第95話 盤上の真実
ルナは白い駒を握ったまま、胸の奥の鼓動が収まらなかった。
目の前のエレナは、チェス盤の黒い駒を指で軽く弾き、紅茶を一口飲む。
「この世界へ君がどうして転移して来たのか。その理論だが、これはあくまで仮説である事は承知してくれよ。」
仮説と言いながらも、エレナの声には教授のような静かな力があった。
ルナは再び、視線を盤上に落とす。
駒たちはただの木片のはずなのに、今は何か象徴的な意味を帯びているように思えた。
「えっと、理論ってどういう?」
小さく尋ねるルナの声に、かすかな震えが混じる。
「かなり難しい話になるかもしれないが―。」
エレナは黒のナイトを盤上で小さく跳ねさせた。
「君の世界とこの世界がどう繋がったのか。いや、正確には、アイルと君が、どうやって出会ったのかだ。因果と時間の観点から考えれば、ある程度の理解は出来るはずだ。」
ルナは息を呑んだ。
頭の中では、H3ロケットのライブ中継や、過去の出来事、人工知能の話が渦巻く。その全てが、この小さな研究室に収束しようとしていた。
「分かるように、教えてください。」
その一言に、これから始まる説明の重みと、未来を受け止める覚悟が滲んでいた。
「よし。では、君とアイルの出会いから行こう。」
エレナは盤の横にノートとペンを置いた。
「君がアイルと出会った―。いや、違う。」
エレナは首を横に振った。
ルナは無意識のまま、エレナの黒い駒を一つ撃ち落とした。
「君がアイルの居るこの世界を認識したのは何年何月何日だ?」
「2025年9月11日です。時刻は必要ですか?」
「出来れば。」
「11時45分頃です。場所は、特急「スペーシアX5号」の車内で、東武日光駅の場内信号機を通過しておりました。その時は、景色に何の変化もありませんでした。」
ルナは一息置いて続ける。
「その後、駅前の土産物屋の食堂で昼食を取っていたところに、アイルさんが現れました。駅前広場に出ると、1968年に廃線になった、日光軌道線が走っている光景を見て―。おかしいなと思いました。それが最初です。」
「一方で、アイルが主張している出会いは2025年7月20日だ。こちらの時刻は不明。その日、君はどこで何をしていた?」
「高校で、大学教授の手伝いをしながら、太陽望遠鏡を覗いていました。その際、太陽フレアを観測しました。」
「君の論文の中にあった物だね。」
エレナは言いながら、ノートパソコンを開く。
画面には、スキャンされたルナの論文が映し出されていた。
ルナが7月20日に観測した太陽フレアのデータも、克明に記録されている。
「では、ここに、霧積博士が9月11日に筑波山観測所で観測した、太陽フレアのデータを重ねてみよう。」
エレナは表計算ソフトを立ち上げながら、霧積博士が9月11日に観測した太陽フレアのデータを見せ、それを、ルナが7月20日に観測した太陽フレアのデータと重ねる。
表計算ソフトの画面に、二つのグラフが並ぶ。
次の瞬間、ルナは息を止めた。
2つのデータは、ほとんど完全に一致したのだ。
「同じ太陽フレア?」
「そうだ。」
エレナは言いながら、ルナの白い駒を盤上から取り上げた。
盤上には、黒い駒だけが残った。
ルナはその光景を見つめながら、言葉を失った。
「同一の現象が、異なる日付で観測されている。ここに、君とアイルの時間のずれがある。」
エレナはノートとペンを用いて簡単な計算を書き付ける。
それは、ルナの観測した太陽フレアが、この世界で観測されるまでに生じた、日数の差だった。
答えは53日。
それは以前、エレナとの電話会談で聞いた事である。
「この差は、太陽暦と太陰暦の差とほぼ同じという事は、前に話したな。」
エレナは淡々と言う。
「ええ。」
「もう分かっていることを繰り返してどうすると思うかもしれないが、改めて検証することで、君の方から何か新しい考えが浮かんでくるかもしれないからね。」
ルナの心を読むような言い方だった。
やはり、人工知能に育てられた人間だからだろうか?
そんな考えが脳裏を過る。
「だが、これはまだ紙の上の計算に過ぎない。太陽フレアのデータも、偶然似たような物が観測された可能性も否定できないからね。」
エレナはノートパソコンを操作する。
キータッチ音が無機質に響く。
「さて、こちらは君が7月23日に観測した、オーロラ爆発の映像だ。」
画面に映し出されたのは、紫と緑の光がうねる異様な空だった。
「アイルの話では、この日、君を天文台に連れて行き、そこで君を初めて抱いたと言うな。」
エレナは一瞬、視線を遠くに飛ばした。
その先に居る誰かと、無言のアイコンタクトを交わしたようにも見えた。
「このオーロラ爆発の映像には、私も驚いた。霧積博士も同じだ。しかし、これは学会には出せない。」
「異世界で観測された物だからですか?」
「違う。」
エレナは首を横に振る。
「異世界のものであっても、ここまで鮮明なオーロラ爆発の映像は極めて貴重だ。発表すれば、学会は大騒ぎになるだろう。」
「では―?」
「里緒菜さんがこの庄屋の帳簿付けに使っている大型電算機と、私がこの世界に来た時に乗っていた実験自動車のコンピューターを用いて解析してみたところ、とんでもない物が見つかったのだ。」
エレナは解析結果を画面に表示した。
並ぶ数式と波形は、まるで盤上の駒のように一つ一つ意味を持っているようだったが、あまりにも難解だった。
「オーロラには音があるのは知っているね。」
「ええ。オーロラから出る電磁波が、電場や障害物の影響で音波に変換される物だと考えられています。ただし、高高度の現象ですから、地上に届くまでには大きなタイムラグが発生するはずです。」
「そこまでは聞いていない。」
またも、エレナの黒い駒が跳ねる。
「この映像のオーロラは、君の真横で発生している。」
「はい。」
「君が観測した天文台の標高は?」
ルナはオーロラ爆発を観測した、堂平山天文台の場所と標高を思い出す。
「標高876mの山にある天文台です。」
「おいおい。この時点で、おかしいと思わないか?」
「思いました。何しろ、空からオーロラが降ってきたのですから。富士山の山頂でもこんな現象は観測不能です。それに、もしこんなオーロラが発生したら、東京都内はあらゆる電子機器は全てぶっ壊れ、大惨事になります。」
ルナは自分が無知だと言われたような気がして、思わず語気を強めた。
「いかんなぁ。すぐムキになる。」
エレナは小さく笑った。
「気短かだな君は。」




