第二章 伍(過去)
「最初は、別の人がやられてたんです。みんなで無視したり、物を隠したり、教科書とかにイタズラ書きしたり――最初のうちは『ああ、ヤだな』と思ってるだけだったんですけど……結局、何もできなくて、横で見てるだけで……。だけど、それがだんだんヒドくなってきて、さすがに我慢できなくなって――言っちゃったんです。『ヤメなよ』って。『こんなヒドいことして、何が面白いの? 他にすることないの!?』って……。
そしたら、次の日から標的がこっちに移ったらしくって……。一旦狙われたら、もうダメなんですよね。反抗しても、お願いしても、泣いても笑っても、もう許してもらえない。何をしても向こうを喜ばすだけで……。途中で、気が付いたんです。無視するのが一番だって。何をされても無反応で、何を言われても無表情で。そうすれば向こうもツマラナイし、こっちだって、気が楽、だし……」
嘘だった。
どれだけ無反応に、無表情に応対したところで、体の痛みが、心の痛みが消える訳ではない。いくら何でも、そこまで鈍くなれない。攻撃する方は、何も感じてないと言うのに。こちらがどれだけ悲惨な目に遭おうが、こちらがどれだけ悲痛な表情をしようが、何も感じようとすらしないと言うのに。
想像するだけで、ゾッとする。
奴らは、何故ああも鈍いんだ。どこまで神経を鈍磨させたら、あそこまでヒドいことができるのだろう。イジめられる側になって、始めてその事に気が付く。
『イジメ』なんて、全国の学校で行われていることだ。日本には無数の学校があって、無数の学級があって、無数の集団がある。もちろんその全てでイジメが行われている訳ではないだろうけど、それでも、イジメは無数にあって、無数の被害者がいて、そこには無数の傷があって。
何故、気付かない。
何故誰も、その傷に対して、真剣に向き合おうとしないんだ。
今日も明日も明後日も、無数の人間が無期限の攻撃に晒され、無限に傷を増やし、生気を削られ、表情を削ぎ落とされていると言うのに。
せめて――誰か一人でも、味方がいたならば。
イジメ自体をなくすのが無理でも、全てを理解し、許容し、支え、励まし、光を与えてくれる人間がいたならば。きっと、どんな痛みにも耐えられる。
少なくとも、自分は。
ちょっとだけでいい。
ちょっとでいいから、優しい言葉をかけてくれるなら――自分は、耐えられるんだ。
「そう、か――」
夕陽の差し込む教室で。
自分は今、担任教師と対峙している。彼はこちらが一方的に話している間、何も言葉を挟まず、黙って聞いてくれていた。年は二〇代後半だろうか。理系の人間らしく、顔色はいつも青白くて、ひどく痩せている。ぱっと見には頼りない感じのする人だけど――少なくとも、今の自分には、この人しか頼る人間がいなくて。
この人だけが、味方だった――筈なのだけど。
「ううん……難しい、なァ」
困惑し、俯いて頭を掻いている。
「『難しい』……?」
「いや、今ウチのクラスで何が起きているのかは分かったよ。これは重要な問題だし、すぐにでも何とかしなきゃいけないとは思う。だけど――さ、俺が出てって『ヤメロ』なんて言っても、きっと逆効果になるだけだよね? 教師が出てって解決するなら、社会問題になったりはしない」
それはそうだ。――それはそう、なのだけど。
「だったら、あの、先生たちで相談してもらって――」
「もちろんそうするよ。そりゃね。だけど……ううん」
腕を組み、思案しながら言葉を選んでいる。何だか、嫌な予感がした。
「そりゃ、俺はいいよ。うちのクラスの問題なんだから。ある程度は尽力するつもりでいるけど――でも、そしたらさ――きっと、問題が大きくなると思うんだよね。他の先生に話すってことは、もうその時点でうちのクラスの問題ではなく、学校全体の問題になるってことだ。親御さんとか、PTAも口出ししてくるし、ひょっとしたら教育委員会も動き出すかもしれない。いや、もちろん俺はいいんだけどさ。お前がそれに耐えられるかどうか……」
スッと――血の気が引いていく音がした。
駄目だ。
この人じゃ、駄目だ。
露骨に迷惑がっている。言葉を選んで言い訳めいたことを言っているが、要するに、自分のクラスから問題を出したくないのだ。大学を出たてのこの教師は、自分の評価の方が大切なのだ。
いつもはどの生徒にも分け隔てなく接し、親身になって相談に乗ったりしているくせに――それもこれも、結局は自分のためにやっていることで、本当に生徒のことを考えている訳ではないのだ。
「……じゃあ、黙ってイジメに耐えてろ、って言うんですか……」
「そうは言ってないだろ。もちろん、精一杯の努力はするさ。だけどさ……まあ、こんなことは言いたくないんだけど、ほら、やられる方にだって、全く問題がないとも言い切れないだろう? ある程度は、お前の方でも努力する部分があるんじゃないのかな」
人の話を聞いてなかったのだろうか。
元からあったイジメを止めに入ったら標的が自分にシフトして――そのどこに、非があると言うのか。逆らっても抗っても、媚びても頼んでも、流しても無視しても駄目だったと言うのに、これ以上、自分にどう努力しろと言うのか。
担任の話すそれは一昔前に流布した一般論で、それは今回のケースには全く当てはまらなくて――要するに、暗に自分は関わりたくないという意思表示をしているだけなのだ。
何だか――ひどく、力が抜けた。
「……そうですね……」
可笑しくないのに、楽しくないのに、何故か口元が綻ぶ。
「そうですよね……こっちにだって、問題があるかも、ですよね。そうですよね。うん。分かりました……」
途端に馬鹿馬鹿しくなって、さっさと話を切り上げた。
その後も担任はグダグダと何か言っていたが、あまり覚えていない。何だか、意味のない言い訳だか説教だかをしていた気がするけど――もう、どうでもいい。
早く帰りたかった。
もう暗いから送っていこうかと言われたが、断った。こっちは早く一人になりたいのだ。第一、夜道と言っても、農道だ。見晴らしはいいし、今夜は月が出ているため、そんなに暗い訳でもない。だいたい、学校から家まで、徒歩で三〇分くらいなのだ。わざわざ車で送ってもらうほどの距離でもない。
ひどく寒々とした気分で、学校を出た。
「……君、こんな時間に、何してるの?」
背後からの距離に、少し飛び上がる。後ろから自転車が来ていることには気が付いていたけれど、まさかいきなり声をかけられるとは思わなくて。
「――学校の、帰りですけど……」
心臓をドキドキさせながら振り向くと、そこには自転車にまたがったお巡りさんの姿。若そうだけど、随分と目つきが悪くて、睨まれただけで不安な気持ちになる。
「こんな時間に一人で歩いてたら、危ないよ?」
鋭い眼光とは対照的に、口調はやたら親しげだ。でも、やはりお巡りさん相手だと警戒してしまう。腰から提げる警棒とか、拳銃ホルダーとかが、妙に威圧的。胸ポケットから覗く変なキーホルダーだけは妙にカワイイけど――やっぱり、初対面でいきなり馴れ馴れしくなんてできない。向こうは仕事だし、子供相手だから敢えて砕けた口調にしているのかもしれないけど。新畑さんとか、知ってる人ならよかったんだけど。
「あ、大丈夫です。家まで、もう少しなんで……」
「それもそうだね。じゃあ、気をつけて――」
あっさり引き下がって、そのまま自転車で去っていく。こんな農道までパトロールするなんて、仕事熱心な人だ。何だか、こちらのことを知っているみたいな口ぶりだったけど――親の知り合いか何かかな? それにしては若かったけど。新畑さんと同じ交番なのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えながら、暗い夜道を歩いていると――不意に、気分が深く沈んでいく。
どうしようもなく、一人だ。
どうにもならない。
何も変わらない。
誰も、頼りにできない。
体が、ズン――と重くなる。
どうなってもいいから――早く、楽になりたかった。