第5話 鬼怒川温泉
下今市から鬼怒川温泉までSL「大樹ふたら72号」と思われる列車を牽引したのは、B1型の5号機関車だった。
そして、下今市駅では機関車の後ろにもう2両客車を繋ぎ、客車は6両編成になり、車内アナウンスはSL「大樹ふたら72号」と言わず、準急「大樹ふたら72号」と言い、この列車は鬼怒川温泉に着いた後、折り返しで浅草行きの特急列車となるという。
ルナは時刻表を出して、何がどうなっているのか探ろうとするが、何も分からないまま、鬼怒川温泉駅に到着してしまった。
「さぁ、行きましょう。」
と、アイルはルナの手を取って、ホームを歩く。
アイルに手を取られたルナは、鬼怒川温泉駅の状況をしっかりと把握できないまま、改札口を出て、駅から5分程度歩いた大戸旅館と言う旅館に連れて行かれた。
「アイルちゃん、お帰りなさい。」
と、女中が言う。
「ただいま戻りました。こちらが、私と婚約しました、月詠ルナです。」
と、アイルは女中にルナを紹介するが、なぜアイルはルナのフルネームを知っているのだろうか?
「お月様に由来する苗字とお名前が素敵な方ですね。」
「ええ。一目お会いしただけで、私、惚れてしまいました。」
(何を言っているのだ?)
と、ルナはその会話を聞きながら思う。
身体的特徴は、色白に女性に間違えられる事もある美形だが幼い顔付き。
不摂生なれど、趣味の旅行や鉄道旅に出る前には特に身だしなみには気を付けており、無精ひげ等一切生えていないし、風呂にもしっかり入っているから、変な臭いも発生することは無い身体のルナだが、それだけで一目惚れするとは考えられない。
「さぁ、こちらです。」
と、アイルに案内されるまま、ルナは貸切風呂に入る。
貸切風呂には脱衣所と2つの洗い場に半露天風呂という物で、当初行く予定だった日帰り入浴の施設とは比べ物にならない程充実した設備だ。
(まるで分からない。一つ言えるのは、ここは鬼怒川温泉ではあるが、ここに来るまでの列車、例えば蒸気機関車の形式、SL「大樹ふたら72号」の運行形態、すでに引退している東武の車両の出現。これは明らかに異常だということ。B1型の5号蒸気機関車。細かく言えば、元国鉄5500型蒸気機関車だが、それが現在、現役で動態復元されたという事例は全国的に見てもない。東武博物館のB1型蒸気機関車の5号は確かに走行部が可動状態に整備されていて、1日4回程度、汽笛吹鳴や車輪の回転が行われているが、それは圧搾空気を用いた物だし、そもそも博物館の屋内に居り、本線走行は不可能だ。そんな蒸気機関車が、なぜ走っているのか?)
温泉を堪能しながら、ルナは思考を巡らせる。
(スマホは使える様子だ。しかし、周辺の状況が一変している。日光軌道線や、既に引退し、存在しない車両の出現。そして、あの紅い着物の女の子。アイルと言ったか。それはどうでもいい。問題は、今この現状だ。俺はまず、スペーシアXの車内で急激な眠気に襲われ、そのまま眠り込んでしまい、東武日光に着いてしまった。するとこの状況だ。つまり、スペーシアXに乗っている間に、世界その物がそっくり移り変わってしまった。量子力学の「多次元解釈」か?量子力学は、シュレディンガー方程式と言う思想実験の分野だが、極論するならば、世界は一つにあらず、多数の並行世界が存在し、並行しているが故に交わらず、知覚するすべも、存在を知る術も無い。だが、何らかの方法で、別の世界にある物が自分たちの世界へ出力させることが出来るとしたら?まさか―。スペーシアXでの急激な睡魔と言うのは―。)
ここまで来た時、ガラガラと脱衣所の扉が開く音が下。
「失礼します。ルナ。お背中流させていただきますね。」
振り返ると一糸まとわぬ姿でアイルが居た。
「なっ!?」
「あら?私は貴方の婚約者。故に、これくらい普通でありますよ?」
「自分は嫌です。それに、もう身体は洗いました。だから湯船に浸かっているのです。」
当たり前の話だが、最近では身体も洗わず、湯船へいきなり入る連中もおり、迷惑していると聞く。
ルナはそうした常識は弁えている。
「あっそうでしたか―。では、私も一緒に入らせていただきますね。」
「混浴は趣味ではないです。」
本気で言った。
「恥ずかしがらなくて良いのですよ。ああ、なんなら、私の背中、流してくださいな?って、これでは本末転倒ですね。」
アイルは笑いながら身体を洗うと、ルナの隣に入って来た。
(こんな風俗屋みたいな温泉旅客なんか、二度と近付かんぞ!今度からSL乗ったら即、折り返してやる!)
と、ルナは思った。




