見てくれの人生
午前5時55分。今日もアラームが鳴る前に目覚めてしまった。私は目を瞑りながらアラームが鳴るのを待った。
午前6時。軽快なメロディーが流れ、スマホの振動がベッドを揺らす。私はそれを止めると起き上がり、机に向かった。
私は浪人している。今年の春に第一志望の大学に落ち、塾に通う金もなかったのでそれからは家で勉強している。だが最近は少しこの生活が苦しい。ペンを握ると、日に日に体力が衰えていく親に頼る自分の情けなさや、大学に受かった友人達と自分を比べて、自分の価値のなさに腹が立ってしまう。その度にため息に近い深呼吸をして目の前の問題に取り掛かっている。
だがこの気持ちは場所を弁えず頭に現れては私を苦しめる。1人の空間になるとその頻度は増し、何もかもが嫌になって机に伏してしまう。これではダメだ。勉強しなくては。そう何度も思うがその度に大学に落ちた瞬間などの嫌な記憶が蘇って私を襲う。浪人の私は社会のゴミでお荷物だとさえ思ってしまう。
今日もそんな1日だ。誰にもこの気持ちを打ち明けれず自分で何とか処理していく、そんな普通の生活だ。英語の問題集を開き、時計のタイマーをセットする。私はペンを握りノートに向かった。
午前7時30分。包丁とまな板が奏でる音楽が私の耳に届いてきた。私は自分の部屋を出た。台所では母親が朝食の準備を始めていて、換気扇の風切り音が響いている。私が「おはよう」と言うと母は笑って「おはよう。今日は目玉焼きでいい?」と聞いてくる。私は黙って頷くと居間の机の上を片付け始めた。台所からは油の上で焼かれる卵のパチパチという破裂音が聞こえる。
朝食がとれる程度に片付けると、私は何気なくテレビをつけた。テレビは街で流行っているものの特集を流しており、私と同じくらいの年齢の若者にインタビューを行っていた。
「はい。今年から大学に入学してここに引っ越してきました」
もう慣れてきてはいたが、やはりこの言葉は深く私の心に突き刺さる。春の頃の私は塾の広告や同年代の若者の活躍などの楽しそうな姿を見ると自然と涙が出るほど追い詰められていた。今も克服できたわけではないが、自分の心を黒く塗りつぶして感情を抑えることで何とか耐えている。
「はい。ご注文の目玉焼きとサービスのお味噌汁です」
母はそういうと私の前に目玉焼きと味噌汁を並べてくれた。母は父が死んでから私を女手一つで育ててくれた恩人だ。大学に落ちてから何度も生きることを諦めそうになった私を引き留めてくれたのも母だった。
「早く食べなさい。今日も朝から頑張ってたんでしょ?」
私は頑張ってなんかいない。頑張ってる奴はもうとっくに合格して今頃幸せな大学生だ。だがそんなこと言えるはずもなく私は箸を取った。
午前8時30分。皿洗い、着替え、洗顔を済ませると私は自分の机に戻った。戻る時、母が「今日も一日頑張って。私は仕事行ってくるから」と声をかけてくれた。母の笑顔は私の嫌な記憶を思い出させる。大学に落ちた時、私は1人でパソコンの画面を見ていた。そして番号がなかったことを母に伝える際、部屋から出た私を母は笑顔で待ち構えていた。いつもは私も嬉しくなる笑顔のはずだったのに。私はこの日から母の笑顔が苦手になった。
午前9時23分。私は大きく深呼吸をした。この問題が解けない。このままじゃいけないのに。このままじゃ良い大学に入れないのに。
午前10時43分。携帯が鳴った。母からの電話だろうと思って画面を見ると、そこには高校時代の友人の名前があった。急いで出ると、友人の懐かしい声がした。
「もしもし。元気?」
「元気だけど。急にどうした?」
「もし今日暇なら、会えないかなーと思って。もし無理なら断ってくれて全然いいから」
私は勉強計画と自分の進み具合を見比べた。この量なら十分週末の模試に間に合うだろう。
「いいよ。どこで会おうか」
「私の家に来ない?久しぶりに」
「了解」
そうして私は昼過ぎに友人の家を訪問した。友人とは高校時代に知り合って意気投合し、距離が遠かったものの頻繁にお互いの家を行き来していた。
チャイムを鳴らすと友人が家から出てきた。玄関をくぐると中は見慣れた友人宅だった。
「懐かしい…」
私がそう言うと、友人は笑いながら私を見た。
「泣くほど懐かしかった?」
私は頬を伝う涙を手で触った。まさか自分が泣いているなど想像もしてなかった。
「先に部屋行ってて。お茶とか持ってくから」
友人に言われるがままに私は友人の部屋に向かった。
友人は今年の春に医学部に合格し、今は医学生だ。勉強ができて何でもかんでも知っていたので、私はわからないことがある度に友人に聞いていた。それに友人の家は目が飛び出るほどのお金持ちで、天と地ほど差がある私と友人がなぜ接点を持てたのか今でも理由がわからない。
「どう?部屋も懐かしくて泣いちゃった?」
「泣くわけない。むしろ部屋が汚くて涙も引っ込んだよ」
2人でこうして笑っていると、現実が遠ざかっていくように感じた。周りの闇が晴れて2人だけの空間が私の心に染み渡っていった。
「どう?大学って楽しい?」
「高校よりは自由がきいてて楽だよ。勉強することは難しいけど」
「そりゃ医学部だもん。仕方ないよ。何かサークルとかも入ったの?」
「私は結局入らなかったんだ。新歓も行けなかったし」
「そうなんだ」
「それよりそっちはどうなの?ずっと勉強?」
お茶を飲んで温まった体が一気に冷えるのを感じた。自分で言うということはこれほどまでにしんどいのか。闇が再び心を覆い、私の口はぎこちなく動いた。
「うん。ずっと勉強」
「1人で?」
「1人で」
「やっぱりすごいよ。1人で勉強できるのは」
全くすごくない。
「本当にすごい。誇っていいと思う」
やめてくれ。
「もし自分なら絶対にできないと思う」
そんなの私だって同じだ。好きでやってるわけじゃない。これをするしかないんだ。
「でも、1人で勉強してても1人じゃないから」
その一言を聞いて私は友人の顔を見た。友人は微笑んでいた。
「1人でしんどいと思っても、絶対に1人じゃないから。しんどい時はいつでも連絡してきて大丈夫だよ。高校の時は近くに友達がいたから乗り切れたんだと思う。だから今も誰かに頼らないとだめだよ?」
私は涙を堪えようとしたが、堪えられなかった。次々と目からこぼれ落ちる涙を拭いながら私は何度も何度もお礼を言った。それは目の前の友人に対しても、ここにはいない自分を支えてくれている人に対してでもあった。
私たちは何時間も話し続け、いつしか空は赤くなり始めていた。友人が教えてくれる大学生活はとても華やかで私も早くそこへ行きたいと思った。そんな時、玄関のドアが開く音がした。
「帰ってきたみたい。ちょっと行ってくる」
そう言うと友人は玄関へと向かっていった。友人の親とは何度も話したことがあるから他人というわけではない。一応挨拶に行った方がいいかと思い、私も玄関へと向かった。
部屋を出ると、玄関のほうから友人とその母親が口論している声が聞こえてきた。
「あんた、遊んでて大丈夫なの?せっかく医学部に入ったのに勉強しなくてどうするの」
「だから今日ぐらいはいいでしょって言ってるの。いつも勉強してるんだから今日ぐらい…」
「何言ってるの。立派なお医者さんになるためには今のうちから勉強しなくちゃいけないのよ。将来のために、今頑張りなさい。ご近所の方も期待してくださってるんだから」
「お母さんにとって子供は自慢の道具なの?」
「そんなこと言ってないでしょ」
「そんなこと言ってるよ。お母さんはいっつもそう!子供の自由を奪ってまで自分の思い通りにしたがる!」
「いきなりどうしたの。ちょっと、待ちなさい!」
廊下を駆けてくる音が近づいてきた。私は急いで部屋に入り、何事もなかったかのようにくつろいでいるふりをした。ドアが開き、涙目になっている友人が入ってきた。私はどう声をかければいいか迷いながら、座り込む友人の肩に手をやった。
「どうしたの?大声が聞こえたけど何かあったの?」
白々しく聞く自分に不快感を覚えながら、私は友人の顔を覗き込んだ。
「何でもない」
そう呟く友人を見て、私はさっきかけられた言葉を思い出した。
「大丈夫。1人で悩まず、今ここにいる私に言ってみて。絶対誰にも言わないから」
友人は赤くなった目をこすりながら私に打ち明けてくれた。
友人は幼少の頃から親に、勉強して良い大学に入るよう言われ続けてきたのだという。その結果、友人は周りより勉強ができるようになり、高校では友達と遊ぶことも許されたそうだ。しかし、勉強ができるようになってしまったせいで親は医学部を受験するように強く勧め、そうして友人は医学部に合格。大学に入学してから親はより友人に勉強を強いるようになり、サークルに入ることを許されなかったという。
友人宅からの帰り道。私は手の甲にある乾いた友人の涙の跡を触った。私は、医学部に合格した友人が幸せな生活を送っているものだと思っていた。しかし、豊かな生活と医学部という肩書を手に入れている友人の姿は驚くほど貧しく見えた。友人は家で笑えているのだろうか。明日が来ることを幸せだと思えているのだろうか。
玄関を開けると母親は既に仕事から帰ってきていた。母は私の姿を見るなりどこへ行っていたか、どれだけ心配したかをマシンガンのように私に浴びせてきた。しかし最後は私を抱きしめ、「生きていてくれてよかった」とだけ言った。私は涙を見せないように自分の部屋へと戻った。
その夜。私はブラウン管テレビの前にいた。なぜかはわからない。そしてその隣に置いてあったVHSテープをテレビに差し込んで再生していた。再生されたテープには、まだ生きていた頃の父が映っていた。父は少し痩せていたことから結構病気が進行した頃のものだろう。
「皆さん見てください。これがタイプライターです」
父はそう言って手に持つタイプライターをカメラに見せた。あんなものがうちにあったかはわからないが、父はとても嬉しそうだ。
「これは骨董品屋に置いてあったものを譲ってもらったんです。全く使えないそうですが、子供の頃から憧れていて本当に欲しかったので悲願が叶いました」
父はタイプライターの文字を押すが、全く動かない。唯一動くのは内蔵されたベルのみだ。
「この音が出ているだけで満足です。正直言うと、音が鳴らなくてもそこにあるだけで満足だったんですがね」
笑いながらタイプライターをいじる父の姿でビデオは終わった。そして終わると同時にあの軽快な音楽が頭に響いた。
午前6時。私は目を覚ました。しかしそれはいつもとは違った。私はスマホを開くと一心にメッセージを打ち込んでいた。
「誰に何を言われても自分の好きなことをやって。私はそれがなんであれ絶対応援するから。周りの目を気にせず自分が幸せだと思える方向に進んで」




