わたしのバレエシューズ
まだ保育園に通っていたころ、わたしはバレエを習っていた。毎週土曜日に、お母さんが車でバレエスタジオに連れて行ってくれた。そこで出会う女の子たちとは、最後まで仲良くなれなかった。みんなつんとすました顔をして、髪の毛をきっちりと頭の上でおだんごにまとめていたので、なんだか近寄りにくかったのだ。
わたしも、お母さんに髪をむすんでもらって、ピンクのチュチュを着て、体をうんとのばしたり、つま先で立つ練習をした。足元は、買ってもらったバレエシューズ。はじめてはいた時は、シューズが真珠のようにぴかぴか光っていて、まるで自分がお姫さまになったみたいな気持ちがした。でも、そのうちシューズはくたびれて、灰色になった。
毎週毎週練習して、数ヶ月後には本番があった。控え室でお化粧をしてもらい、大人の女の人のような顔になったわたしたちは、おそろいの真っ白なチュチュを着て、いつものバレエシューズをはいて、おだんごにした髪には宝石をあしらった花の飾りをつけた。鏡を覗きこむと、頭の花がきらきらと輝いたので、わたしは嬉しくなった。
本番といっても、わたしたちは並んでちょっと踊るだけ。舞台の真ん中で華々しく目立つのは、きれいなお姉さんとお兄さん。そして、わたしたちの中で一番上手い子だけが、まん中でおどることを許されていた。
本番が始まる少し前に、わたしたちはぞろぞろと舞台袖に向かう。そこは真っ暗で、互いの顔も、影も見えなかった。舞台袖ではしゃべったり、音を立ててはいけないと言われていたので、わたしたちは口を両手でふさいで出番を待っていた。
ふと舞台の音楽が止んだ時、わたしは真っ暗闇の中に誰かがいると気がついた。分厚い緞帳の他には何もないはずのそこで、暗闇がさらに濃くなった気がしたのだ。そして、ひそやかな息づかいと、足を踏みかえる音がした。
向こうも、わたしが見ていることに気がついた。それで、わたしにそっと呼びかけた。低くて、静かで、でもあたたかい声だ。
「この中で、一番おどりが上手いのは、だれ?」
わたしはその答えを知っていた。舞台の真ん中でおどる、みどり幼稚園のまいちゃんだ。だれに聞いても、きっとそう答えただろう。けれど、わたしはちがうことを答えた。
「わたし。一番おどりが上手なのは、わたし」
そう言い終えた瞬間、真っ黒い影が手の形にぬっと伸びて、わたしの手をそっとにぎった。ひんやりして、やさしい手だった。
「では、いっしょに来て」
わたしがはいと答えるよりも先に、影はわたしをすっぽりと包み込んだ。
気がついた時、わたしは舞台袖でもホールの中でもなく、寒い冬の街中に出た。影がわたしを隠していたから、だれにも気づかれず、空を飛ぶ烏のような速さで街を抜け、知らない場所をいくつも見た。
影は、わたしに何度も問いかけた。
「怖くない?」
そのたびに、わたしはこう答えた。
「平気」
すると影は、わたしの手をしっかりとにぎって、やさしく振った。
そのうち、わたしは自分の姿が変わってきていることに気がついた。
影の手を取る、わたしの白くて長い指。ぐんぐん伸びていく両手両足。いつの間にか大人サイズになった、わたしの足にぴったりのバレエシューズ。いつものチュチュは、きらきら光る真っ白なドレスに変わっていた。風が吹くと、ドレスのすそもふんわり広がった。
「すてき!」
と声をはずませたのは、わたし。プリマドンナのお姉さんになった気分だった。そのうち、影と一緒に走ることに慣れて、わたしは移動しながらステップを踏んだ。
影がわたしを連れてやってきたのは、大きくて古いお城だった。影が音もなく窓から中に入る。わずかに風がまいこみ、ほこりをたてた。
まるで大人になったわたしの、本当の影のようにぴったりと側についてくれる影は、優しい声で言った。
「いいこと、これから会うのは、とあるご身分の高いお方。ご病気に伏せって、生きる望みをなくしてしまったのです。どうか、あなたのおどりで、楽しませてあげてほしい」
舞台袖での問いかけの意味を知ったわたしは、少し怖くなった。本当は、一番バレエが上手いまいちゃんか、プリマドンナのお姉さんがここに来なくてはいけなかったのだ。
でも、影は、わたしを励ましてくれた。
「あなたなら、きっと大丈夫」
そして、影は、わたしと手をつないで、月光が差し込む長い廊下を歩いた。
お城の階段をいくつか登り、大きな扉の前に来た。影が音もなく扉を叩くので、わたしも真似をした。中から声があったので、銀の取っ手を握って中に入った。
そこにいたのは、つまらなそうな顔をした男の子。天蓋ベッドに横になって、わたしを
ぼんやりと見ていた。金のかんむりをかぶっていたので、王子さまか、王さまなのだと思う。彼のそばにいたおじいさんが、わたしに言った。
「このお方のために、おどってください」
わたしはおどった。音楽もなく、先生もいない、王子さまの部屋で。バレエスタジオで習った振り付けや、保育園でみんなとおどったダンス。王子様は、黙ってわたしをしげしげと眺めていた。彼が指でこっそり拍子をとっていることに気がついて、いっそう夢中になって激しくおどった。
けれどもとうとう足がもつれて、ばったりと転んでしまった。
「あっははは!」
王子さまが笑う。
「もっとおどって。ね、もっとだよ」
わたしは何だか楽しくなって、王子さまのおねだりに答えておどる。いつのまにか、おじいさんはいなくなっていた。影も、どこかに隠れているのか、もういってしまったのか、気配を感じない。
横になったままの王子さまが、ぽつんと言った。
「あなたのようにおどることができたらよかったのに」
その声が寂しそうだったので、わたしはベッドに腰かけて言った。
「できるよ。わたしがバレエを教えてあげる」
王子さまの顔がぱっと輝いた。そこでわたしは、王子さまの小さな手を握って、ゆっくりとベッドの上に起こしてあげた。少し咳をしながら、おそるおそる王子さまは足を床に下ろし、わたしの手を握り返した。彼の細い足は震えていたけれど、大丈夫。転びそうになってもわたしが側にいるから。
バレエの基本は、美しく立つこと。先生に習ったことを、わたしは王子さまに教えてあげた。一つずつできることが増えるたびに、王子さまが本当に嬉しそうに笑う。教えることが、教わることと同じくらい楽しいことを、わたしはその時初めて知った。
しばらく経ってから、部屋に飾られたろうそくの火が揺れて、床に落ちる影が大きくなった。わたしと王子さまがそれを声もなく見つめていると、影はやがてわたしと同じくらいの背丈になった。
影は、帰りましょうとわたしに言った。けれど王子さまは、わたしをひきとめる。
「もっとここにいて、ぼくにおどりを教えて。いてくれなくっちゃさびしいよ」
わたしも、まだここにいたかった。けれど影は、悲しげに首を振る。
「もうおしまい。ここでは時間がゆっくりと経つけれど、もうすぐこの子の大切な舞台が始まるのです」
その時やっとわたしは、バレエの本番前だったことを思い出した。影が王子様の手をそっと取って、「王子さま、お別れのあいさつを」と優しく言った。
「さようなら、ありがとう」
王子さまの美しく透き通った瞳には、うっすらと涙がたまっていた。ろうそくの火に照らされてきらきらと輝く瞳にみとれ、わたしはうなずくことしかできなかった。影がどこか焦ったようにさっとわたしを包み込み、ぼうっとしたままのわたしを城から連れ去った。
影はわたしを、来た時と同じ舞台袖にそっと降ろしてくれた。いつのまにか、わたしは元のちっぽけな女の子にもどっていた。見下ろす影は黒くてうすい手を振って、
「さよなら」
と言った。
「さよなら」
と答えた後、わたしははいていたバレエシューズをぬいで、影にわたした。
「王子さまに、これをあげて。またいつか、きっと会いに行くから。そのときにこのシューズをはいて、またおどってあげるって伝えて」
影は、バレエシューズを受け取った。
「いつかきっと、その時が来るでしょう」
またね__と影はわたしのおでこにキスをした。舞台ではちょうど一つ前の演目が終わり、ぱちぱちと拍手の音が聞こえてくる。
影と別れ、わたしははだしで舞台に出て行った。




