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第89話 2年前の乗客

 彼女があの乗客を見たのは2年前のことだ。


 下今市駅。

 その旅客は、そこに存在しているのに見えない。


 まるで、新月のように。


 初めての観光準急「大樹」の勤務は、下今市から東武日光へ向かう「大樹・日光71号」。しかし、その列車の乗客と思われる彼は、そこに立っているはずなのに、なぜか目が滑る。人の形をしているのに、実感が伴わない。心の中も空っぽに見える。そんな乗客を見たのは、他のアテンダントでも初めてだという。


 彼女はどうするか考えたが、次の瞬間には彼の背中に向かって歩いていた。

 2番線から鹿沼側に向けてカメラを構える、彼に向かって。


 2番線に観光準急「大樹・日光」が入線して来た。 本来ならお手振りをするのだが、彼女は一人の彼が気になった。


「あっ―。」


 彼は歩みを止めた。


「こんにちは。」


 彼女は彼にお辞儀をした。


「この列車を担当しますアテンダントの―。」


 彼女は名前を名乗る。


「あの―。」


 彼は口を開いた。


「このヘッドマークを付けた姿を見たかったのですが―。」


 声が、わずかに震えていた。

 何かに怯えているのか分からない。

 ただ、そこに居るはずなのに、輪郭が定まらないということが強く印象に残った。


「あぁ。お帰りは何時の列車でしょうか?」

「-。下今市16時47分発、特急「スペーシア日光4号」です。」

「今日のご予定は?」

「-。ずっと、大樹に乗って居ようと―。当てもない旅です。ただ、地球のようなヘッドマークを付けた、大樹を見たくて。」


 彼は一枚の写真を見せた。

 黒い背景に、円形の構図。

 その中に、世界を閉じ込めたような写真だった。

 そんなデザインのヘッドマークを付けた大樹を見たいと、その乗客は言った。


「地球をそのままヘッドマークにしてしまったような―。」


 彼は「地球」と言った。

 彼女は頭の中で今日の大樹の運行スケジュールを確認する。


「見られますよ。」


 彼女は言った。


「見られますよ。最後まで待っていてくださいね。」


 彼女は微笑むと、その乗客は半信半疑と言う様子で首を傾げた。

 初乗務の彼女の教官を務める持田の観光アナウンスに、他の旅客は皆盛り上がっている。だが、彼だけは、終始、影の中に居た。


 理由は分からない。

 だが、このまま見送ってはいけない気がした。


 それでも、その影は最後まで晴れることはなかった。


 鬼怒川温泉駅での休息時間。彼女は他のアテンダントよりも早く、ホームに出る。


 鬼怒川温泉駅1番、2番線の島式ホーム。

 3番線に停車中の客車と連結する蒸気機関車を撮影するか、或いは、今、1番線に停車している白色の特急列車に乗車して帰ってしまおうか。その狭間で立ち尽くすその彼を、彼女は見つけた。


(こんな白い特急列車、居たっけ?)


 そう思いながら、彼と一緒に、現れたようにも思える白い特急列車を横目に、

 彼女はその乗客に向かって歩み寄る。

 東武ワールドスクウェアのテーマソングをアレンジした「夢のワールドスクエア」の発車メロディーが流れ始めた。


「特急列車が発車した後、機関車はここから見えます。その時、機関車のヘッドマークを見てくださいね。」


 彼女は微笑みを浮かべて言った。


「パァーン!」と、電子警笛を鳴らし、白色の特急列車が浅草へ向け発車する。最後尾1号車が目の前を通過して視界が開けた。

 特急列車の陰に居た蒸気機関車C11‐207号機が姿を見せた時、その姿はあの「地球」のようなヘッドマークを付けた姿だったのだ。


「あぁっ!」


 その乗客は夢中になって写真を撮っていた。

 相変わらずそこに居るのに掴めないような姿だった。

 だが、新月のように見えない存在では無かった。

 糸のように細い、繊月のような存在になっていた。

「ありがとうございました。」その乗客は、彼女にそう言った。


「良かった。見られて。」


 彼女も笑って答えた。

 それから2年。

 まもなく3年になる。

 彼女は今も、その乗客を見失わないでいる。


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