第77話 喪失した世界
ルナは、アイルの世界に居た時に言った通りの日常を送っていた。
1月に少しだけ高校へ行った後は、3月まで、3年生で高校に来る用事のある者以外は登校する必要も無い。卒業試験もすでに終わっている。
ルナは東京都内の自動車教習所に入り、合宿で普通自動車免許の教習を受ける事にした。
最初はAT限定でも良いかと思ったが、申込用紙を前にしてペンが止まる。
(マニュアル車―。)
アイルの世界で見た機関車の運転台。
レバーを握り、鉄の塊を動かしていたアイルの仲間達の姿が脳裏をよぎった。
(MT車にも乗れた方が、何かと便利かな。)
そう思い、ルナは「MT車」に丸を付けた。
初日の実技教習は散々だった。
クラッチの加減が分からず、エンジンは何度も止まる。
「落ち着いて。ゆっくりでいいですよ」
教官の声に促され、アクセルを踏み、そっとクラッチを戻す。
ガクン、と車体が揺れたあと、ゆっくりと前へ進んだ。
(―。動いた。)
その感覚が、胸に残った。
ディーゼル機関車でも蒸気機関車でもない、小さなエンジン音。それでも、自分の操作で機械が動くという事実は、アイルの世界を思い出させた。
教習所のコースを回るたび、ルナの運転は少しずつ安定していった。
数日後、検定の日。
ハンドルを握る手はわずかに震えていたが、不思議と心は落ち着いていた。
結果は合格だった。
府中免許センターで受けた学科試験も、一発で通った。
交付されたカードには、「月詠ルナ」と印刷されていた。
その文字を見て、ルナは小さく息を吐いた。
免許証を持つという事は、この世界で生きていく証のように思えた。
アイルの世界は幻だったのかもしれない。
だが、胸の奥に残る温度だけは、現実だった。
それは、ルナという「スペースシャトル」を宇宙へ送り出すための、補助ロケットのようなものだった。
補助ロケットによって上昇する力を得たスペースシャトルは、やがて自分のエンジンで飛び続ける。
ルナも同じだ。
アイルの世界で得た物、アイルとその周りの人たちと過ごした時間。
それを社会という宇宙へ向かって飛び出すためのロケットと位置づけ、ルナは今日も生きる。
車を買う事も考えたが、さすがにまだ手は出なかった。
どうせ、ルナの世界の日光でSL大樹の観光アテンダントになった後でも、車は買える。
だからこそ、残された東京での時間を充実させようと思った、その時だった。
ルナのスマホに着信が入る。
画面に表示された名前は、糸川教授だった。




