第87話 The Blue Marble
スマホのアラームから、「Over the Rainbow」が流れる。
ルナはいつもの朝を迎える。
前日の内に準備は終えてある。
今日は15時の特急「スペーシアX11号」に乗るので、朝はゆっくり出来るのだが、身体が勝手に起きてしまったのは、種子島宇宙センターで打ち上げの時を待つH3ロケットの事があるからだろうか?
焼かない食パンに、バターを塗るだけの朝食。
今日は、コーヒー牛乳も付けた。
今、自分が持っている服の中で一番、綺麗な服を引っ張り出し、わざわざ無意味にシャワーまで浴びて、いつでも出られる態勢を整えたのだが、アパートの無機質な部屋の中で、ルナは何もせずにいた。
「ルナ・パスファインダー」を載せたH3ロケットは、打ち上げに向けて準備をしているのに。
昼前まで、何もせずにいたが、ふと、荷物を持って浅草駅に向かった。
まだ、列車まで時間があるにも関わらず。
こんな無機質なアパートの部屋に居てもどうにもならない上、「ルナ・パスファインダー」を載せたH3ロケットは、発射台に居るのに、自分はアパートの部屋でグダグダしていては惨めに思えるからだ。
地下鉄銀座線のホームは冬でもジメジメしている。
ルナはスマホを見る。
スマホのホーム画面は、人類が最後に月へ向かった、アポロ17号が撮影した地球の写真、「The Blue Marble」だ。これ以来、月は遠くなってしまった。
(これを見た時、何かに似ていると思った。)
ルナは振り返る。
それは2年前。ルナが初めてSL大樹に乗った日の記憶だった。
2年前、空っぽの心のルナは、The Blue Marbleを眺めていた時、それが青地に白い文字が入った列車のヘッドマークに見えたのだ。
青い地球に白い雲の渦。
それは、動輪が回る姿に似ていた。
円の中に世界を閉じ込めたようなデザインのヘッドマークを付けた列車。
それが、SL大樹だった。
(地球がそのままヘッドマークになったように見える。)
そんな理由で、ルナはSL大樹に乗りに出かけたのは2年前だった。
特急「リバティーきぬ109号」に乗って初めて下今市駅に降り立って、SL展示館を見物した時、そこには、あの「The Blue Marble」のようなヘッドマークを付けたC11‐207号機がシンボルのように、絵や写真になって飾られていた。
その時、最初に挨拶したのが、持田というアテンダントだった。
「このヘッドマークを見に来た。」
空っぽの心で言ったにも関わらず、持田は笑顔で「もうまもなく入換が始まる」と教えてくれ、入換時の詳細な列車の動きや今日の機関車を教えてもらい、下今市機関区の転車台に乗って入換をするDE10を見る。それには確かに、「The Blue Marble」のようなヘッドマークが掲げられていた。
そして、一足早く、下今市駅の2番線ホームの先端に行き、ホームに入線するSL大樹を撮影しようとしたのだが、入線直前にSL大樹の後ろから、下り本線を颯爽とやって来る白い洗練された車体の新型特急の姿が見えた。それこそ当時、試運転中だった特急「スペーシアX」だった。
ルナは令和に生まれた新型特急と、遥か昔に生まれた蒸気機関車が一瞬並んだ瞬間、シャッターを切った。
そして、ファインダーから目を離すと、「スペーシアX」に続いて、SL大樹が2番線に入線して来たのだが、C11‐207に付いていたのは、「The Blue Marble」のような、ヘッドマークではなく、紅い空に紺色の男体山を模り「ふたら」と書かれたヘッドマークだったのだ。
「こんにちは」と、声をかけられた。
「この列車を担当しますアテンダントの―」
そのアテンダントが誰だったか思い出せない。
しかし、新月のように、そこにあるのに見えない月のような、空っぽの心のルナには、彼女が太陽のように明るい存在に見えたのだ。
「あの―。」
ルナは口を開いた。
「このヘッドマークを付けた姿を見たかったのですが―。」
震えていた。
それなのに、アテンダントは微笑んだ。
「あぁ。お帰りは何時の列車でしょうか?」
「-。下今市16時47分発、特急「スペーシア日光4号」です。」
「今日のご予定は?」
「-。ずっと、SL大樹に乗って居ようと―。当てもない旅です。ただ、地球のようなヘッドマークを付けた、SL大樹を見たくて。」
見られないなら、帰ろうと思った。
「見られますよ。最後まで待っていてくださいね。」
そのアテンダントは微笑みを浮かべた。
彼女の言う事は半信半疑だったが、その言葉が、空っぽだった心に、初めて日の光が差し込んだように感じられた。
しかし、東武日光行きSL大樹ふたら71号、東武日光発、下今市経由の鬼怒川温泉行きDL&SL大樹ふたら72号では、ヘッドマークは違うまま。
結局見られないと思ったルナは、ずっと、消化試合のように列車に乗って過ごしていた。
アテンダント達の観光アナウンスに、他の旅客は皆盛り上がっているのに、ルナだけは、影に包まれていた。
鬼怒川温泉駅の転車台広場でも、やはりC11‐207号機には「ふたら」のヘッドマークが付いたままだった。
鬼怒川温泉駅1番、2番線の島式ホームで、ルナは3番線に停車中の客車と連結する蒸気機関車を撮影しようとしていたが、ヘッドマークが違うなら撮影もせず、乗車もせず、ここから別の列車に乗車して帰ってしまおうかと迷っていた。
そんなルナの元に、 顔も名前も覚えていない、あのアテンダントが歩み寄って来た時、東武ワールドスクウェアのテーマソングをアレンジした「夢のワールドスクエア」の発車メロディーが流れ始めた。
「1番線から、この白い特急列車が発車した後、機関車はここから見えます。その時、機関車のヘッドマークを見てくださいね。」
微笑むアテンダント。
「パァーン!」と、電子警笛を鳴らし、特急「スペーシアX」の試運転列車が浅草へ向け発車する。最後尾1号車が目の前を通過して視界が開け、スペーシアXの陰に居た蒸気機関車C11‐207号機が姿を見せた時、その姿はあの「The Blue Marble」のようなヘッドマークを付けた姿だったのだ。
「あぁっ!」ルナは思わず、シャッターを切った。
そして、「ありがとうございました。」と、お礼を言った。
「良かった。」
そのアテンダントは笑って言った。
(そうだ。あのアテンダントさんに会いたいと思ったんだ。だから、SL大樹通いを―。)
地下鉄の車内でルナは思い出した。
しかし、それ以来、ルナはあのアテンダントに会えていない。
持田や石原、小前田に聞いても良いかもしれない。
しかし、それはストーカーのようで、どうしても気が引けてしまった。
そして、いつしかそのことも忘れてしまったのに、今、また思い出した。
思い出した時、ルナは「また会えないかな?」と、あのアテンダントの事を思い始めた。




