第96話 オーロラの声
「これは、君の映像記録の中の音声だけを抽出したものだ。」
エレナは1つの音声データを再生する。
直後、研究室に物凄い雑音が満ちる。
砂嵐のような耳を刺すノイズ。
だが、その奥に微かな何かが混じっていた。
「分かった?」
「ええ。何か、声のような?」
ルナは首を傾げた。
「最初は、私も電磁波によるノイズかと思ったんだよ。」
エレナはキーボードを叩き、波形を拡大表示する。
「だがね、この部分を更に解析した。」
画面に細かな波形が浮かび上がる。
「よく聞いていて。」
再生ボタンをクリックする。
「―ルナ。―。ワタシハ―。アイル―」
「なっ!?」
ルナは全身が凍りついた。
驚きのあまり、手にしていた紅茶のカップを取り落す。
「そうなるよな」と、エレナは落ち着いた声で言いながら、ふきんを取り出してこぼれた紅茶を拭き取る。
「私も初めて聞いた時、同じ顔をしたよ。」
新しい紅茶を淹れながら、エレナは続けた。
「偶然の雑音ではない。周波数も、リズムも、人の発声構造と一致している。」
そして、またも黒い駒を動かした。
コツリ、と乾いた音が響く。
「君が見たオーロラから聞こえた音。これは、アイルの声だった可能性が高い。」
ルナは言葉を失い、濡れたチェス盤を見つめたまま、動けずにいた。
「エレナさん。アイルさんは一体、何者なのですか。」
震える声で、ルナは言った。
「まさか、エレナさんを育てたAIL10000型人工知能が人間に姿を変えた存在なのですか―。」
それを聞いたエレナは笑い始めた。
「面白いこと言うなぁ!残念。」
エレナは笑いながら首を振る。
「アイルは、ちゃんと人間だよ。私と里緒菜さんの間で、まぐわいを交わして生まれた娘だよ。まぁ、名前だけは、人工知能から取ったけどね。」
「では、このオーロラの声は何なのですか―。」
「アイルの言った通りさ。」
エレナは静かに言った。
「アイルは君を大平山天文台で抱いたと言っている。それが、君の世界では、天文台で君がオーロラに包み込まれたって現象になったってことなのさ。それ以上に説明のしようがない。」
一呼吸おいて続ける。
「こんなの、学会に発表したら、きっと笑い話だろう。だが、当事者の君には、笑い話じゃ済まないな。」
「まったくです。チェック。」
ルナは言いながら、白の駒を動かし、エレナのビショップを取り上げ、エレナのキングに迫った。
「だから、短絡的に動くなって言ってるだろ!」
エレナは即座に、黒のルークを走らせ、今しがた前に出たルナの白のナイトを始末する。
「これで言える事。そして分かった事は一つだ。」
エレナは盤面を見つめながら言った。
「君の世界とこの世界が交わり、結節し、アイルが君をこの世界へ導いたきっかけは、君が7月20日に観測した、太陽フレアだったってことだ。」
「エレナさん。まだ分からないことが―。」
「分かっている。」
エレナは遮るように言う。
「9月11日の「スペーシアX」の事故、アイルの言う2年前の乗客の正体。そして、完全転移に時間がかかっているのは何故かだろう?」
ルナは黙って頷いた。
「まぁ落ち着け。順を追って話そう。えっと、何か、甘い物は好きか?」
その時だった。
「お持ちしました。」
と言いながら、麗が盆を持って部屋に入って来た。
「あぁ、ありがとう。」
「頂き物の大福ですが―。」
「ちょうどいいよ。」
「夕食会は19時からです。それまでには?」
「終わると思うけど―」
エレナは天井を見上げる。
「万一の場合には呼びに来て。でも、それまでには終わらせるつもり。」
「分かりました。」
「ありがとう。アイルはどう?」
「ネルラちゃんに抱かれて、少し落ち着きを取り戻しました。」
エレナは、それが嘘だと知っていた。
なぜなら、先ほどアイコンタクトをした相手こそ―。
「アイルが落ち着くまで、頼むよ。ウララ。」
エレナは静かに微笑みながら言った。
ーーー
麗の言った事は半分本当だ。
研究室の扉の前で、アイルは、ネルラの腕の中で小さく身をすくめていた。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
まるで、胸の中に雷が閉じ込められているみたいだった。
「大丈夫。アイル姉さん。」
ネルラが、背中をゆっくりと撫でる。
その温もりは確かに優しい。
だが、アイルの震えは止まらなかった。
(呼んでしまった。ルナを。呼ぶつもりなんて、無かった。ただ、会いたいと思っただけだった。)
あの夜。
大平山天文台の空が、緑と紫に染まった夜。
3日前に、いや、出会いはもっと前だった。月詠ルナという2つ年下の男に、ようやっと東京で触れる事が出来た。そのままアイルは、ルナという存在を大平山天文台にまで連れて来てしまった。そして、ルナを抱いて、空を見上げながら、強く願ってしまった。
(月詠ルナと結ばれたい。)
それだけだった。
なのに。
(ルナの世界と、この世界が、重なってしまった。)
オーロラは、光ではなく、扉になった。
「私が壊してしまった。」
かすれた声が、ネルラの胸に吸い込まれる。
「ルナが、壊れてしまう―。」
アイルの脳裏に浮かぶのは、怯えたルナの顔。
見知らぬ世界に立ち尽くす、小さな背中。
自分は、抱いただけのつもりだった。
けれど、その腕は、境界を越えてしまった。
「アイル姉さん。」
ネルラは何も言わず、ただ強く抱き締める。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「お父様、ルナが本当は別の世界の人で、この世界へ来てしまった事を知っているのかな。」
ぽつりと、アイルが言った。
ネルラは一瞬、言葉に詰まる。
「エレナさんなら、きっと―、分かってる。」
「でも―。」
アイルの声は、震えていた。
アイルは、ネルラの服をぎゅっと掴む。
初めて知る感情だった。
後悔。
恐怖。
そして、誰かを失うかもしれないという予感。
窓の外では、夕暮れの空が静かに色を変えていく。
あの夜のオーロラのように。
だが、今はもう、美しくは見えなかった。
光は、祈りではなく、問いになっていた。
(私は、してはいけないことを、してしまったの?)
アイルは、答えのない問いを胸に抱いたまま、ネルラの腕の中で目を閉じた。




