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第94話 研究室のチェス

「大体の予想通りの展開になったな。明日、いきなり結婚式。それも、当人に伝える事無くね―。」


 エレナは言いながら、ポットに向かう。


「里緒菜さんから聞いているが、君は紅茶派だったな。私も同じだよ。」

「でも、好きな茶葉とかは分からなくて―。」

「なら、和紅茶を淹れよう。えっと―。」

「お砂糖は入れます。」

「うん。分かった。」


 エレナは紅茶を淹れ、ルナの前に置く。

 香りがふわりと漂い、ルナの胸の中で緊張と不安が少し緩む。

 ノートパソコンの映画を止めたエレナは、ルナの向かいに座ると机の上にチェス盤を置いた。


「チェスは好きか?」

「ルールなら―。」

「それで十分だよ。」


 ルナは盤面を見つめる。

駒が整然と並び、静かにルナを挑発しているようだった。


 どうも、エレナの意図が掴めない。一つだけ分かるのは、アイルや里緒菜たちとはどこか一線を置いた存在だと言う事。


「コンコン」と、扉をノックされた。エレナが扉に向かう。


「エレナ。あの―。誰か逃げて来なかった?」

「-。さぁ。庭の方で物音がしましたが―。」


 里緒菜はまっすぐ、エレナの目を見る。


「ちょっといい?」


 里緒菜はエレナを廊下に誘う。


「分かってますよ。」

「でしょうね。私の嘘が里緒菜さんに見破られなかったことは、一度もありません。ルナには、知る権利があります。」

「-。」

「私は、アイルの幸せと、ルナの幸せを―。二人が結ばれる事が幸せであるなら、それでいいのです。しかし、真実を知らぬままこの世界へ転移してきたらしきルナに、真実を話さないで良いのでしょうか?」

「-。」

「里緒菜さん。私は、里緒菜さんに助けられた身です。同じ境遇にあると思われるルナを、放っておくことは出来ません。」


 里緒菜は静かに頷く。


「嘘が付けない。それは、エレナの強さであり弱さね。」

「はい。私は、弱虫なのです。」

「うん。知っている。この家で最も、弱虫で、泣き虫。真実は、時に人を苦しめることもあります。行き過ぎた知能は世界を破壊する事もあります。ルナにとって真実は、原子爆弾よりも恐ろしいものにもなりえます。そうなった時、エレナはルナにとって、オッペンハイマーやアインシュタインのような存在になってしまうでしょう。それでも、話すのですか?」

「-。」

「分かりました。ですが、これだけは約束してください。最後の選択は、アイルの前でと―。」

「約束するまでも無いです。ルナはそういう男であると見ました。」

「アイルは暴走してます。ルナを失ったと泣き喚いて―。鉾根と麗ちゃん、それからネルラが必死に抑えております。私の方から、アイルには伝えます。」

「よろしくお願いします。」


 エレナは頭を下げ、研究室に戻った。


「あの?」


 ルナはガラスの笛のような声を出す。


「最初に言っておく。私は君の味方だ。」

「-。」

「私は、君の正体も知っている。そして、君が何を考えているのかも、今後、どうすれば良いかのヒントくらいなら出せる。だが、真実と言う物は時に君をも壊すことになる。それでも、聞きたいか?」


 ルナの手は震えていた。手のひらの汗が、ティーカップの中に落ちる。

 スマホを見る。H3ロケットのライブ中継は、静かに沈黙したままだ。


「もう、逃げたくないです。」


 その言葉が、ルナの胸の奥から溢れた。

 自分でも驚くほどにはっきりと。

 エレナはチェス盤に駒を並べ始める。

 そして、白の駒をルナの前に置いた。


「君が先行だ。未来は、先に動く者のものだからね。」


 白い駒に触れるルナの手が、少し震える。

 エレナは黒のキングを置き、エレナの冷たい視線が盤上に光る。


 ルナは盤面を見る。

 白と黒。

 星と影。

 世界と世界。


「さぁ、始めよう。」


 エレナが言う。

 ルナが白いルークを進めた瞬間、胸が高鳴る。


「エレナさん。貴方は何者ですか?」


 エレナが黒い駒を動かす。


「私は、2035年の世界から来た。」


 ルナの心臓が一瞬止まった。

 視界の端の紅茶の湯気が揺れる。


「-。」

「君の世界は何年だ?」

「2026年2月25日です。貴方は、私よりも未来の人―。」

「そう。私は18の時、この世界へ落ちて来た。そう。今から20年前のこの世界に―。」


 ルナの手が白い駒を握りしめる。身体中の血が一気に沸き立つ。


「どうして?」


 エレナの黒いルークがまた一手、白い駒を撃ち落とした。


「あっ―。」

「先走り過ぎだ。」


 エレナは鋭い。

 盤上の駒と同じく、ルナの心をも制する。


「AI。人工知能を載せた実験自動車の暴走事故だ。人工知能が事故を起こした。計算は暴走し、あらゆる物を支配した。人間の判断を超えてしまったのだ。」


 ルナは盤から目を離せず、心臓が速まる。胸の奥が張り裂けそうだった。


「私は事故の最中、私を育てた人工知能によって、時間を超え、次元を超え、この世界に落ちて来たのだ。20年前のこの世界に―。」


 白のルークが動き、ルナは驚き、駒を握りしめる。


「私は、実験自動車と共に、この町の外れにある大平山天文台に落ちた。そこに居たのが里緒菜さんだった。里緒菜さんが私を拾い、この家に運んだ。そして―」


 クイーンを一手前に進める。ルナは息を吞む。


「私はここで生きる事を選んだ。私を育てた人工知能を破壊して、里緒菜さんという人間を選んだのだ。」

「-。待ってください。人工知能を壊して里緒菜さんを選んだって―。」


 ルナは膠着した手が、白い駒をギュッと握る。


「私に親はいない。生まれた時に捨てられた。孤児だ。そして、国に売られて人体実験の被検体にされたのだ。JAXAと大学機関が集まった、ある実験のね。」


 ルナの目の前の事実が、文字通り世界を揺らす。


 JAXA筑波宇宙センターで糸川教授から聞いた、ルナには関係ないと思った人工知能による人間の育成実験の話。


 だが、今、目の前に居る存在は―。


「私を育てたのは、AIL10000型人工知能搭載コンピューター。宇宙船に使われることを目的に作られた、人工知能だよ。」


 エレナの駒が、ルナのビショップを落とす。

 ルナは目の前に居る存在に圧倒され、息が止まりそうだった。


「私はここで生きる事を選んだ。人工知能ではなく、人間を信じる道を―。それを教えてくれたのは、里緒菜さんという温かい人の心だった。」


 ルナは胸の奥で、何かが弾けるのを感じた。

 世界は重い。だが、自分も動かなければならない。


「分かりました―。聞きます。全て。」


 ルナの声は先ほどの震えを含みつつも、確かな力を帯びていた。


「では、次に。君がどうあってこの世界に転移して来たか。その理論に行こう。」


 エレナは、静かにニコリと微笑んだ。

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