくにこえてたんだよね。……ちょっと前に、たまたま、お姉ちゃんが柵をナタで切ってるのを見ちゃったんだ。気になってお姉ちゃんの部屋、こっそり調べてみたら――ノートに、何か色々書いてあるのを見つけちゃって……屋上とか峠とか自転車とか、おじさんが言った通り、どうしたら事故に見せかけて死ねるかって……そんなことばっかり書いてあって……そんなの見ちゃったら、どうにかして止めようって思うじゃん!? そんな、僕だってこんなの――このままじゃいけないって分かってるけど!」

 声を震わせながら語る少年の瞳は、どうしようもない絶望に彩られていて――私は、かける言葉が見つかりませんでした。

 私は、何をしようとしていたのでしょう。

 救う――つもりだったのでしょうか。

 だとしたら、思い上がりも甚だしい。

 私などに、何かができる筈もない。

 例え、本当のことに気付いたのだとしても。

 分かっていて、気付いていて、全て知っていて、その上で何もしない。否、できない。そんなの今に始まったことではありません。今までずっとそうだったように、多分、これからもずっと……。


「……このこと、お姉ちゃんに言うつもりですか」

 顔を伏せたまま、少年はそう続けます。私が急に黙ってしまったために、逆に不安になったのでしょう。

「……ええ。できるだけ早く、止めるべきでしょう。今まで海人君が彼女の『間接自殺』を阻止できたのは、運が良かっただけとも言える。君は彼女の計画を、彼女の書いた『計画書』らしきモノで知ったと言ってましたが――恐らく、彼女はそれ以外にも案を持っている筈です。三日連続で行動に出ている以上、今日それをやらないとは、言い切れない。お母さんを心配させたくないという君の気持ちも分かりますが――事態は切迫しています。洋子さんが帰宅したら、すぐに説得に移るべきです」

 そう――それはそうなのです。

 私がどういう立場の人間であれ、もうここまで来てしまったのだから――最後までやり抜くべきでしょう。中途半端で引き返すのが、一番の悪だというのは過去の経験から学習している筈です。

「え、でも……」

「君が言いにくいのであれば、私が代わりに話します。……もちろん、それこそ根本的な解決にならないことは分かっていますが、黙っている限り、彼女は何度も同じことを繰り返しますよ?」

「……そうじゃなくて……お姉ちゃん、もうとっくに帰ってきてるんですけど」



 ――え?


「何か、今日は体調が悪いからって、ガッコ早退したみたいで。バイトも休むって、玄関に書き置きが。二階で寝てるから、静かにしててって」

 そんな。

「――じゃあ、彼女、私が来るより早く帰宅していた、ということですか? 海人君よりも早く?」

「ていうか、おじさん、僕より早くウチに来てたんじゃん。帰ってきたら、誰かが庭にいて、下着泥棒かと思ったら、それがおじさんで――」

 迂闊でした。私がこの家を訪れた時、住人の誰かが在宅なのは電気メーターで確認済みだったのに。それが海人少年ではなく、洋子嬢の方だったとは……。確かに、庭先に現れた時の少年はランドセルを背負ったままの格好で――それが下校してすぐのことだと、気が付いてよさそうなものだったのに。

「つまり、私が今ここで、君に事の一部始終を話している間も、彼女はこの家にいたということですね?」

「あ、話は聞かれてないと思います。お姉ちゃんの部屋がある二階にいればここでの話し声は聞こえないし、階段を降りてくれば物音がするんで、逆に僕が気付くはずだし」

「今の今まで、この話をお姉さんにするのをひどく気にしていた割には、ずいぶんな落ち着きようですね」

「んや、話は本当に聞かれてないんだって。それより、お姉ちゃんが今この真上で、大人しく寝てるってことの方が安心でしょ? 部屋にいれば、変なこともできないだろうし」

 少年の言い分もなんとなく分かります。屋外であれば、事故に見せかけた墜落死や追突死をなどが可能ですが、自室となれば――事故を装った首吊り、服毒、手首切り(リストカツト)など、自然に見せるのはほぼ不可能でしょう。


 ――しかし、本当に安心していいのでしょうか。


 何か、見落としている気がします。何か、とても重大な、何か。

「……お姉ちゃんには、僕から話をします。おじさんにそこまでやらす訳にはいかないし、第一――」

 少年の言葉の途中で、私は立ち上がりました。

 今になって――今さらになって、ようやく私は一つの違和感に気が付いたからです。

「……ビックリした……」

「海人君――この部屋のエアコンは、ずっと買い換えてないんですよね?」

「え……うん。昔から、このエアコンだけど――」

「他に暖房設備がある部屋は?」

「僕の部屋に電気ストーブがあるけど」

「そうじゃなくて。最近、古い石油ストーブを『風車』からもらったりはしませんでしたか? 恐らく洋子さんの部屋にある筈ですが」

「……うん、何日か前に、部屋が冷えるからって、何か汚いストーブを部屋に運んでてけど」

 本当に、迂闊でした。

 居間に入った時点で、或いはこの部屋の古いエアコンが稼働しているのを確認した時点で、気が付いてもよさそうなものだったのに。食堂で、『家の暖房が壊れた』という理由で古い石油ストーブを洋子嬢に譲った、という喜代婆の話を聞いていた筈なのに。

「海人君、洋子さんの部屋はどこですか?」

 居間を飛び出しながら、私は尋ねます。階段は廊下の突き当たりにありました。

「階段上がって、すぐ右の部屋だけど――」

 少年の言葉を背中で受けながら、私は駆け上がります。


「洋子さんっ! お休みのところすみませんっ! 起きているのなら、返事をして頂けますかっ!?」

 部屋に着くや否や、私は扉の向こうに問いかけます。ドアノブに手をかけるものの、内側から施錠されているらしく、びくとも動きません。

「洋子さんっ! 大和です! 洋子さん、聞こえたら返事をしてください!」

 扉に拳を叩きつけながら、半ば怒鳴り声で言葉を重ねます――が、当然のように返事はなく。

「ちょ、おじさん、急に何!?」

 追い掛けてきた少年が目を白黒させていますが、今はそれに答えている暇などありません。

「海人君、申し訳ありませんが、蹴破りますよっ!」

「ちょ――」

 どんっ! どんっ! どんっ!

 言うが早いか、体重をかけて何度も右足を踏み出しますが、思いのほか扉は頑丈にできていて、私の非力な力ではどうにもなりそうにありません。

「おじさんっ! いきなり何やってンだよっ!? お姉ちゃんがビックリすンだろ!?」

 私の突然の行動が奇行に映ったのか、少年は怒りを顕わにして止めに入ります。


「オイっ! 何をしているッ!」


 海人少年の声に便乗するようにして、彼とは明らかに違う声が、屋内に響きました。見れば、紺色の制服に身を包んだ警官が、血相を変えて、ドタドタと階段を上がってくるところで。……『神谷』と言ったでしょうか。海沿いの交番にいた、若い警官です。相変わらずのひどい目付きでしたが――今はそれに怯えている場合ではありません。

「お前っ! そこで何をやってるんだっ!」

「この部屋、他に出入り口は?」

「無視するなぁっ!」

 目をギラつかせ、顔を真っ赤にしながら抗議してきますが、生憎今は相手している時間も惜しいのです。

「窓がベランダに繋がってるから、隣の僕の部屋から行くことできるけど――その前に、説明しろってば! お姉ちゃん、部屋で寝てるだけでしょ!? 睡眠薬とか、そんなモロバレな方法は使わない筈だしっ!」

「なっ!? 睡眠薬――って、おいっ! どういうことだっ!」

「薬など必要ありません。彼女は古いストーブを使って、意図的に一酸化炭素中毒を起こそうとしているんです。一刻も早く換気しないと、彼女の命がない」

「……えぇ!?」

 石油ストーブは不完全燃焼によって一酸化炭素を排出します。言うまでもなく一酸化炭素は猛毒で、一定量が体内に入りこむと、吐き気や頭痛、意識混濁を起こし、最終的には死に至ります。この類の事故は昔から数多く報告されていて、確か、ここ十年以内に製造されたものには不完全燃焼防止装置が付いている筈ですが――話を聞いた限りでは、風車にあったストーブは相当な年代物のようなので、それも望めないでしょう。もちろん、仮に不完全燃焼を起こしたとしても、換気さえしっかりしていれば、中毒症状を起こすこともないのですが――逆に言えば、密閉した室内で、意図的にホコリで目詰まりを起こすなどして不完全燃焼を引き起こせば、簡単に中毒症状になれるということです。そしてそれは、何も知らない第三者にすれば、ただの不幸な事故にしか見えない。……まさしく、彼女が望んだ通りに。

「――おいっ! なんで僕を無視するんだっ! どっちでもいいから現状を解説してくれっ!?」

 神谷巡査の怒鳴り声が悲痛に響きます。二人揃って無視していたのですが、さすがに可哀想になってきました。だけど時間がないことには変わりがなく、

「この部屋で洋子さんがガス自殺しようとしているんです! 早く換気しないと彼女の命が危ないんですよ!」

 などと簡潔極まりない説明をしたのですが、

「……そういうことは早く言えよっ!」

 彼は思った以上に順応性の高い人間だったようです。

「じゃあ僕がこの扉を蹴破る! あんたはそっちの部屋からベランダに向かってくれ!」

「分かりました!」

 手際のいい巡査の指令を受け、私は少年の部屋を横切り、ベランダに飛び出しました。その真横に彼女の部屋に通じるであろうガラス戸を確認しましたが、当然のようにこちらも施錠されています。ピンクのカーテンに阻まれ、部屋の様子を窺うことすらできません。「洋子さんっ! 起きてくださいっ! 馬鹿なことはもうやめるんです!」

 声を限りに叫びましたが、反応はありません。すでに意識を失ってしまっているのでしょう。

 ――全く、本当に、迂闊でした。

 真実に気が付いた時点で、私は彼女の元を訪れるべきだったのに。不審者と思われようが、四六時中彼女に張り付いて、二度とおかしなことをしないよう、監視していなければならなかったのに。私が少年相手に呑気に自説を展開している、その真上で、彼女は少しずつ死に向かっていたというのに。

 仕方ありません。一刻も早い換気が必要なのです。このガラスを叩き割ってでも――と、私がそう考えた矢先――


 風が、吹きました。


 突風です。

 昨日、一昨日のモノとは比べ物にならない程の強風がベランダに吹き付け、私はベランダの壁に体を叩きつけられてしまいました。

 ――こんな時に。

 私は何とかこの風に抗おうと壁に腕を突っ張らせたのですが、今度はその刹那、息ができなくなりました。風で飛ばされたビニール袋が顔に張り付いたようです。それを引き剥がそうと藻掻いているうちに、私はバランスを崩し、窓からずいぶん離れた位置で転倒してしまいます。こんなことをしている時ではないのに――

 ぐらっしゃァァァんッ!

 顔からビニール袋を剥がしたのと、物凄い音が耳を貫いたのは、ほぼ同時でした。反射的に顔を背けてしまったのですが、恐る恐る音のした方を見ると、そこには無数のガラス片と、数枚の割れた瓦が散乱していました。この強風で、向かいの家から飛来してきたものでしょう。何となしに向かいの家屋に目を向けた私は――そこで、三度(みたび)彼を目撃することになりました。

 一昨日、あの峠で。

 昨日、風車の近くの道で。

 真冬だと言うのに信じられない軽装で立っていた彼。

 彼が、向かいの家のベランダに立っていたのです。

 ――彼は――

 と私が頭を巡らすより早く、彼は左手で洋子嬢の部屋を指差し、


《はやくたすけろ!》


 吹きすさぶ風の中、そう叫んだように、私には聞こえました。

 ガラス戸が大破したとは言え、彼女の容体が深刻なのに変わりはありません。私はガラス戸の残骸に飛びつき、ロックを解除し、カーテンを開けて部屋に飛び込みます。いくつもガラス片を踏んでしまいましたが、そんなこと気にしてはいられません。


「洋子ちゃんっ! 聞こえるかっ! 返事をしてくれっ!」


 神谷巡査が必死の形相で、ベッドに横たわる洋子嬢の抱き起こしています。どうやら、私よりも彼がドアを蹴破る方が一足早かったようで。

 洋子嬢の表情はひどく安らかでしたが――その顔色は、寝ている人間のそれにしては、いやに赤みがさしています。……確か、一酸化炭素が血中のヘモグロビンと結合するため、中毒患者は思いがけずいい顔色をしていることがある、と何かの本で読んだことがあります。

「あんた、何ぼーっとしてんだよっ! 早く換気して! 海人くんは救急車を!」

 神谷巡査の指令を受け、私は慌てて他の窓へと走りました。

 数分後、私が再びベランダの外を見た時には、すでに『彼』の姿はありませんでした。

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