第90話 過去の交差点
「立ったままでは、落ち着きませんでしょう。」
彼女は机を挟んで向かいの椅子を指す。
ルナは、状況も感情も整理がつかぬまま、言われるまま腰を下ろす。
彼女は静かに湯を注いで、お茶を淹れる。
その仕草は、どこか懐かしかった。
「2年前、いいえ。今年で3年になりますね。」
紅い洋服を身に纏う姿になった彼女は、視線を伏せたまま話し始めた。
「地球の写真―。「The Bule Marble」と言ったでしょうか?その写真を持った、一人の乗客がいました。観光準急「大樹」に初めて乗りに来たという方です」
初めての観光準急「大樹」の乗務。
そこに居るはずなのに、輪郭が定まらない。
人の形をしているのに、まるで実感が伴わない。
まるで、新月のように。
「列車にお手振りをしなければならないのですが、私は声をかけました。見送ってはいけない気がしたのです。」
彼女の言葉に、ルナは胸の奥が微かに震えた。
「「地球のようなヘッドマークを付けた大樹を見たい」と、その方は言いました。写真を見せてくれました。黒い背景に、円の中へ世界を閉じ込めたような一枚。」
あの時、鬼怒川温泉駅で白い特急が発車した後、
「そのヘッドマークを付けた姿を見た瞬間、その人は変わりました。」
彼女は微笑んだ。
「新月だった姿が、繊月になった。それから何度も「大樹」に乗るうちに、はっきりと見えるようになっていったのです。」
だが、彼女はここで言葉を区切った。
「それでも、触れることは出来ませんでした。互いに、手を伸ばしているのに。」
(あの時の声。あの時のアテンダントさんは―。)
ルナの中で、2年前の記憶が音を立てて繋がる。
「昨年の7月20日です。お母様に連れられて東京に来た時、天文台分室を覗いた時、太陽望遠鏡を覗いている貴方を見つけたのです。」
彼女はそこで、一瞬、言葉を止めた。
「声をかけたのです―。」
(まさか―。あの時の太陽フレア―。)
その瞬間、ルナの手持ち鞄が傾き、中に入っていた物が床に滑り落ちた。
「あっ―。」
ルナはそれを拾い上げようとすると、彼女が見つめる。
「それは?」
「宇宙食の羊羹です。車内で食べようかと―。」
「あぁ―。今日、でしたね。」
彼女は、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「私は、私の話をしました。今度は貴方の話を聞かせてください。あぁ、もしよろしければ、その宇宙食をお茶請けにして―。」
アイルは微笑みを浮かべる。
ルナは「ええ。そうしましょう」と言いながら、宇宙食羊羹のパッケージを開け、要領に従って、食べられる状態にする。
「そういえば、宇宙ではお水をどうするのですか?」
「それは―。」
アイルの微笑みを見たルナ。
「聞かない方が良いですよ。」
ルナは少し吹き出しそうになりながら言った。
「では、貴方の話を聞かせてください。ルナ。」
アイルの微笑み。
それは懐かしい物だった。
本来、ルナの世界には居ない、別の世界の存在なのに、どうしてこうも愛おしいのだろう?
そう思いながらルナは、故郷が無くなった事、空っぽの心を引き摺って生きていた時、「The Blue Marble」のようなヘッドマークを付けた大樹を見ようとして、2年前に大樹を見に行った時に出会ったアテンダントの事。
それを話し終えた時、ルナの中で答えに近い何かが静かに形を持ちながら、胸の奥からドクドクと何かが湧き上がってくるように思った。
(でも、あの時以降、2年間、見えなかったのはなぜ?)
胸の奥で、名前にならない思いが形を打つが、同時に浮かんだ疑問が、喉元で言葉になる前に、
「コンコン」
と、控えめなノック音が響いた。
「まもなく、「スペーシアX11号」のご案内でございます。」
時間が来てしまった。
「さぁ、行きましょう。」
アイルが微笑む。
ルナは、まだ答えを得ていない問いを胸に抱えたまま、立ち上がる。
「打ち上げ20分前。」
ネット中継の向こうの、H3ロケットのカウントダウンが、耳に入った。




