第三章 伍(過去)
死ぬしか、なかった。
屋上に上がる。鉄筋コンクリで造られた古い校舎は、所々がひび割れていた。扉から一歩前に出ると、それだけで北風が頬を叩く。丘の上に建てられているこの学校は、周りに障害物となるモノが何もない。これだから田舎は――などと愚痴ったところで、どうしようもないのだけど。
フェンスに近付くと、小さいこの町が一望できる。別に見るべきものなんて何もないこの町だけど、それでも見晴らしがいい場所は開放的な気持ちになれるらしく、生徒からの人気は高い。休み時間や放課後など、特別な用事もないのに、時々暇な生徒がこの場所で時間を潰している。かく言う自分も、その一人。昼休みは、いつも屋上で弁当を食べている。当たり前だ。教室には――あの場所には、自分のいる場所などどこにもないのだから。
暖かい季節には高い確率で誰かがいるこの場所だが――さすがに今は風が強いと分かっているため、屋上に上がってくる物好きはいない。
好都合だった。
フェンスの高さは二メートル程だろうか。危険防止のためにはこれでいいのだろうけど――これくらいなら、簡単によじ登れる。何の問題もなかった。
これで――全てが終わる。
終わりにできる。
もう限界だった。クラスメイト――いや、奴らの攻撃はますます熾烈に、陰湿になってきている。担任は頼りにならない。かと言って、他の教師が頼りになる訳でもない。それ以外の大人も同様だ。味方なんて、どこにもいない。
どうしようもなく――一人だった。
皆から攻撃されて、己の存在を、己の人格を、己の尊厳を完膚無きまでに否定されて――それで、どうやって生きていけばいいのか。周りは敵ばかりで――敵じゃない者も、皆お為ごかしの綺麗事ばかり――とっくに、臨界点など越している。
もう、限界だ。
終わりだ。
終わりにするのだ。
相変わらず風が強い。はためく髪とスカートを押さえ、フェンスに手をかけた所で、
「お姉ちゃーんっ!」
……嗚呼。
なんで。
なんで、このタイミングで、この子は登場するのか。
直線距離で十数メートルほど下の場所に、グラウンドの真ん中に、小学生の弟の姿が見える。
「…………っ!」
あまりにもあまりなタイミングに、言葉を発することができない。思わず、フェンスから手を離す。
「もう、授業終わったのーっ!」
無邪気な弟の言葉に、毒気を抜かれる。できるだけ不審に思われないように、自然を装って言葉を返す。
「そうだよーっ!」
久しぶりに、大きな声を出した気がする。そんな元気があったことに、自分で吃驚する。
「分かったーっ! 今日はシチューにするから、お姉ちゃんも早く帰ってきてねーっ」
母親は一日働き通しで、自分も週五でアルバイトをしているため、炊事などの家事は主に弟が担当しているのだ。
フェンス越しに、短パン姿で駆けていく弟の姿を見送る。年の割にはしっかりしていて、いつもみんなを気遣っていて――本当に、自慢の弟だ。
――に、しても。
何というタイミングなんだろう。
何という、間の悪さか。
屋上に上がった時は、もうこれで終わりにするということで頭がいっぱいで、他のことなど――家族のことすら――考えてなかったと言うのに。
これでは、死ぬことなど、できる訳がない。
弟のことを想う。
母のことを想う。
小さい時に、自分を遺して逝ってしまった父のことを――想う。
自分には、家族がいる。
今まではいるのが当たり前で、特別どう思ったことなどないのだけれど――いざ死のうと思うと、彼ら、彼女らの存在が、ズシンと両肩にのし掛かる。
自分が自死すれば、皆はどう思うだろう。
悲しむに違いない。
悔しむに違いない。
ならば、自分は死ぬ訳にはいかない。
父を亡くした母の悲しみを、自分は知ってしまっている。
これで自分まで死んでしまったら――きっと、あの人は駄目になってしまう。間違いない。弟だってそうだ。いくらしっかりしているとは言え、まだ子どもなのだ。心に疵を残すことは間違いない。
だけど……だったら……どうすればいい?
周囲から拒絶されて。
家族から引き留められて。
生きることは許されず、
死ぬことも許されないと言う。
ひどく、頭が重い。
フェンスを両手で掴み……そのまま、ずるずると崩れ落ちる。冷たいコンクリに、両膝を着く。
もう、涙も流れない。
かと言って、誤魔化しの笑いがこぼれることもない。
ただ、重い頭をフル回転させながら――自分はどうすれば救われるかを、考えていた。