第三章 参(現在)
ひどく、騒がしい夜だった。
風が強い。びょうびょうと吹き抜ける風が、頬を切り、窓枠を揺らす。細かな砂塵を巻き上げる。さっさと作業を済まさなければ、今度こそ風邪をひいてしまう。物音を立てないよう、細心の注意を払いながら歩を進めた。
とは言え、目的のモノはすぐそこにあって。
自転車。
何の変哲もない、俗に『ママチャリ』と呼ばれる、子どもの頃は『ケッタマシン』と呼ばれていた代物だ。風に背を向けるようにして、自転車の側にかがみ込む。
右手に握りしめたニッパー。
ハンドルから前後のタイヤにかけて続く、ブレーキワイヤ。これを切断すれば――もう、ブレーキは作動しなくなる。
不思議と、穏やかな気持ちだった。
こんなにも、非人道的なことをしているというのに。
死と、向き合っていると言うのに。
だけど、これで全てから逃れられるのだ。失敗続きだったけど、チャンスなどいくらでもある。他に被害が及ばないよう、細心の注意を払わなければいけないけど、知恵さえ絞れば、方法などいくらでもあるのだ。
要は、覚悟の問題なんだろう。
自分には、まだ覚悟が足りないのだ。
覚悟がないから、ぬるい方法ばかりを選択してしまう。心のどこかにリミットをかけて、保険をかけて――無意識に、逃げようとしているのだ。
逃げ場など、どこにもないと分かっているくせに。
最良でないことは分かっている。
最善でないことは分かっている。
だけど……だったら……どうすればいい?
こうするしかないのだ。この状況から脱するには、苦痛を避けるには、もう、この方法しか――。
息を飲み、ニッパーを握る。小さな音がして、前輪へのワイヤーが切断される。もう一度、後輪へのワイヤーも切断する。
これでもう、この自転車は機能しなくなった。ペダルもハンドルも十全だけど、一度漕ぎ出したなら、余程の荒業を使わない限り、止まらない。地獄へ一直線だ。
あとは、結果に向けての覚悟を決めるだけ。
……風が、いよいよ強くなってきた。伸び始めた髪を押さえ、その場を後にする。頭の中で、その時のシミュレーションを繰り返しながら――。