第53話 アイルの家
アイルの家は、ルナが日光鬼怒川地区への就職後に住む事になったアパートの場所にあった。つまり、ルナが引っ越す先はアイルの家という事になっている。
木造平屋建ての一軒家にアイルは住んでいた。
だが、アイルの家はルナの住まい以上に暗く冷たく感じられた。
千本ものナイフを身体に突き刺されるかのような冷たさの部屋の空気はまるで、氷山が浮かぶ北極や南極の海に入ったように思われ、また、薄暗い蛍光灯は漆黒の闇に浮かぶオーロラのように見えるのだ。
そして、アイルが淹れてくれた紅茶でさえ、温かいのに身体の中から冷えて行くようにさえ感じる。
(このままここに居てはいけない。直ぐに逃げなければ―。)
本能からそう感じたルナは、逃げ出そうとする。
「逃がしませんよ。」
アイルはルナの手を掴んだ。そこから更に冷たい冷気がルナの身体に流れて来る。
「ルナ。宇宙の話をして。」
「えっ?」
「ルナ・パスファインダー。」
ルナは仰天した。
糸川教授からの連絡の際、ルナから「ルナ・パスファインダー」の名前を言ってはいない。新型月探査機の事は辛うじて、例の論文に載せたがその時点でも「ルナ・パスファインダー」の名前は決まっていなかったので「新型月探査機「かぐや2号」(仮称)」としたのだが。
「お父様の論文を盗み見したのです。ルナ。貴方の名前を名乗った宇宙船が生まれて、まもなく月へ行くと書かれておりました。その他にも、貴方が私と出会ったと認識した時の事も、事細かく書いてありましたね。」
「-。」
「その時、お父様は言われました。ルナは現実が見えていないと。」
「-。」
アイルは微笑みながら言うが、やはりナイフのように冷たい笑みで、下手に触れたら切られてしまいそうだった。
夕食を食べた後、アイルはテレビを付ける。
アメリカのアニメで、ネコとネズミの巻き起こすドタバタ劇だった。
追いかけっこの最中、ネコが引っ張っていた絨毯に釣られて落ちて来た家電に潰され、ネコは長い長いエスカレーターで天空へ運ばれ、天国行きと書かれた列車の駅に着くが、車掌から「罪のないネズミを追いかけ回す一生では乗せられない。許しの証明書にネズミの署名を貰って来い。残り時間は90分。失敗すれば、犬の糞に塗れた恐ろしい地獄行きだ。」と言われる。どうにかしてネズミから署名を貰おうとするが、上手くいかず、終いには証明書を破られてしまう。何とか貼り合わせたがついに間に合わず、ネコはネズミの目の前で地獄へ落とされ犬の糞に塗れて犬に食い破られるが、それは全て夢だったという話だった。
「今のルナにはいい内容ね。」
と、アイルは言う。
「自分が現実を見ていないと?もし、自分があのネコのように、覚めない夢ばかり見て、現実を見ようとせずにいて地獄に落とされたというのなら、アイルさんは犬の糞まみれの汚い女ですよ。」
「そうですか。」
「自分には、アイルさんがそんな姿に見えません。これもまた、自分が現実を見ていないという事でしょうか?仮にそうだとしても、貴女をそんな汚い姿にしたくはありません。」
違う。
ルナの目に映るアイルの姿は地獄の獄卒、或いは魔女のようなのだ。
「ルナ。貴方は既に死んでいる。そう聞いたら驚く?」
「-。」
「お父様が貴方の論文を読んだ時の感想。ルナは死んでいる。」
「-。」
「分からないの?ルナ。貴方と私の、いや、私達との会話。特に、科学の分野において、或いは列車の名前について、食い違いがある事に気付いていないの?」
ルナは首を横に振った。
そして「理由が分からない」と言う。
「アイルさん。自分は7月20日に太陽フレアを―。」
「その太陽フレアを見たのが私との出会いであり、堂平山天文台という場所でオーロラに包まれたのは、私が大平山天文台で貴方と最初のまぐわいを交わした時だった。そして、9月11日の旅で貴方が日光鬼怒川地区へやって来た時、貴方は私の世界へ転移して来た。そのために、貴方は「スペーシアX」の脱線事故を認識できない。」
アイルはテレビのチャンネルを回す。
直ぐにニュース番組になった。
2025年9月11日の「スペーシアX5号」の事故のニュースだった。
「本日、「スペーシアX」脱線事故の犠牲者の身元が明らかになりました。亡くなったのは東京都に住む月詠ルナさん18歳―。」
ニュースキャスターが伝える内容は、ルナの死だった。
「また、死因は脱線事故による物かと思われましたが、その後の捜査において、死因は急性心不全と判明し、事故との関連は無いと思われます。」
「なんだこれは―。」
ルナは何が何だか分からなかった。
現にルナは生きている。
そして、今も、日光鬼怒川地区の下今市に居る。
だが、その日光鬼怒川地区は本当に日光鬼怒川地区なのか?
いや、アイルが東京にやって来た際、東京駅や上野駅、国立科学博物館、浅草寺と言った場所にも行ったが、本当にそこは東京駅や上野駅だったのだろうか?
2025年の東京駅には一応、285系寝台電車による寝台特急「サンライズエクスプレス」は来ているが、EF65電気機関車が牽引するブルートレインの寝台特急の発着は無い。そもそも、JR東日本のEF65は2025年初頭に「全車両が廃車」となり、長野総合車両センターに運び込まれた挙句、部品を外されもう走る事は不可能な状態になっている。そして、ブルートレインの客車も全車両廃車になっている。それにも関わらず、EF65の牽引するブルートレインがやって来たのはどういうことなのだ?
そして、アイルが日光鬼怒川地区へ帰った後の上野駅も、EF80が牽引するブルートレインがやって来ているのはどういうことなのか?
考えられる事はタイムスリップであろうが、上野駅や東京駅、そして、日光鬼怒川地区も全てが過去の物になってはいない。
そうした状況から考えられる事。
それは、異世界転移だ。
それも、ルナの生きる現代日本とほとんど並行して存在している次元に存在するが故に、微妙にルナの世界に近く、また、微妙にルナの世界と異なる性質を持っているが故に、ルナは異世界転移と気付くのに時間が掛ってしまったのだ。
「そんな―。いや、有り得ない!」
「では―。」
アイルはスルスルと着物を脱ぎ、自らの裸体を見せ付けながら、ルナを抱き寄せる。
「この身体に触れられるのはどういうことなのでしょうか?」
「夢だ!」
「夢では無いでしょう?身体の温もりを感じられるのですから。なんなら胸に耳当ててみてくださいな。」
アイルはルナの耳に心臓を押し付ける。
ルナの耳に「ドクドク」と、アイルの胸の鼓動が伝わって来る。
つまり、アイルは幻覚ではなく、生きた人間として存在しているのだ。
「そんな―。」
「これが現実なのよ。ルナ―。」




