第35話 世界の転移
ルナは「スペーシアX10号」の車内で悶えていた。
アイルにまたすぐに会いたいと言う感情が芽生えて来るのだ。
それは、まるで麻薬中毒者の禁断症状のように。
だから、ルナは昨夜の残りのお茶を飲んで落ち着こうとした。
しかし、僅かな量のお茶などすぐに無くなってしまった。
コックピットラウンジのカフェカウンターで、1本200円のスペーシアXミネラルウォーターをとりあえず購入して凌ぐ。
普通のミネラルウォーターと何が違うか、味の違いなど分からないが、日光の自然が育んだ水と言うのだから、日光連山の湧き水なのだろう。それを、スペーシアXだけのオリジナルパッケージで提供している。普通の自販機で売っている物より高額なのは恐らくペットボトル代だろうが、それを少々飲んでいる内にルナは落ち着きを取り戻した。
(アイルは―。もしかしたら日光連山に祀られている神様なのかもしれないな。だとしたら、アイルと会う時に世界が変わるのは、神様の世界を見ているということなのかな。)
ルナはそんな事を思う。
ルナの座席は1人用のソファー席で、目の前は車掌の居る乗務員室で、その向こうはフロントガラス。嫌でも、後方へ遠ざかっていく車窓が見える。
それが、ルナには寂しかったが、水を飲んだ事で少々冷静になり、流れて行く景色を見ることが出来た。
(あれっ?)
普段と何かが違う。
アイルやアイルの関係者と別れたら、世界は元の世界に戻ったのだが、今回は違う。いくら走っても、景色は元に戻らないのだ。
大谷川を渡り、下今市駅に着いた。だが、下今市駅もアイルの世界の下今市駅で、ルナの居る世界の下今市駅には戻らない。
そして、急激に身体が冷たくなってきた。
アイルにキスされた時、体内へ送り込まれた冷気が、ルナの身体の中を侵食して行くように、身体を中から急激に凍らせているように思うのだ。
(いかん!風邪引くくらいなら―)
ルナはカフェカウンターへ向かう。
見ると、コーヒーの他、「密りんごの和紅茶」や「日光みそと湯葉のお味噌汁」と言った温かい飲み物もあり、これらはコーヒーよりも少し安い。
密りんごの和紅茶は、春日部のお茶の老舗「おづつみ園」が作った紅茶で、渋みの少ない国産和紅茶と青森産密りんごのフレッシュな香りを楽しめる紅茶。
日光みそと湯波のお味噌汁は、日光みそのたまり漬で有名な上澤梅太郎商店の味噌汁で、日光の大豆と米を使った日光味噌を使用し、具には揚げ湯波と国産ほうれん草が入った味噌汁だ。
身体を温めるなら、とルナは味噌汁を頼んだ。
(なるほど。普段飲んでいる、インスタントの味噌汁如きと比べたら、ぶっ殺されるだろうな。)
ルナは一口飲んで思い、一杯500円近い値段にも納得した。
「スペーシアX10号」は新鹿沼を発車した。
車窓は相変わらず、アイルの居る世界の物と思われるが気にもしなかった。
(どこかで抜けるだろう。或いは栃木駅から里緒菜さんが乗って来るかもしれないし。)
等と、楽観的に考えていたからだ。
味噌汁を飲み終える頃、「まもなく栃木」とアナウンスが流れた。
空のカップをくず物入れに捨てて席に戻った時、身体が温まったようで、急激な眠気を感じた。
(無理もない。昨日、インバウンドがうるさくてロクに眠れなかったし。)
ルナは欠伸をしながらうたた寝してしまった。




