第86話 線路の彼方で
ルナはいつもと同じ時間に目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るより前に起きてしまうのも、最近では珍しくない。
カーテンを開けると、見慣れた線路が見える。
空は曇っている。
雨が降るのか降らぬのか、はっきりしない空だ。
NHKを付けると、天気予報が流れた。東京は曇り一時雪か雨。
無意識に、日光鬼怒川地区のある栃木の天気まで耳に入る。向こうは雪だそうで、雪景色の中を行くSL大樹やスペーシアXが見られるだろう。ただし、降り過ぎたら大変な事になるが。
顔を洗って、歯を磨いて、朝食にする。
焼かない食パンにバターを塗って終わり。
これが、ルナのいつもの朝。
しかし、何かが変わり始めた。そんな気がする。
理由は分からない。
テーブルの上に置かれた切符入れを見ないようにしながら、ルナはスマホを手に今日の予定を再確認。
今日はクーリエ便のバイトを朝から夜までびっしりと入れてある。
「痛っ」
ルナは腕を抑える。
腕に鈍い痛みが残っていた。
数日前、何かにぶつけた覚えはあるのだが、その先を思い出せないまま、ルナはアパートを出た。
「パーン!」と、電子警笛を鳴らしながら、高崎線の普通列車が地平ホームへ入って行くのを横目に、ルナはバイトへ向かう。
切符入れは、テーブルの上に置いたままだった。
バイト先で今日の仕事を確認する。
今日は夕方に1本、浅草の和菓子屋から明治神宮まで行く軽トラ便があった。
その他は、学校と学校の間の書類輸送ばかり。
仕事で使う車は、もう20年以上は使っているであろうHONDAの軽バンで、トランスミッションはMT。
アイルの世界に居た時に、アイルがMT車の車や、DE10の機関士の小岩がMT車のハチロクとか言うスポーツカーに乗っていた事、東京都内をコラムシフトMT車のタクシーが走っていた事から「もしも、またアイルの世界へ行けたなら」と思ってMT車の免許を取っておいたのだが、それが思わぬところで役立った。
(アイルさんの世界で得た物が見えないところで役に立つのは、宇宙開発と同じだな。宇宙開発の技術も、見えないところで役に立つ。)
昼時、ルナは仕事の間にカップ麺で昼食にしながら思う。
カップ麺の中には、フリーズドライの野菜も入っていた。
このフリーズドライも、宇宙食の技術で作られた物だ。
夕方の和菓子屋から明治神宮までの和菓子輸送で、ルナは初めて青山通りや表参道を走った。浅草や上野と言った、台東区の道しか知らなかったルナにとっては、未知なる場所だった。
これでも、アイルの世界で得た物が役に立っているのだろう。
最後の仕事を終えて、上野への帰り際に早めの夕食を食べようと思って、原宿を通ると、そこには、明るく笑う人々の賑やかな喧噪があった。
そして、山手線のE235系が走っている。
ルナは表参道には入らず、原宿駅前を通り、竹下通りを横目に走って道を間違えて、廃駅のような場所に突っ込んでしまった。
何かと思えば、原宿駅の皇室専用ホーム。
体調を崩されていた大正天皇が、東京駅からでは目立つからと、原宿に設置されたが、2001年を最後に使われなくなってしまった。
(あぁ、ここが。)
ルナは感心しない。
今のルナは、お召列車に乗っても良いと言われても、喜ばない。
空っぽの心を引き摺って生きているだけ。
何とかして上野まで戻って来たが、結局夕食を食べられなかった。
ルナは凝りもしないで、入場券を買って無意味に上野駅に入る。
地平ホームへ行こうとしてやめた。
また、ブルートレインが停車しているプロジェクションマッピングに騙されて堪るかと思ったのだ。
「13番線に停車中の列車は、19時03分発、寝台特急―。」
(うるせえ。)
ルナはイヤホンを付けて地平ホームを去る。
意味も無く、上野駅を歩き、エキナカで駅弁を買う。
2年前、消えてしまった群馬県という生まれ故郷で売っている駅弁を買って、家に向かう。
(何も成長していない。)
ルナは思う。
2年前、両親の死や、故郷が消えたと思った時、空っぽのルナは、とある一枚の写真を見て、SL大樹が走る日光鬼怒川地区へ向かった。
空っぽのルナの目が捉えたのは、SL大樹とスペーシアXが並んだ瞬間だった。
その後、何度もSL大樹に乗るため日光鬼怒川地区へ行っているが、同じ物が撮れない。そして、もう一つ、何かが引っかかっている。
その引っかかっている物が、SL大樹通いのため日光鬼怒川地区へ行く要因になっていると思うのだが、思い出せない。
帰宅した時、スマホに通知が来た。
種子島宇宙センターで「ルナ・パスファインダー」を載せたH3ロケットが、打ち上げ準備を開始した。
今、燃料が注入され始めた。打ち上げ予定日は明日、2月19日で変更無し。
ルナの視界に、切符入れが入った。
切符の日付。明日、2月19日の予定は無し。
ルナは無意識の内に、準備を始めた。
線路の彼方にある、決断の旅の準備を。




