第三章 壱(現在)
木静かならんと欲すれども風止まず
さてここで、今さらながら私の『名前』に関して、簡単な説明をさせて頂こうと思います。あてもない放浪の旅を続け、如何なる場所でも如何なる事態でも無関係を――傍観者を貫き通している私ではあるのですが、それでもやはり『名前』は必要です。
――大和亮介――
私は、各地でそう名乗ることにしています。
本名ではありません。
かつて私のいた島では、別の名前で呼ばれていました。
当然、私の籍もその名前で登録されています。
しかし、そちらを名乗るのは些か不都合があって――例によってその理由は割愛させて頂きますが――私はこの偽名を拵えました。意味はありません。旅を続ける私の数少ない所持品に、あるノートがあるのですが――そこに記されていた名前リストから、適当に文字を拾ってきただけの話です。目にするのも忌々しい名前リストではあるのですが、事ここに至って、まさか私の名前を決めるのに役立つとは思いませんでした。
兎に角、私はこうして『大和亮介』という名前を得――椎名香織の祖父母が営む民宿・風車に宿泊するにあたり、宿帳にこの名前を記させて頂いている、という訳です。
そして、日付が変わって、今日。
「へぇーッ、大和サンって言うんですかーッ。名前、今初めて聞きましたー。意外とカッコいい名前なんですねーッ! ……昨日はホントごめんなさい、一人で取り乱しちゃって。何かみっともないトコ見せちゃいましたねッ! でもまあ海人も無事だった訳だし、何も慌てることなんて何にもなかったんですよねー。何やってンだろー、わたし……」
本来のテンションを取り戻した女子高生は、やはり饒舌で、相槌を挟む暇すら与えてくれません。自転車をカラカラと押して歩く大城洋子の傍らで、私は一人、事に関わろうとしたことを軽く後悔し始めていました。
そもそも、何故この私が洋子嬢の登校に付き合う羽目になっているのか――偶然、としか言い様がないのでしょう。昨日あの場所で海人少年を助けたのと同じ――全ては、偶然の産物。
疲れているにも関わらず、七時などという早い時間に起床してしまった私は、外套を羽織り、帽子をかぶり、朝の散歩がてらに近所の散策を始めたのでした。
冬の朝は凍て付く寒さで、数少ない通行人は皆背中を丸めて歩いています。私は昨日来た道を戻り、あの崖の前を通過し、坂道を下っていったのですが――そこで、自転車を押して登ってくるジャージ姿の洋子嬢に再会したのです。最初は伏し目がちに歩いていたのですが、こちらから声をかけると、途端に表情を明るくして。
挨拶もそこそこに、取り敢えず私は、昨日出来なかった自己紹介を簡単に済ませたのですが……。
「大和サン、こんな田舎に何しに来たんですかーッ? 仕事――じゃなさそうだし、里帰りか何かですかッ?」
「いえ、そういう訳ではないのですが――そもそもこの地が目的地という訳でもないのですよ。ただ逗留しているだけにすぎません。私はただの通りすがりでしてね」
「ふうん……」
興味があるのかないのか、洋子嬢は前方を見据えたまま、気のない返答をしています。
「……ッてか、大和サン、ずっと気になってたこと、一ついいですかッ?」
「私に答えられることならば」
「どう考えても私より年上なのに、何で敬語なんですか? タメ口でいいですよ?」
「ああ、気になさらないでください。私はこういう喋り方しか出来ない性分なもので。気分を害されたのなら謝りますが」
「ややッ、そーゆー訳じゃないんだけど……。何か、調子が狂うって言うか……」
誰に対しても――例えそれが小学生相手でも――敬語でしか話せない私の性格に関しても、昔から度々指摘を受けて参りました。人によっては慇懃に感じる方もおられるようで、つまらない諍いの種を作ってしまうことも何度かあったのですが――幼少の頃からそうだったので、こればかりは本当に治しようがないというのが本音で。幸いにも大多数の人はすぐ慣れてくださるので、私としても本気で悩むこともなく、ここまでやってこられたのですけれど。
「――ここ、ですよね」
ぴたり、と洋子嬢の足が止まります。
目線の先には、件の断崖――危険防止の柵がぶつりと途切れた、危険極まりない危険地帯。
「そうです。昨日はたまたま私が通りかかったからよかったのですけれど……」
言いながら、私はその場所に近付いていきます。
「……危ないですよ、大和サン」
「あれ、ここ――」
柵の切れ目を観察していた私は、予期せず妙な部分を発見してしまいます。
「ほら、よく見てください。私はてっきり、雨や潮風で木材が腐ってしまったがために、柵が壊れたのとばかり思っていたのですが――ここ、おかしいですよ。これ……人工的に切断したように、見えませんか?」
ぶつりと切断された柵の端――その切断面は鋸や鉈を使用したかのように鋭利で――切断面の端、ほんの数ミリの部分だけが引きちぎったかのようにひしゃげています。
「全部を切断してしまったら、その時点で柵は外れてしまう。それでは誰もよりかかることはできないし――崖下へ落下することもない。
――これは罠ですよ。
何者かが前もって柵に刃物を入れておいて、誰かが運悪くここにもたれかかるのを待ち受けていたんです」
柵が公共のもので、ここが公道脇である以上、対象を誰かに特定するのはひどく困難でしょう。
つまり――無差別。
どこの誰かは分かりませんが、無差別にこんな危険な罠を設えるなんて、悪戯の範疇を越えています。
「これはずいぶんと悪質な――」
振り返りましたが、そこには誰もおらず。
「……すいません。学校に遅れちゃうんで」
数メートル先には、自転車を押して歩いていく洋子嬢の姿。すでに坂は登り切っているというのに、カラカラと自転車を押して、少しずつ、私から離れていきます。……遅刻が怖いのなら、自転車に乗っていけばいいと思うのですが。
~
私はここで何をしているのでしょう。
何もない町、何もない海、何もない冬、何もない――私。
それは実に平和で平凡で平坦で平均な平日の姿。
何もないことに――普通で凡庸で通常で一般的であることに、かつての私は憧れておりました。誰も傷つかない、誰も死なない、誰も動かない、誰も動こうとしない――電子計算機の原始的な指示計画のような、そんな『凪』の生活を、あれほど求めていたというのに。
神は何故、私をそっとしておいてくれないのでしょう。
私の行く先々で巻き起こる事件、騒動、現象、事象。人は何故これほどまでにつまらないことに憤り、哀しみ、拘り執着し、諍い争って――絶望して――それで、何を得るというのか。いい加減、うんざりでした。いい加減うんざりだった筈なのです。
なのに――今回もまた、私はこうしてここに留まり、私はこうして、ここに関わろうとしているのです。
私は一体、何をしているのでしょう。
「そーれにしてもアンタ、よく喰うねェ」
所変わって、再び食堂のテーブルにて。私は朝食を抜いた穴埋めとして、山かけうどんときつねそば、牛丼と炒飯という昼食を摂っておりました。もちろん、民宿の客である以上、宿泊客用の昼食は用意されているのですが――それでは必要熱量に達しないと、私は判断したのです。そう判断しての注文だったのですが――
「そこまで食べてくれると、私も気持ちがいいわァ。うん、若いうちはそのぐらい食べんといかんに。食べて寝て働いて――それが若いモンの特権なんだからねェ」
黙々と麺をすする私の傍で、ニコニコと笑っている老女。
喜代婆は、この店の店主の一人で、他でもない香織嬢の実の祖母にあたる人物。昨日の香織嬢からは、体調を崩したと聞かされていたのですが――
「あァ、そんなん、この歳になったら体のどこかしらはおかしくなるのが当たり前だら。って言ったって、いつまでもタダ飯喰って寝てる訳にはいかんし、香織や洋子チャンにもあンまり甘えとられんでねェ。――ああ、あたしの話なんてどうでもいいに。どんどん食べりん」
……この地の人は、皆一様に饒舌なのでしょうか。どうも、ここに来てから勢いに押され気味です。単に、私が寡黙なだけなのかもしれませんが。
「あの……昨日たまたまお会いしたんですが、大城洋子さんとは、どういう……」
「あァ、あの子のお父さんには昔よくしてもらってさァ。『おばちゃん』『おばちゃん』って、優しくしてもらったもんだよ。交番のお巡りさんで、歳は息子ぐらいだったんだけど、そりゃァ立派な人でねェ……。正義感が強くて、アタシだけじゃなく、誰に対しても優しくて、いつでも真っ直ぐで――ただ、ちょっと抜けてるって言うか、真っ直ぐすぎて暴走しちゃうこともあって、それが玉に疵だったんだけどねェ。
洋子チャンだって、あの子が生まれた時にはアタシ、よッくおしめ変えたもんだし――まァ、家族みたいなもんだら。現にアタシがキツくなった時とかは、洋子チャン、学校帰りに店手伝ってくれてる訳だし。孫みたいなもんだよね。正直、たまァにしか遊びにこん香織と取り替えっこしたいぐらいだに」
「それはそれは、申し訳ありませんでしたねー」
誰かの話をしていると、必ず背後からその本人が現れる――あまりにも古典的な約束事を忠実に守る香織嬢。不穏な空気とサイズの合わないエプロンを身に纏い、炒飯をテーブルまで運んできます。
「悪いけど、私にも学校がありますので。それも埼玉だから、学校終わりに手伝いに来るなんて出来ないし――ってか、せっかくの冬休みに田舎の空気でも吸おうと遊びに来てくれば、店の手伝いはさせられるわ、おまけに洋子ちゃんが孫だったらよかったって何よ!? ――あぁもう、埼玉に帰ろうかなぁ」
「そうしなそうしなァ。あたしには洋子と海人がおるに。アンタみたいな可愛くない孫なんぞいらんでさァ」
「ああそうですか。でもバイト代も欲しいしね――あと、おばあちゃんもまだ本調子じゃないみたいだから、本当は嫌だけど、仕方がないから、もうちょっと手伝ってあげる」
「可愛くない孫だねェ、ホントに」
「お祖母ちゃんに可愛がられたいなんて思ってないし」
何なのでしょう、この恐ろしく素直でない二人は。気が強いのは隔世遺伝なのかもしれません。
「ごめんなさいねェ。つまんないとこお見せしちゃって……」
「いえ――それより、件の洋子さんと海人さんのお父さんという方は、今でも交番に?」
「あァ……いや」
突然、喜代婆の顔が曇ります。何か悪いことを聞いてしまったのでしょうか。
「貴文――あァいや、洋子ちゃんのお父さんが貴文っちゅうんだけど――海人が生まれてすぐ、事故で死んじまってねェ……。ほら、あの峠から海が見えるら? あの海で溺れたらしくてさ……。まだ海人が生まれたばっかの頃だけど。
その当時は大変だったんだよォ? ひろみちゃん――奥さん、ひろみちゃんって言うんだけど――すっかり塞ぎ込んじゃって。しばらくして外に出られたと思ったら、今度はまだ小さい洋子連れて、一日中あの峠で旦那の死んだ海見てンの。まァ、さすがに今は仕事で忙しいで、ほとんど峠に寄り付かんくなったみたいだけど。ただ、洋子の方は習慣付いちまったのか、今でも毎日あの峠で海見とるんだけどね。――それにしても、あんないい人が、どうしてそんなすぐ逝っちまうんだか――今はひろみちゃんが、女手一つで子供二人育てとるみたいだけど……」
なるほど。喜代婆が体調を崩した、というのは単なるきっかけであって、父親が逝ってしまったあの海がすぐそばにある、という理由で、洋子嬢はこの店をバイト先に選んだのかもしれません。
「はいはい、昔話はもういいから。炒飯、冷めないうちに食べちゃってくださいよ?」
喜代婆の話を半ば強引に打ち切る香織嬢。何が彼女をそこまでかきたてるのでしょうか。生憎、大食いではあっても、決して早食いではないのですが。もっとも、拒否する理由もないので、言われた通りにレンゲを取る私ではあるのですけれど。
「それでは、海人君のお母さん――ひろみさんは、今何を……?」
炒飯を嚥下した後で、私はさらに質問を重ねます。
「日中は駅の売店、夜は駅前のスナックで働いてるみたいです」
「働きモンだよォ、ひろみちゃんは。全く、どっかの脳天気な大学生に爪の垢でも煎じて飲ましたいくらいだわ」
「学生の本分は学業にありますので。ってかそれ、せっかくの冬休み削って、店手伝ってあげてる孫つかまえて言う台詞かなぁ?」
またしても祖母と孫の喧嘩――に見せかけたじゃれ合いが勃発したようですが、私はそんなのお構いなしで、黙々とレンゲを進めていきます。
脳裏に横切るのは――今朝目にした、細工された柵の様子。
あの時は悪質な悪戯だとばかり思っていたのですが――
無差別ではなく、特定の相手を狙って、あの罠が仕掛けられていた、としたら?
国道から外れた坂道――いくら海が一望できるとは言え、果たして地元の人間の何人が、あの柵にもたれかかって悠長に海を眺めたりするでしょう? そんなことをするのは、余程時間を持て余した人間か、或いは、そうすることが習慣化している人間――
――とすると――まさか――
――否、やはりそれは私の考えすぎでしょうか。いくら何でも、あんな、手の込んでいる割に不確定な方法で人を殺そうとする、酔狂な人間がいるとも思えません。やはりあれは、不確定な相手を狙った、悪質な悪戯と考えるのが妥当なのかもしれません。
「そう言えば、母屋の暖房新しくしたんだねー」
「今頃気付いたの? もう二週間以上前の話だら」
「前使ってた、あのふっるい石油ストーブはどうしたの。戦前に作られたみたいなヤツ」
「ああ、あれは洋子ちゃんにあげたよ。ちょうど、あの子ンちの暖房が壊れたっていうから」
「へぇ、ドケチのおばあちゃんにしては、ずいぶん気前いいじゃん」
「……アンタには何があってもビタ一文やらんけどね」
何かと騒がしい二人の傍ら、あてのない思考を巡らせる私。そんなことに何の意味もないと知りながら――ただ黙々と、飯を、蕎麦を、うどんを口に運びながら……。
「――大和さん、伝票、ここに置いておきますよ?」
気が付くと喜代婆の姿は消え、呆れ顔の香織嬢だけが残されていました。いつのまにか頼んだ注文の殆どを食してしまっていたようです。
「食べ終わったら呼んでください。この代金は宿泊費と一緒に精算しますんで」
分かり切ったことをわざわざ付け加える彼女。ですが、ここで彼女に引き下がられても困ります。
「あの、香織さん、ちょっと言いづらいんですが」
「……何ですか?」
「追加で、親子丼と麻婆豆腐、お願いします」
目を見開く香織嬢の姿に、私は既視感を覚えたのでした。
~
『人は人を殺す動物なんだよ』
ある人は、そう言いました。
『人間って奴はみな、心のどこかで死にたがってるのさ』
別の人は、そう宣いました。
どちらが正しいのかは分からないし、或いはどちらも間違ってるのかも、どちらも合ってるのかも――私には、分かりません。
ただ、この十数年間、私は色々なモノを見てきました。
色々なモノを、見せつけられてきました。
人の――人間の生と死、そして『復活』を……。
やはり私は、早々とこの場を去るべきだったのかもしれません。自ら何をしなくても、私は何らかの形で、必ず災いを呼び寄せてしまう――そんなことは重々承知していた筈なのに。他人の生になど――他人の死などに、決して関心を持ってはならないと、分かっていた筈なのに。
まるで図ったかのように――謀ったかのように、コトは続けざまに起きるようにできていて。
長い昼食を終えた私は何をするでもなく、ただ――漫然と、店の駐車場で海を眺めていました。峠の展望台ほどではありませんが、ここからでも海は見えるのです。とは言え、木と建物とに遮られているせいで、決していい眺めとは言えず、時間帯のせいか辺りはすっかり夕闇に包まれてしまい、ろくに数メートル先も確認できない状況なのですが。
所在なげに辺りを見渡していると、視界の隅にある人物の影が横切ります。ショートカットでジャージ姿、目鼻立ちが派手な少女。
「……洋子さん、これからバイトですか?」
登校の時と同じく、自転車をカラカラと押しながら伏し目がちに店に近付いてきた彼女、私の問い掛けにビクリと体を震わせた――ように見えたのですが、それも一瞬のことで、
「あ、ハイ。昨日は遅くなっちゃったんですけど、本当はこの時間からなんですよーッ! てか、大和サン、こんなトコで何してンですかーッ!?」
「いえ……別に、ただ海を眺めていただけですけど……」
「暇なんですねッ! いいなッ! 今度、その暇な時間を私にも分けてくださいよーッ!」
可愛い顔をして容赦ないことを言っています。事実だけに反論のしようがないのですが。
懐中時計で確認すると、時間はまもなく六時といったところ。道理で暗い筈です。日はとうに沈んでしまっているのですから。
「じゃあッ、私はバイトがあるんでッ。――大和サン、いつまでもこんなところにいると、風邪ひいちゃいますよー? ではまたーッ」
自転車を店先に駐めて――後輪に四つの数字を合わせる型のチェーン錠を巻き付け――彼女は仕事に急ぎます。
仕事――かつては、私にも大切な仕事がありました。今でこそ、こんな風に放浪の旅など続けている身分ではあるのですが――昔の私と言えば、見ず知らずの誰かの為に――そして『あの人』のために――言葉通り、身を削って働いておりました。……結局、その仕事が厭になったがために、こんな旅をしている訳なのですが……。
冬の風は思いのほか冷たく、瞬く間に躰の芯を冷やしていきます。……私は、こんなところで何をしているのでしょう。このまま風邪をひくのも馬鹿らしい――そう思い始めた時、
「あれー、こんなところでなにしてるんですかー」
既視感でしょうか。数分前と同じ台詞に振り向くと、そこには数分前に現れた洋子嬢とどことなく似た顔立ちの、海人少年が立っていました。ニット帽とマフラー、そしてモコモコとしたダウンジャケットにジーンズを身に纏っています。先日とは打って変わった完全防寒の姿。
「こんばんは。……洋子さんにご用ですか? 生憎、今は忙しくて席を外せそうにありませんが……」
「ううん。今日はお姉ちゃんじゃなくって、お姉ちゃんの自転車を貸してもらおうと思ってー」
言うが早いか、先程洋子嬢が取り付けた錠を外しにかかる彼。
「友達ンちに遊びに行くことになったんですけどー、ちょっと遠いんですよねー。だったら自転車で行った方がいいじゃん、って思ってー。どうせお姉ちゃん、夜までバイトだし」
「……あの」
「へへ、お姉ちゃん、自分の誕生日を番号にしてるんですよねー」
「そうではなくて……あの、洋子さんの許可を得なくて大丈夫ですか? いくら姉弟でも、無断で自転車を拝借していくのはいかがなものかと……」
「大丈夫ですよー。こういうことはよくあるんで」
呼び止める間もなく、海人少年は自転車にまたがり、ペダルを漕ぎだしてしまいます。
「お姉ちゃんによろしくですー。風邪ひかないでくださいねー。じゃっ」
せめて挨拶くらいしていけばいいのに……そんなに急いでいるのでしょうか。パタパタとマフラーをはためかせる少年の後ろ姿を見送りながら、私はただ、その場に佇むことしか出来ませんでした。
「あれ、今誰かと話してませんでした?」
少年と入れ替わりに顔を出したのは香織嬢です。
「ええ、ついさっき海人君が。何でも、ご友人のお宅に遊びに行くのに、洋子さんの自転車をお借りしたかったとかで、すぐに行ってしまわれましたけど」
「ふぅん……そうですか」
特に興味のなさそうな香織嬢。
「お店の方はよろしいんですか」
「ええ。とりあえずピークは過ぎましたんで。元々私は洋子ちゃんが来るまでの担当な訳だし。……てか、おばあちゃん元気なら、別に私、いらないんじゃないかな……」
ぶちぶちと愚痴を垂れながらも、しっかり仕事をこなすところは流石です。根が真面目なのか、単に素直でないだけなのか。
「私はもう帰りますけど……と言うか、大和さん、こんなところで何やってるんです? 風邪ひきますよ?」
まさかこの短時間で同じ台詞を違う三人に言われるとは思いもしませんでした。そんなに私の挙動は不審なのでしょうか。不審なのでしょう。
仕事で疲れたのか、それ以上無駄なことも言わず、さっさと店に戻っていく香織嬢。……いい加減、私も戻ることとしましょうか。とっくに海は見えなくなっているのだし、これ以上塩辛い風に晒されていても、得することなど何もありません。宿に踵を返しかけた――その時。
私は、視界の隅に再び人影を確認したのです。
店から直線距離で三十メートル程離れた場所でしょうか。この風の中、Tシャツにジーンズなどといった驚くほど薄着の男性が、棒立ちでこちらを見ているのです。
――彼は――そう、確か昨日も、私は彼を目撃しています。私がこの地に着いてすぐ――件の崖の近くで……。そしてその直後、私は海人少年が崖下に落ちそうになっていたところを救出したのでした。恐らくはただの偶然なのでしょうが――少し、引っ掛かります。声をかけようかどうか、私が逡巡している間も、彼は身じろぎもせず、こちらを見つめているのです。私に――或いは、この店の誰かに用事があるのかもしれません。
――と、私の考えを遮るようにして、強い風が吹きました。
無意識に帽子を押さえました。昨日のことを思い出したのです。また風で帽子を飛ばされては堪りません。右手で帽子を押さえた私は――風の向こうに、再度、彼の姿を確認しました。突風の中、やはり身じろぎ一つせずにこちらを見つめています。たださっきと違うのは、左手を真っ直ぐ横に伸ばし、道路の向こうを指差しているところでしょうか。顔はこちらに向けたまま、です。念のために言いますが、彼が見つめる先には、私一人しかおりません。つまり彼は、私に対し、身振り(ジェスチャア)で何かを示しているのです。
――何なのでしょう。
彼が指差す先には、件の峠があります。壊れた柵があります。その先は傾斜の急な下り坂になっていて、走行量の多い国道に繋がっています。
……胸騒ぎがしました。
確信などありません。ある筈がありません。それでも、私は走り出していました。この町では、現在進行形で何かが起ころうとしている。まだ被害者は出ていないけれど――それも時間の問題でしょう。無論、私には関係のない話なのでしょうけど……それでも、ざわつく心を抑えることができませんでした。
店を離れ、大きく迂回して男性が立っていた場所にまで出ます。――が、すでに男性の姿は消えていました。昨日と同じです。私はその場を通り過ぎ、峠へ急ぎました。幸いにも、すでに風はやんでいました。
~
「ッてー……」
肩で息をする私の目前に、少年が倒れています。傍らには横倒しになった自転車。後輪がカラカラ回っているところを見ると、転倒したのはついさっきのことのようです。
「――海人君ッ! 大丈夫ですかっ!」
柄にもなく狼狽して、大きな声を出してしまいました。私の悪い予感は、半ば的中してしまったようです。
「んー、何とか、ダイジョウブ……」
そう呟いて、少年は小柄な体を起こします。
「怪我は……怪我はありませんか?」
「だから、ダイジョウブだってば……。ちょっと転んだだけだから……」
目を伏せ、海人少年は呟きます。バツが悪いのでしょうか。でも確かに、ジーンズに厚手のダウンジャケットという完全防備のおかげか、怪我はなさそうです。
「――一体、どうしたっていうんですか……?」
思わず、聞いてしまいました。聞いたところで、彼自身よく分かってないようでしたが。ヨロヨロと立ち上がり、ジーンズに付いた砂をパッパッと払いながら、
「……壊れてた」
ひどく小さな声で、ひどく簡潔な言葉で、彼はそう呟きました。
「え?」
「壊れてた。自転車。――ブレーキが、効かなくて」
ポツリポツリ、といった感じで、言葉を漏らす海人少年。
「自転車が――壊れてた?」
店からここまでは比較的平坦な道が続き、大きな交差点も、急なカーブもありません。つまり、彼はこの下り坂に差し掛かって初めて、ブレーキの故障に気が付いた訳で――でも、それならば、
「……よく、これだけで済みましたね……」
少年が倒れていたのは坂の中腹です。運が悪ければ――否、よほど運が良くない限り、自転車は加速を続け――大型車両が絶えず行き来する国道に突入していた筈で。
「急に……風が、吹いて」
そうでした。
私がここに来るまで、ひどい突風を受けていたのでした。もちろん、近い位置にいた海人少年も同様だったのでしょう。ブレーキの壊れた自転車で坂にさしかかった瞬間に強い風を受け、バランスを崩し、転倒して――彼はまたしても、すんでのところで危機を回避することができたのです。
「――カイトッ!」
私が嘆息する間もなく、悲痛な叫び声が空気を劈きました。振り返ると、洋子嬢がそこに立っています。全速力で走ってきたのか、肩で息をして、夜道でもそうと分かるぐらいに顔面を蒼白にして。
「アンタは――アンタはなんで……」
言葉を詰まらせながら、彼女はツカツカと、少年との距離を縮めていきます。私の存在などは無視して、自転車の傍らに棒立ちとなる少年の前に立ち、
――パァン――
その頬を、平手打ちして。
「アンタはなんで――アンタはなんで、そうなのッ! 死ぬトコだったんだよッ!? ヒトの自転車勝手に持ってって、それでこんな――こんな――」
昨日と同様、随分と激昂しているようです。……やはり、少し狼狽しすぎの感は否めませんが……。
「全く、運が良いんだか悪いんだか……目が離せない子だねー」
いつの間に到着したのか、香織嬢が背後で呟いています。何だか呑気な口調。結果的に軽傷で済んだのですから、よかったと言えばよかったのですが……。
ただ、気になることが一点。
少年が乗っていた――洋子嬢の、自転車。『ブレーキが壊れていた』、と少年は言いました。確かに、それはそうなのでしょう。とは言え、自然発生的なモノと人為的なモノでは、全く意味合いが変わってくる訳で。
――件の自転車、ブレーキワイヤーが鋭利な刃物でブツリと切断されておりました。
昨日の峠の柵同様、この事故は何者かに仕組まれたものだったようです。