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第93話 腕の外

 列車は栃木駅に着いた。


 列車の外に出て、ルナは「あっ」と小さく言った。

 乗っていた客車はルナの世界では、東武博物館の資料でしか見たことのない、豪華貴賓・展望車のトク500型だったのだ。そして、その前には、14系座席車が2両と14系ドリームカー、12系展望車が連結されている。


 先頭に居たのは、やはりB1型蒸気機関車。


(ここはやはり―。帰って来たのか。アイルさんの世界へ―。)


「あぁお母様―。」


 アイルは携帯でどこかに電話を掛ける。

 どうやら、アイルの実家のようだった。


「少々お待ちくださいね。今、お迎えが来ますから。」


 迎えが来るという言葉に、ルナは少しだけ息をつめた。

 アイルの世界へまた来られた喜びと共に、何が起こるのか分からない恐怖があるのだ。

 まもなくして、黒いTOYOTAカローラがやって来た。


「アイル姉さん!」

「ネルラちゃん!久しぶり!」


 カローラに乗っていたのは誰か、ルナには分からない。


「あぁ、えっと貴方は初めましてでしたね。私は、霧積博士の娘の霧積ネルラと申します。」


 ネルラはお辞儀をした。

 ルナも「初めまして―」とぎこちなく、お辞儀をする。


「お母さんも、里緒菜さんもお待ちですよ。」

「お父様は―」

「それが―」

「あぁ、またですか。」


 アイルは溜め息交じりに言うと「行きましょう」と、ルナをカローラに押し込み、自分もルナの隣に座る。


 ネルラはカローラを発進させた。


「どこへ?」

「私の実家よ。」

「あぁ―。皆さん、お元気で?」

「ええ。お母様は元気過ぎる程よ。」


 アイルは苦笑いする。

 巴波川沿いの、ひときわ存在感のある大きな庄屋に入ると、里緒菜が駆けて来た。


「ふふっ。お久しぶりね。」


 ルナに挨拶する里緒菜。だが、その笑みに何か裏があるように感じた。


「今日はお祝いの日だから、私も筑波から来たわよ。」


 庄屋に入ると、霧積博士も居た。


「あぁ、霧積博士。あの―。「ルナ・パスファインダー」はどうなりましたか?」


 この世界にJAXAは無いが、筑波山観測所という、JAXA筑波宇宙センターらしき所にいる霧積博士は、何か知っているかもしれないと思って聞いたのだが、「「ルナ・パスファインダー」って?」と首を傾げただけだった。


 ルナのスマホは、変わらず「ルナ・パスファインダー」を載せたH3ロケットがどうなったのかを伝えていない。ネット中継を見ようとしても見られないのだ。


 アイルの部屋に、一旦荷物を置かせてもらう。


 それでもルナは、「ルナ・パスファインダー」を載せたH3ロケットの事が気になるので、スマホだけは持っていた。

 まもなく、居間に通されると、そこには黒紋付羽織袴と白無垢がかけられていた。そして、「さぁ、試しに着てみて。」と里緒菜が言う。


「町の呉服屋から借りて来たのよ。」


 鉾根が「エッヘン!」と鼻を高くして言うが、


「手配したのは私。」


 と、麗が溜め息交じりに言った。


 だが、そんな姉妹の会話や、里緒菜の微笑みや、霧積博士の回答など、ルナにはどうでもよかった。


「一体、どういうことですかこれは。」


 ルナは怒気と一緒に言葉を吐いた。


「結婚式よ。」


 そう言いながら、アイルは何のためらいもなく赤い洋服を脱ぎ始めた。

 その動作は滑らかすぎて、人形のようだった。


「はっ?」


 ルナの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


「式は明日です。」

「何を言っているのですか―。」


 ルナはアイルと再会出来た事を喜びたいが、これはとても喜べる状況にない。

 逆にここで言わなければ、何が起きるか分からない。


「お恥ずかしがらないで。」


 下着姿のアイルが、ルナの紺に黄色のラインが入った洋服に手を伸ばす。

 ルナは反射的に逃げた。


「なんで―。」

「いきなり結婚式なんて―。あんまりです。」

「どうして―。」


 アイルは微笑みを浮かべているが、その表情が固まっている。


「言ったら逃げちゃう―。」

「言うのが筋でしょう。」

「嫌―。」

「はっ?」

「嫌―。私の中の月が無くなるのは―」


 アイルは微笑んでいる。

 だが、その表情は貼り付けた仮面のように動かなかった。

 目だけが、助けを求めるように揺れている。

 アイルはルナに襲い掛かろうという勢いだった。


「逃げて―。」


 ネルラが読唇術でルナに言う。

 今のアイルの姿は、危険だというのだ。


「ルナ―。どうして―。」


 見ると、里緒菜や鉾根、麗、霧積博士もアイルに同調している。


(危険だ―。)


 ルナは居間から逃げ出した。それが引き金になった。

 逃げた瞬間、背後で何かが崩れる音がした。


「わぁーーーっ!!」


 悲鳴に似たような叫びが聞こえた。誰の声かまでは分からない。

 とにかく、ルナの後で台風のような嵐が発生したことだけは分かった。


「戻りなさい!」


 声が四方から響く中、アイルの部屋にある荷物を持って逃げ出そうとしたが、アイルの部屋の襖を開けると、別の道から先行して来た霧積博士がいた。


「戻りなさい!」

「嫌です!」

「なら!」


 霧積博士はグレネードランチャーのような物を構え、いきなり発砲する。

 ルナは寸前で避ける。

 どうやら、網鉄砲のようだった。


(冗談だろ!?)


 荷物を回収できぬまま、ルナは庄屋の中を逃げ回る。

 だが、迷路のような庄屋の中。

 床板を打つ足音、軋む廊下。

 振り返ると、アイルの手には見慣れぬ網のような道具。

 麗の手には、鎖の付いた刃物。

 ここは家ではない。

 罠だ。

 ルナの手の中にある者は、ただ一つ。

 自分と世界を繋げる小さな板切れだけだった。

 このままでは、捕まるのも時間の問題だろう。

 だが、もう逃げ場がない場所まで追い込まれている。


「わっ!」


 足元が見えなかった。

 3段程度の階段から落ちた。

 見ると、今居る場所は、隣の蔵のような離れに通じる渡り廊下のようだった。


(ダメで元からだ―。)


 と、ルナは息を切らしながら、その渡り廊下の先にある部屋の扉を開けた。

 扉を閉めると、外の騒ぎが遠ざかった。


 振り返ると、その部屋の中には別の宇宙があった。

 奥へ進むと、机と椅子が並び、薄暗い照明が優しく部屋を照らしていた。


 部屋の中を見回す。

 天体望遠鏡。

 ホワイトボードに書かれたケプラー方程式。そして、かけられている星図。


「これは―。」


 一冊の本を手に取る。

 アメリカの科学雑誌「サイエンス」だった。明らかにこの世界の物ではない。


「-。やはり、ここへ来たか。」


 奥の方から、チェロの音色のような声が聞こえ、その方を見る。


 小型のノートパソコンの画面が見えた。その画面に映しているのは映画だった。銀色に輝く宇宙ステーションが暗闇に浮かび、スムーズに滑るように、パンナム航空のスペースプレーンが飛行している。静かな映像に、「美しく青きドナウ」の旋律が重なる。


「これは―。「2001年宇宙の旅」?」

「君も観たかね。どうも私の周囲の人で、この映画を理解してくれるのは、里緒菜さんだけでね。」


 声の主がルナの方へ振り返る。


「貴方は―。」

「結婚式の時、君に会えると言ったが、その通りになったよ。」

「-。エレナさん。」

「初めまして。月詠ルナ君。」


 アイルの父、横川エレナはルナを出迎えた。



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