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雫の欠片

狩人になれる場所まで

掲載日:2026/10/06

 アイリスは馬車に揺られていた。

 荷台の端に腰を下ろし、壁にもたれて、床板の上で跳ねる小石をぼんやりと見つめる。


 目を閉じたくなかった。

 静かな場所にも、いたくなかった。


 黒い裾。

 何度呼んでも返らなかった声。


 こうして目を開け、絶えず何かの音に触れている間だけ、あの光景が少し遠のいた。


「暗い顔をしても、暗くなるだけだ!」


 向かいに座る大柄な男が、突然声を張り上げた。

 その大きさに、鼓膜が震える。


「もっと明るく──」


 肩へ伸びてきた大きな手に、身体が強張った。

 男の手が、ぴたりと止まる。


「……悪い。無理に明るくならなくていい!」


 手を引っ込めた男は、今度は荷物を漁り始めた。


「だが、腹が減っていたら元気になれるものもなれん!食え!」


 渡されたのは、くすんだ黄土色の塊だった。

 手のひらに収まるほどの大きさで、表面には細かなひびが走っている。ところどころから、木の実や穀粒が覗いていた。


 焼き固めた麦菓子のようにも見える。

 けれど、香りはほとんどしない。


 アイリスは一口かじった。


 あっという間に口の中の水分をすべて持っていかれて、思わず咳き込む。


 男が笑った。


「どうだ!食べられなくはないだろう!」

「せめて、水も一緒に渡してあげてください……」


 眼鏡の男が呆れたように言いながら、水筒を差し出す。


 アイリスは素早くそれを受け取り、口の中へ水を一気に流し込んだ。


「集落に着いたら、もっといい物を食べさせてやる!」


 男に言われ、アイリスは小さく頷いた。


 空腹は感じなかった。

 それ以上、食べる気にもなれない。


 残った分を包み直し、ポケットに押し込んだ。


 白地に金の刺繍が施されたローブの女性が、困ったように口を開く。


「保護したはいいけど、先にどこかの街に預けた方がいいんじゃないの?これから討伐依頼だというのに、この子を連れて行くのは……」

「問題ない!まずは集落まで連れていく!その先は現地を見て決める!」


 男は迷いなく言い切り、豪快に笑った。


「まったく。最初からそう言ってくださいよ……」


 眼鏡の男がため息をつく。


 アイリスが三人を順に見つめていると、女性が苦笑した。


「いつものことよ」


 呆れたように眉尻を下げながらも、その目には穏やかな色があった。


 その時だった。


 ぽつ、ぽつ、と雨粒が幌を叩き始めた。

 乾いた布地に落ちるたび、小さな音が馬車の中まで響く。


 その間隔は次第に狭まり、ほどなく絶え間のない音へと変わった。


 アイリスは膝を抱えた。

 雨音が、耳を満たしていった。


 *


 馬車が止まった。

 どうやら、集落に着いたらしい。


 アイリスは外に目を向ける。


 そこは、まるで水の中に沈んだような場所だった。

 家々の壁は黒く濡れ、軒先から落ちる雫が絶え間なく地面を叩いている。


 馬車に、集落の者らしき人物が一人、歩み寄ってきた。

 それを見た男が、荷台から身を乗り出す。


「Aランクパーティー、紅蓮の風だ!」


 名乗ると、その人は顔を上げた。

 目深に被ったマントのフードの下で、老人の表情がほころぶ。


「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」


 男は馬車から飛び降りた。

 雨に打たれるのも構わず、老人の後をついていく。


「風邪、ひきますよ」


 眼鏡の男が声をかけるが、男は振り向いてにっと笑うだけだった。


「まあ、なんとかは風邪をひかないといいますが……」


 ひっそりとため息をつき、眼鏡の男はローブのフードを被る。

 そして男の背を追い、馬車を降りていった。


 残されたアイリスが視線を向けた先では、女性がまとめられた荷物をほどき、中身を荷台へ乱雑に放り出していた。

 やがて何かを見つけ、その手を止める。


「あった」


 取り出したのは、雨除けのマントだった。

 黒い布が目の前に広がり、アイリスはびくりと肩を震わせる。


 女性の手が止まった。


「……やっぱり、こっちにするわね。大人用だから、少し大きいかしら?」


 女性は黒いマントを荷物へ戻し、代わりに藍色のものを取り出した。

 それを、アイリスの頭からすっぽりと被せる。


 先に馬車を降り、こちらへ手を差し出す。


 アイリスは少し迷ってから、その手に自分の手を重ねた。


 荷台から降りると、靴がぬかるんだ泥道へ沈んだ。

 そのまま女性に手を引かれ、先に向かった二人の後を追う。


 案内されたのは、集落の長の家だった。


 丸いテーブルを囲み、腰を下ろす。


 玄関には、脱いだローブやマントが掛けられていた。

 その裾から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。


「“集落付近に棲みついた魔獣の群れを討伐してほしい”ということでしたが、間違いありませんか?」


 眼鏡の男が尋ねると、老人は頷いた。


「魔獣が、雨を降らしとるんです」


 深く息を吐いた。


「雨が続き、地盤が緩み、崩落が増えとります。このまま大規模な崩落が起こる前に……魔獣を倒してはくれませぬか」

「雨を降らす魔獣……聞いたことはある?」


 女性の問いかけに、眼鏡の男が首を横に振った。


「初耳です。一度、調べる必要がありますね」

「よし!」


 黙って話を聞いていた男が、勢いよく立ち上がる。


「俺は詳しい話を聞いて回る!魔獣の調査は任せた!」

「分かりました」


 眼鏡の男も、テーブルに手をついて立ち上がった。


「私は、この子を見てるわ」


 女性が、アイリスの椅子の背に手を添える。


 男は親指を立て、歯を見せて笑うと、雨の中へ飛び出していった。

 その後を追い、眼鏡の男もゆっくりと玄関を出ていった。


 *


 二人が戻ると、集めた情報の共有が始まった。


 集落の長から借りた部屋。

 テーブルの上には、周辺の山々を描いた地図が広げられている。


「最近、山の木が急速に枯れているそうだ!」


 男が腕を組んだまま告げた。


「街道には燃える足跡!夜になると、山から何頭もの山羊(やぎ)の鳴き声が聞こえるという話もあった!」


 眼鏡の男が、くいっと眼鏡を押し上げる。


「アシュホーンですね」

「……それは何?」


 女性が首を傾げた。


「樹皮や樹脂を主食とする魔獣です。本来は山を越えて移動しながら、少しずつそれらを食べ、古い下草を焼いて去る習性があります」

「以前にもアシュホーンは来たが、山を越えて去っていったと言っていた!」

「その件ですが──」


 眼鏡の男が、地図の一か所を指した。


「古い峠道が、崩落で塞がれていました」


 指先を、地図に描かれた山の上へ滑らせる。


「そのため山を越えられず、同じ場所に留まり続けているのでしょう」

「それで、食べ過ぎて木を枯らしてしまったと?」


 女性が、わずかに肩をすくめた。


「はい。ですが、木を枯らしている原因は、食害だけではありません」


 眼鏡の男は続ける。


「アシュホーンは、食べた樹脂から特殊な油脂を作り、それを蹄の裏にある腺から分泌します。その油脂は空気に触れて数秒経つと自然発火する。それが、燃える足跡の正体です」


 その言葉に、女性がはっと顔を上げる。


「そんなものを出しながら群れで歩き回っていたら、山火事になるんじゃ……」

「すでに山の広い範囲で、木々や草が焼けています。雨を受け止めていたものが失われ、地表も剥き出しになっていました」


 眼鏡の男が静かに息をつく。


「そこへ大雨が降れば、土は水とともに斜面を流れ落ちます。長雨によって緩んだ山肌そのものが崩れ落ちかねません」


 部屋の隅に座り、話を聞いていたアイリスはそっと顔を上げた。


「さらに、山火事で熱せられた空気が湿った空気とともに上空へ押し上げられ、雲を生むことがあります。今回はそれによって、局地的な激しい雨が降っている可能性もあります」

「それが、崩落を増やす最後の一押しになったということね」


 女性が、唇に指を当てる。


 眼鏡の男は頷き、地図の上で集落を指した。


「そのうえ、この集落は盆地にあります。周囲の山から雨水が流れ込みやすく、逃げ場も少ない」


 その指を動かし、集落を囲む山々を順になぞっていく。


「現在の状態では、アシュホーンを討伐しても危険は消えません」


 しん、と部屋が静まり返った。


 女性が髪を払い、ため息をついた。


「その、アシュホーン?どうして自分は燃えないのよ」

「アシュホーン自身は、炎に耐える分厚い皮膚と特殊な毛を持っています。炎の中を歩いても平気なんですよ」

「何それ……」


 女性はいかにも釈然としない顔で、肩を落とした。


「じゃあ、雨は?雨のおかげで、山火事も防げるんじゃないの?」

「アシュホーンの油脂は水を弾き、雨に濡れても発火します。燃焼温度も高いので、一度燃え始めれば簡単には消えないんです」


 男がぱん、と両手を打つ。


「この集落自体が危険だと分かった!依頼内容について、もう一度依頼主と話し合おう!」


 二人が頷きを返した。


 *


 雨は勢いを緩めたものの、なおも降り続いていた。


 長の家に、集落の代表者たちが集められた。

 アイリスは燃える暖炉のそばで、その様子を見守っていた。


「それで、話というのは何でしょう?」


 長の老人に問われ、男は口を開いた。


「依頼内容の見直しを願いたい!」

「……はい?」


 集落の人々が顔を見合わせる中、眼鏡の男が一歩前へ出た。


「現在、大きく二つの問題が起こっています」


 人差し指を立てる。


「一つは、皆さんもお気づきのことと思います。この集落には水が溜まりつつあり、すでに低い場所は冠水しています。次に大雨が降れば、ここはもう持たないでしょう」


 続けて、中指を立てた。


「もう一つは魔獣についてです。餌を求め、山の上から集落に近づいています。このまま群れが集落を通れば、家々は火に包まれかねません」

「両方とも、魔獣を倒せば解決するんじゃないか?」


 集まった者の一人から、そんな声が上がった。


「魔獣を討伐しても、雨がやむとは限りませんし、緩んだ地盤がすぐに元へ戻るわけではありません」


 眼鏡の男が老人に視線を向ける。


「このまま雨が続けば、集落そのものが土砂に埋まったり、水没したりするおそれがあります」


 老人は痛ましげに目を伏せた。


 眼鏡の男は、周辺の地図を掲げる。


「それだけではありません。唯一の街道が崩れれば、避難も物資の搬入もできなくなります」


 これまでにも経験があるのか、集まった者たちの顔が強張った。


「そして、例の魔獣──アシュホーンですが、人を襲う習性はありません。古い草を焼き、新しい植物が育つ環境を作る役割も持っています。全滅させれば、別の環境問題が起こる可能性があります」


 眼鏡の男が言い切ったところで、男が口角を上げた。


「そこで!」


 全員の視線が集まる。


「“住民の一時避難の補助”と“アシュホーンの群れを本来の移動経路へ戻す”!この二つを、今回の依頼内容としてもらいたい!」

「雨と崩落の危険が去るまで、近隣の安全な村へ一時避難していただくのがよいと思います」


 眼鏡の男が、すかさず補足する。


「また、魔獣は本来の移動経路を塞がれたため、同じ場所に留まっているだけだと分かりました」


 地図をテーブルの上へ広げ、山の一角を指した。


「崩落した峠道の手前から、無人の尾根へ抜ける道があります。その道を使って迂回すれば、峠の先で元の移動経路へ戻すことができます」


「けどよ……家を空けたら、盗難に遭うんじゃ……」

「家畜や仕事道具も置いていけないぞ……」


 次々に、不安の声が上がる。


「なら、荷車を増やして、持ち出せる家財を増やす!」


 男が即座に答えた。


「家畜も一緒に連れていく!運べない物や道具は、なるべく高い場所や頑丈な建物へ移しておこう!留守の間は、狩人への巡回依頼も手配する!」


 それでも、集落の人々の表情は晴れない。


「安全な村って……そんな簡単に受け入れてもらえるわけが……」


 その時、玄関扉が音を立てて開いた。


 女性が入ってくる。

 濡れたローブを軽く払うと、集まった面々へ目を向けた。


「避難に使用する街道はまだ無事よ。近くの高台にある村で、受け入れ場所も確保してきた」


 女性が振り返る。

 その後ろで、マントのフードを被った二人の狩人が、軽く手を挙げた。


「村に滞在していた狩人二人にも、アシュホーンの誘導を手伝ってもらえることになったわ」

「よし!」


 男が集落の人々の顔を見渡す。


「他に、不安な点はあるか!」


 しばしの沈黙。


「……先祖代々の土地だ。離れたくない」


 ぽつりと声が上がった。

 別の場所からも、弱々しい声が続く。


「今まで大丈夫だったじゃないか。きっと今回も……」

「家を捨てろと言ってるんじゃない!」


 男の声が響き、ざわめきが止まった。


「戻ってくるために、今だけ離れるんだ!」


 拳を握り、胸の前に掲げる。


「元どおりになるとは言えん!だがここに残っても、家を守れるとは限らない!」


 その拳へ、さらに力が込められた。


「生きてなんぼだろう!」


 室内に沈黙が落ちた。

 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。


 やがて、長の老人が重い口を開いた。


「……狩人さんの言うとおり、避難を実施いたします」


 反対の声は、上がらなかった。


 *


 パーティーは二手に分かれ、それぞれの役割についた。


 一方は、数十人の住民と家畜、荷車を護衛する。

 もう一方は、応援に来た狩人たちとともに、アシュホーンの群れを無人の尾根へ誘導する。


「俺は護衛だ!」


 男は背中に担いだ斧の柄に触れ、胸を張った。


「では、私は魔獣の誘導を行います」


 眼鏡の男が、眼鏡の中央を指で押し上げる。


「私は護衛ね」


 女性も笑みを浮かべた。


 方針が決まってからも、やることは多かった。


 住民一人ひとりから事情を聞き、持ち出す物を決める。


 家畜をどう連れていくか。

 何を残し、何を運ぶか。


 アイリスも家々を回り、荷車に荷物を積むのを手伝った。


 最後に、老人や子どもたちが荷車へ乗せられる。

 歩ける者は家畜を引き、必要な物を背負った。


「出発するぞ!」


 こうして、集落の住人たちの一時避難が始まった。


「お前は馬車の中にいろ!何か起きても、勝手に飛び出すな!」


 男に言われ、アイリスはマントの前を掻き寄せて頷いた。


 小雨の中、列はゆっくりと進んでいく。


 しばらくは何事もなかった。

 だが、道半ばを過ぎた頃から、雨脚が強くなり始める。


 誰もが暗い表情で黙り込み、雨音だけが一行を包んでいた。


 アイリスは荷台から、後ろへ続く列を眺めていた。

 その視界の端で、小さな岩が一つ、ころりと斜面を転がった。


 次の瞬間、地面が大きく揺れた。


 山肌が崩れる。

 轟音とともに、土砂が斜面を駆け下りてきた。


 雨水を大量に含んだ土砂は、濁流のように押し寄せる。

 その先には、子どもたちを乗せた荷車があった。


 アイリスは目を見開いた。


 気づけば立ち上がり、手を伸ばしていた。

 舌を噛みそうなほどの速さで詠唱する。


 荷車と斜面の間に、氷の壁がせり上がった。

 直後、土砂が氷壁へ叩きつけられる。


「氷!?」


 誰かの驚く声が聞こえた。


 激しい衝撃に、氷壁全体が軋んだ。


 壁に遮られた土砂は左右へ分かれ、荷車と大人たちとの間を流れていく。


 斜面から押し寄せる土砂は止まらない。

 一瞬で氷に亀裂が走った。


「だめ……!」


 気づけば、身を乗り出していた。

 そのまま、馬車の荷台から転げ落ちる。


 泥に手をつきながら顔を上げ、再び氷壁へ手を伸ばした。


 男が駆けた。

 流れる土砂を飛び越え、氷壁に守られた荷車のもとへ降り立つ。


「受け止めろ!」


 背中から斧を抜き、荷車の底を斧の背で叩き上げる。


 荷車が宙を舞った。

 大きく傾いた荷台から、子どもたちの身体が土砂の向こう側へ投げ出される。


 その下へ、淡い光が広がった。

 女性の作り出した光の盾が、落下の勢いを和らげる。


 待ち構えていた大人たちが駆け寄り、次々とその身体を抱き止めた。


 最後の一人が大人の腕へ収まった直後、氷壁が砕け散る。

 荷車が土砂の中へ落ちる。


 男はすぐに地面を蹴り、押し寄せる土砂からぎりぎりのところで離脱した。


 轟音が、辺りを埋め尽くした。


 やがて、土砂の流れが止まった。

 積もった土砂の中から、押し潰された荷車の一部が覗いていた。


 震えながらその光景を見つめていたアイリスのもとへ、男が歩み寄ってくる。


「勝手に飛び出すなと言っただろう!」


 叱る声に、アイリスの肩が跳ねた。


 男は息を呑んだ。

 それから、ゆっくりとアイリスの前にしゃがむ。


「……だが、怖かっただろう。よく手を伸ばしたな」


 そう言って、歯を見せて笑う男を、アイリスは見上げた。


 安全を確かめると、男と大人たちは街道の復旧に取りかかった。

 少し離れた場所では、子どもたちがアイリスに向かって手を振っている。


「ありがとう!」


 雨音にも負けない声が届いた。


 アイリスは、ただ目を瞬かせた。


 胸の奥で何かが動いた気がする。

 けれど、それが何なのかは、まだ分からなかった。


 *


 集落の住民たちは、誰一人欠けることなく、安全な村に辿り着いた。


 ほどなくして、アシュホーンの誘導に向かっていた眼鏡の男たちも戻ってきた。

 群れは無事に尾根を抜け、峠の先へ去っていったという。


 眼鏡の男は、煤で汚れたローブを払いながら、やれやれと息をついていた。


 住民たちは村の人々に温かく迎えられ、狩人たちへ何度も頭を下げていた。


 安堵した表情で荷車から荷物を下ろす人々を、男は腕を組んで眺めている。


 アイリスは、そっと男の服を引いた。


「……魔獣を、倒さなかったのに」

「ん?」

「みんな、ありがとうって言ってた」


 男は一度、瞬きをした。

 そして、豪快に笑う。


「魔獣を倒すだけが仕事じゃない!困っている奴がいたら、そいつが明日から少し楽に生きられるようにする。それが、俺たち狩人だ!」


 困っている人が、明日から少し楽に生きられるように。

 その言葉が、胸の奥で何度も反響した。


「……おじさんより強い狩人も、いるの?」

「いるぞ。Sランクって化け物がな!」


 その声音に、嫌悪はなかった。

 圧倒的な力への畏れと、どこか誇らしげな敬意が滲んでいる。


 アイリスの瞳に、かすかな光が宿った。

 男をじっと見上げる。


「Sランクなら……誰でも助けられる?」


 男は、そこでふっと笑みを消した。


「誰でも救える奴なんていない」

「……そう」


 アイリスの表情から、ゆっくりと光が消えていく。


 男は続けた。


「だが──強くなれば、手を伸ばせる相手は増える!」


 アイリスはしばらく黙り込んでいた。

 やがて、顔を上げる。


「だったら、私……Sランクになる」


 子どもたちを助けるために駆けた男の背中が、今も脳裏に焼き付いている。


「私を、狩人になれる場所まで連れていってください」


 男が、にやりと笑った。


「だったら、グランゼリアに行くか!」

「……グランゼリア?」

「狩人本部がある!狩人を目指すなら、あそこが一番だ!」


 男はアイリスの頭に、大きな手を置いた。


「暮らす場所も、俺が話をつけてやる。安心しろ!」


 その瞬間、張りつめていたものが音もなく崩れた。


「……あれ?」


 ふいに視界が滲む。

 一度こぼれた涙は、もう止まらなかった。


 袖で目元を拭う。

 それでも、拭うそばから涙が溢れてくる。


 自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。


 男は何も言わなかった。

 頭に手を置いたまま、アイリスが泣き止むのを、ただじっと待っていてくれた。


 しばらくして。

 ようやく涙が収まった頃には、住民たちは荷下ろしを終え、男たちの出発の支度も済んでいた。


 男はアイリスの脇の下に両手を差し入れると、軽々と持ち上げ、馬車の荷台へ乗せた。


「さて、帰るぞ!いろいろ変更があったからな。報告して、今後の対応も相談せねば!」


 男も荷台に乗り込み、アイリスの向かいに腰を下ろした。


 再び馬車が走り出し、荷台が揺れる。

 アイリスはもう、床板の上で跳ねる小石を見てはいなかった。


 御者台の向こう。

 山を縫って伸びる道を、じっと見つめていた。

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